新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

10月29日「今日の礼拝堂」

2017年10月30日 | 今日の礼拝堂

宗教改革主日

「今週の祈り:全能(ぜんのう)の神(かみ)、恵(めぐ)みの主(しゅ)よ。あなたに忠実(ちゅうじつ)な民(たみ)に聖霊(せいれい)を注(そそ)いで、み言葉(ことば)のうちに堅(かた)く保(たも)ち、あらゆる誘惑(ゆうわく)とみ言葉(ことば)の敵(てき)から防(ふせ)ぎ守(まも)り、キリストの教会(きょうかい)に救(すく)いと平安(へいあん)を与(あた)えてください。あなたと聖霊(せいれい)と共(とも)にただひとりの神(かみ)であり、永遠(えいえん)に生(い)きて治(おさ)められるみ子(こ)、主(しゅ)イエス・キリストによって祈ります。

(礼拝堂の花です)

〇宗教改革主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ5:1-6

「あなたは幸いだ」

今日は宗教改革主日です。今年においては、宗教改革500年を記念する日であります。私たちは今日という日を迎えるにあたり、マルティン・ルターを通して伝えられた神の恵みについて、今一度、深く問い直していきたいと思うのです。

そもそも、宗教改革とは一体何だったのでしょうか。世界の歴史として見れば、宗教改革は教会の大分裂をもたらした大事件です。しかし、信仰をもってみるならば、宗教改革は教会の信仰が問い直された時であると言えるでしょう。腐敗しきっていた当時の教会、その決定的となるものが贖宥状でした。そこにルターは問うのです。恵みとはなんであるか。そもそも恵みとは私たちの行動によって変わるものであるのかと。それ故にルターは1517年10月31日に95箇条の提題(贖宥状の効力を明らかにする討論)をヴィッテンベルク城教会の門に掲示したのです。それが宗教改革の発端となりました。努力によって私たちは義とされるのではなく、ただただ信仰によってのみ義とされると述べたのです。これが信仰義認と呼ばれる教理となり、宗教改革で起こされた教会はこの教理を採用していると言って良いでしょう。

ここまではルーテル教会でよく語られることですから、多くの人が知っていると思いますし、しっかりと受け止めていると思うのです。しかし、今一度問い直したいのは、「義とされる」という神の恵みを私たちはどこまで受け止めているかということです。

私事になりますが、先週休暇をいただき、旭川に行ってきました。もちろん観光名所である旭山動物園にも行ってきました。一番驚いたのはカバの展示コーナーでした。水中のカバをガラス越しに見ることが出来るのですが、私の頭の中に描いていたものよりも、カバはカバでした。そのすぐ横にいたキリンを見ても、想像よりもキリンなのです。

私たちは頭の中に何かを思い浮かべるとき、実物よりも、どこか小さく想像してしまうことがあります。このことは、私たちが恵みを受け取る時に大きな障害となるのです。

今日の聖書箇所でイエス様は言います。「幸いだ」と。その言葉を、あなたは受け取っているでしょうか。たくさんの状況の人々に向けて、「幸いだ」と述べるイエス様の言葉を、あなたが受け取ってほしいのです。あなたに向けて「幸いだ」とイエス様は言って下さっているのです。今は苦しくても、いつか幸いとされるのではないし、何かしたから幸いとされるのでもありません。今、この時、「あなたは幸い」なんです。あなたに天の国は約束されているし、慰めを受けられるし、地を受け継ぐことができるし、満たされるのです。それは、あなたが思っているよりも、大きくて、確かな恵みであります。心のどこかでこの言葉を小さくしてしまっているのではないでしょうか。だからこそ、問い直したいのです。「あなたは幸いだ」と言って下さる神の恵みをそのまま受け止めていきたいのです。それこそが、信仰によって義とされるということでありましょう。ルターを通して伝えられた神様への姿勢を、これからも、何度も問い直しながら、信仰生活を送っていきたいと願います。 

〇11月5日 午前11時 全聖徒主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:小笠原里子姉
〇礼拝当番:出口輝子姉

〇聖書:エゼキエル37:1-14  ローマ6:1-11  ヨハネ15:1-17
〇讃美歌:142、271(1,2)、271(3,4)、337、聖餐252(1,2)
〇11月1日(水)は、中島牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています(来年の3月までは週1回、水曜日のみ)。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月22日「今日の礼拝堂」

2017年10月23日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第20主日

「今週の祈り:私(わたし)たちの主(しゅ)イエスよ。あなたは、あらゆる時代(じだい)の愚(おろ)かな批判(ひはん)や疑(うたが)いを堪(た)え忍(しの)ばれました。あなたを勝手(かって)に断定(だんてい)しようとする私(わたし)たちを赦(ゆる)し、あなたを『主(しゅ)』と告白(こくはく)する確(たし)かな信仰(しんこう)を与(あた)えてください。父(ちち)と聖霊(せいれい)と共(とも)に、あなたは私(わたし)たちの唯一(ゆいいつ)の主(しゅ)です。

(礼拝堂の花です)

〇聖霊降臨後第20主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ21:33〜44

「主がなさったこと」

『マタイによる福音書』には、ぶどう園のたとえがよく出て来ます。先週の日課(20章1〜16節)もそうでしたし、今日の日課の直前(21章28〜32節)も舞台はぶどう園です。そこには父親から「ぶどう園へ行って働きなさい」と命じられた兄弟が登場しますが、最初は反発した兄が後から考え直してぶどう園に出かけたのに対して、二つ返事で答えた弟は出かけなかった…とあります。このたとえ話しを聞いていたのは祭司長や長老たちでしたが、イエスさまは彼らに向かって明言されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」。

今日の日課のたとえ話しも、イエスさまが宗教指導者たちに対して語られたものです。「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て…」とイエスさまが語り出した時、聖書に詳しい彼らはすぐに『イザヤ書』5章の<ぶどう畑の歌>を思い浮かべたことでしょう。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。神が心を込めて創られたこの世界は、さながら神の愛であふれたぶどう畑。にもかかわらず、そこに住むことを赦され、豊かに収穫するよう期待された私たちがそこを荒れ放題にしてしまっているという現実…。それゆえ預言者は嘆くのです。「主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」と。

イエスさまが今日語られたたとえも同様です。主人が丹精を込めて整えたぶどう園で繰り返される殺人…それでも主人はあきらめずぶどう園に僕たちを送り続けるのですが、ついには息子まで殺されてしまいます。イエスさまがこのたとえ話しに、ご自身の受難を重ね合わせておられることは確かでしょう。しかし、イエスさまは十字架の死から復活されるのです。まさに『詩編』にあるように「家を建てる者の捨てた石」が「隅の親石」となって用いられ、神のぶどう園はますます堅固に、豊かに成長していくのです。私たちもこの神のぶどう園で、喜びにあふれて共に働くよう促されています。たとえ現実の社会は私たちの罪で破れていようとも、そこで神のぶどう畑を耕すべく召されているのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命のことばをしっかり保つでしょう。」(フィリピ2章15節) 

〇10月29日 午前11時 宗教改革主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:秋田直枝姉
〇礼拝当番:小川敦子姉

〇聖書:ヨシュア24:14-24  コリント(Ⅰ)1:10-18  マタイ5:1-6
〇讃美歌:450(1,2)、240、300(1-3)、450(3,4)、聖餐259(1,2,8,9) 
〇10月25日(水)27日(金)は、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月15日「今日の礼拝堂」

2017年10月23日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第19主日

「今週の祈り:主(しゅ)なる神(かみ)さま。あなたは、私(わたし)たちをあなたのぶどう園(えん)で働(はたら)くように招(まね)き、誰(だれ)ひとり空(むな)しく立(た)たせられません。私(わたし)たちにみ国(くに)の務(つと)めを与(あた)え、生涯(しょうがい)あなたの知恵(ちえ)によって歩(あゆ)ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります

 

〇聖霊降臨後第19主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)マタイ20:1〜16

「神の約束」

イエスさまは、しばしば「天の国」についてたとえを話されました。本日の福音も、その一つ。神の愛が、私たちの思いを超えてどれほど深くて広いかを示すたとえ話です。

登場人物は、ぶどう園の主人と労働者たち。主人はその日の働き手を雇うために、夜明け前に町の広場まで出かけていきました。広場には既に仕事を求める人たちが集まっていたので、主人は一日につき1デナリオンの約束で彼らを雇いました。主人は、朝の9時頃に再び広場にいき、何もしないで立っていた人々に声をかけます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と。さらに主人は昼の12時頃にも、また3時頃にも広場に出かけ、仕事にあぶれていた人たちを雇いました。主人がこの日、最後に広場に出かけたのは夕方の5時頃。そこには、まだその日の仕事を求めて立ち尽くしていた人たちがいました。主人は彼らにも「ぶどう園に行きなさい」と声をかけたのです。

さて、一日の仕事が終わり、主人は労働者たちに賃金を支払うよう監督に命じました。まず、最後に雇われた人々が呼ばれ、1デナリオンが手渡されました。1デナリオンとは、労働者の一日分の賃金です。正味1時間も働かなかった人が1デナリオン?それなら、俺たちはもっともらえる筈だ…と、午後3時組、正午組、午前9時組、そして夜明け組の人たちも期待したでしょう。しかし、彼らが受け取った賃金もみな1デナリオンでした。朝一番から仕事をした人々からは、当然不満が出ます。1時間しか働かなかった連中と、まる一日暑い中を辛抱して働いた俺たちとを、同じ扱いにするとは!至極まっとうな主張です。実際に私たちの社会でこのようなことが行われたら、労働争議が勃発するでしょう。しかし、この主人は不平を言う者に優しく語りかけるのです。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」。確かに、そのとおりでした。夜明け前から雇ってもらった者たちは、1日1デナリオンの約束でぶどう園で働いたのでした。主人は、何も約束違反はしていないのです。主人は、続けて言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と。

このたとえ話で主人にたとえられている神とは、このように深くて広い愛に満ちた方なのです。それは、預言者イザヤを通して、神ご自身が語られたとおりです。「わたしの思いはあなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なる…」。神の思いと人の思いとは、天と地ほどの差があります。それゆえ、この地に住む私たちは他人と比較することをやめて、神から与えられたすべての賜物に感謝することが期待されているのです。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とパウロが語ったように。 

〇10月22日 午前11時 聖霊降臨後第20主日
〇司式:日笠山吉之牧師
〇説教:日笠山吉之牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:青木比呂子姉
〇礼拝当番:小川照美兄

〇聖書:イザヤ5:1-7  フィリピ2:12-18  マタイ21:33-44
〇讃美歌:153(1-3)、324(1,2)、324(3,4)、199、聖餐258
〇10月18日(水)21日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月8日「今日の礼拝堂」

2017年10月23日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第18主日

「今週の祈り:神(かみ)さま。あなたの全能(ぜんのう)の力(ちから)は、恵(めぐ)みと憐(あわ)れみのうちにあります。私(わたし)たちが約束(やくそく)されたものを求(もと)め、やがて天(てん)の栄光(えいこう)に与(あず)かることができるように、あなたの溢(あふ)れる恵(めぐ)みを注(そそ)いでください。み子(こ)、主(しゅ)イエス・キリストによって祈(いの)ります。

(礼拝堂の花です)

〇聖霊降臨後第18主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ18:21-35

「赦せるか」

「教会」に向けて語られた説教の最後の部分が今日の箇所です。今日の箇所では「赦し」について語られています。そこで語られた譬え話は非常に分かりやすいものではないでしょうか。自分は赦されたのに、自分は人を赦さない。そのことの愚かさ、傲慢さが分かりやすく語られています。しかし、赦されることと赦すことの差がどれほどのものであるかを受け止めているでしょうか。

譬え話の中に一万タラントンと百デナリオンという金額が記されています。一タラントンは六千デナリオンと等価であり、一デナリオンは一日の賃金程度であるとされています。つまり、家来は自分が赦された六十万分の一すら赦せなかったというのです。いかにこの家来の心の狭さが際立っているかが分かると同時に、私たちもまた、自分が赦された六十万分の一すら赦せない小さな者であるということを指摘されていることに気が付かされるのではないでしょうか。途方もないほどの差がある赦されることと赦すこと。それは人間の心の狭さを言い表していると言って良いでしょう。

しかし、これだけ差があると分かっていてもなお赦すことの出来ない私たちがいるのではないでしょうか。だからこそ、今一度赦すとはなんであるかを考えていきたいのです。

赦すこととは罪を犯した人を無罪とすることではありません。罪は罪です。罪に対しては忠告する必要があると前の箇所(18:15-20)で言われているのですから、罪そのものを見なかったことにしてはなりません。そうではなく、罪を抱えたその人の罪を、共に抱え、共に悩み、共に生きていくほどに、愛をもって受け入れることが赦しであるのです。そのことは、十字架のイエス様が私たちに教えてくれたことです。だからこそ、私たちは愛することをもって人を赦していきたいのです。

さて、赦すことを愛することとして語りましたが、だからといって簡単に出来る事ではないでしょう。むしろ、その人の罪から目を逸らすことよりも、それを超えて愛することの方が難しいと感じるかもしれません。実際、難しいのです。私たちは罪の矛先が自分や自分の周りの人に向けられたとき、罪を犯した人に対して憎しみや怒りなど負の感情を抱くでしょう。愛することの真逆の感情をもってしまうのですから、とても難しいのです。感情を自由に操作できるほど、私たちは器用ではありません。

だからこそ、私たちは赦されたことに目を向け続けなければなりません。自分が抱えている憎しみや怒りの六十万倍の出来事を、私たちは既に赦されているのです。その赦しに目を向けるとき、私たちの内にある愛が憎しみや怒りから、少しだけかもしれませんが、解放してくれるのです。私たちはいきなり全てのことを赦せるほど出来た人間ではないでしょう。でも、それでもいいのです。いきなり完全に赦すことはできなくても、私たちが自らに起こった赦しをいつも思い起こすならば、必ず人を愛する者へと変えられていくのです。そのことに信頼して、愛をもって赦す者になれることを願っていきましょう。 

〇10月15日 午前11時 聖霊降臨後第19主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:若井裕子姉
〇聖書朗読:小川敦子姉
〇礼拝当番:小林広枝姉

〇聖書:イザヤ55:6-9  フィリピ1:12-30  マタイ20:1-16
〇讃美歌:151(1,3,4)、332(1,2)、332(3,4)、195(1,2,4)、聖餐255(1,3,4)

〇10月11日(水)13日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月1日「今日の礼拝堂」

2017年10月03日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第17主日

「今週の祈り:全能・永遠の神さま。あなたは、私たちの弱さや問題をことごとく知っておられます。あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、堅い信仰を告白できるようにしてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。み子、主イエス・キリストによって祈ります

(礼拝堂の花です)

〇聖霊降臨後第17主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)マタイ18:15〜20

「心を一つにして」

本日の福音は、罪を犯した兄弟に対してどのような態度をとればいいのかを教えてくれます。イエスさまは、言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と。罪を犯した兄弟を放っておくことなく、面と向かって忠告すること。しかも、まず最初は二人だけのところで。それは、兄弟が悔い改めに導かれるためです。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得ることになる」。私たちが兄弟を忠告する目的が、裁くことであってはなりません。むしろ、その兄弟を得るために、忠告するのです。二人だけのところで忠告が上手く受け入れられなかったら、ほかにもう一人か二人の人を一緒に連れて行って、それでも聞き入れてもらえなければ教会に申し出て…あきらめずに、愛をもって忠告するのです。その兄弟が罪にとらわれたままにならないように、一匹の迷い出た子羊となってしまわぬように。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない。」

私たちはしばしば罪を見過ごしてしまいます。兄弟姉妹が犯した罪を見なかったことにしてしまいがちです。人間関係が悪化することを恐れているからでしょうか?それとも、ただ怠慢なだけなのでしょうか?そんな私たちに、主は預言者を通して厳しい言葉を語られました。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」と。信仰者は、主の家の見張りとされた者たちです。にもかかわらず、私たちが見張りとしての役目を果たさないなら、主はその責任を私たちに求められる!主のみ前で、罪は罪として指摘されなければなりません。それは、罪を犯した者が悔い改めて、主のもとに立ち返るため−そうして、主の愛に包まれるためです。

言うまでもなく、罪を犯すのは兄弟姉妹だけでなく、私たち自身でもあります。私たちの誰もが例外なく神の前で罪人であり、知らず知らずのうちに主の群から迷い出てしまう者でもあります。ですから、私たちは互いに赦し合い、愛し合うことが期待されているのです。使徒パウロは言いました。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と。愛し合うことの苦手な私たちですから、こと「愛すること」に関してはどうしても借りが出来てしまいます。然り、十字架にかかられたキリストの愛に比べれば、なんと少ない私たちの愛でしょう!それゆえ、私たちは決して愛することをやめてはなりません。心を一つにして、キリストの愛を祈り求め続けて参りましょう。 

〇10月8日 午前11時 聖霊降臨後第18主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉・小林広枝姉
〇聖書朗読:藏谷俊夫兄
〇礼拝当番:出口輝子姉

〇聖書:創世記50:15-21  ローマ14:1-18  マタイ18:21-35
〇讃美歌:333(1,2)、242、298、256、333(3,4)
〇10月4日(水)6日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする