宗教改革主日
「今週の祈り:全能(ぜんのう)の神(かみ)、恵(めぐ)みの主(しゅ)よ。あなたに忠実(ちゅうじつ)な民(たみ)に聖霊(せいれい)を注(そそ)いで、み言葉(ことば)のうちに堅(かた)く保(たも)ち、あらゆる誘惑(ゆうわく)とみ言葉(ことば)の敵(てき)から防(ふせ)ぎ守(まも)り、キリストの教会(きょうかい)に救(すく)いと平安(へいあん)を与(あた)えてください。あなたと聖霊(せいれい)と共(とも)にただひとりの神(かみ)であり、永遠(えいえん)に生(い)きて治(おさ)められるみ子(こ)、主(しゅ)イエス・キリストによって祈ります。」
(礼拝堂の花です)
〇宗教改革主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ5:1-6
「あなたは幸いだ」
今日は宗教改革主日です。今年においては、宗教改革500年を記念する日であります。私たちは今日という日を迎えるにあたり、マルティン・ルターを通して伝えられた神の恵みについて、今一度、深く問い直していきたいと思うのです。
そもそも、宗教改革とは一体何だったのでしょうか。世界の歴史として見れば、宗教改革は教会の大分裂をもたらした大事件です。しかし、信仰をもってみるならば、宗教改革は教会の信仰が問い直された時であると言えるでしょう。腐敗しきっていた当時の教会、その決定的となるものが贖宥状でした。そこにルターは問うのです。恵みとはなんであるか。そもそも恵みとは私たちの行動によって変わるものであるのかと。それ故にルターは1517年10月31日に95箇条の提題(贖宥状の効力を明らかにする討論)をヴィッテンベルク城教会の門に掲示したのです。それが宗教改革の発端となりました。努力によって私たちは義とされるのではなく、ただただ信仰によってのみ義とされると述べたのです。これが信仰義認と呼ばれる教理となり、宗教改革で起こされた教会はこの教理を採用していると言って良いでしょう。
ここまではルーテル教会でよく語られることですから、多くの人が知っていると思いますし、しっかりと受け止めていると思うのです。しかし、今一度問い直したいのは、「義とされる」という神の恵みを私たちはどこまで受け止めているかということです。
私事になりますが、先週休暇をいただき、旭川に行ってきました。もちろん観光名所である旭山動物園にも行ってきました。一番驚いたのはカバの展示コーナーでした。水中のカバをガラス越しに見ることが出来るのですが、私の頭の中に描いていたものよりも、カバはカバでした。そのすぐ横にいたキリンを見ても、想像よりもキリンなのです。
私たちは頭の中に何かを思い浮かべるとき、実物よりも、どこか小さく想像してしまうことがあります。このことは、私たちが恵みを受け取る時に大きな障害となるのです。
今日の聖書箇所でイエス様は言います。「幸いだ」と。その言葉を、あなたは受け取っているでしょうか。たくさんの状況の人々に向けて、「幸いだ」と述べるイエス様の言葉を、あなたが受け取ってほしいのです。あなたに向けて「幸いだ」とイエス様は言って下さっているのです。今は苦しくても、いつか幸いとされるのではないし、何かしたから幸いとされるのでもありません。今、この時、「あなたは幸い」なんです。あなたに天の国は約束されているし、慰めを受けられるし、地を受け継ぐことができるし、満たされるのです。それは、あなたが思っているよりも、大きくて、確かな恵みであります。心のどこかでこの言葉を小さくしてしまっているのではないでしょうか。だからこそ、問い直したいのです。「あなたは幸いだ」と言って下さる神の恵みをそのまま受け止めていきたいのです。それこそが、信仰によって義とされるということでありましょう。ルターを通して伝えられた神様への姿勢を、これからも、何度も問い直しながら、信仰生活を送っていきたいと願います。
〇11月5日 午前11時 全聖徒主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:小笠原里子姉
〇礼拝当番:出口輝子姉
〇讃美歌:142、271(1,2)、271(3,4)、337、聖餐252(1,2)