待降節第1主日
〇いよいよ今日からクランツのローソクに火が灯ります。一本、一本、光が増えて行きます。クランツの一本目のローソクには「希望」という名前があることを教えてくれたのは、今、岡山教会で牧師をしていらっしゃる高村先生が神学生として研修にいらしていたときでした。
希望からこの世の光が始まるのは、なんて嬉しいことでしょう。福音とは喜びの知らせだと教えられています。喜びの福音がこの一本目の希望から始まるのです。
オレンジ色のバラの花言葉は信頼と希望です。今日この日にオレンジのバラをいっぱい飾ってくれたのはNAさんです。
長い時間をかけて準備をしてきた「アドベントコンサート」の日です。北星学園大学NSBC(North Star Bible Club)の学生さん11名によるゴスペルコンサートです。
地域の方々、市内の教会からなどで45名の大聴衆を迎えて、NSBCの方々も心の底からの讃美の歌声を聞かせてくれました。 若いエネルギー、若い純粋な情熱の固まりが弾けるようなコンサートでした。最後には聴衆とともに「きよしこのよる」を合唱して素晴らしいひと時を過ごせたことを感謝いたします。
待降節第1主日説教 重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)
「われらが王」
象徴行為という言葉があります。その行為を通して、隠された真実を表現するものです。今日のイエスさまのエルサレム入場行進もそれです。それは真の王の到来を意味すると同時に、その支配が、暴力によらず平和によって、権力によらず愛によって実現することを象徴しています。
エルサレムで何が起こるか、イエスはご存知です。待ち構えているのは、誤解、誹謗、中傷、逮捕、そして十字架の刑です。民衆の期待は失望に変わり、歓呼の声は「十字架につけよ」という大合唱に変わります。
イエスの心と群集の心。この落差の大きさ、断絶の深さ。イエスは孤独です。行進のとき、どんな表情をなさっていたのでしょうか。憂いを含んだ目、それでも、歓呼の声をあげている群集を慈悲で包み、凛としてまっすぐに顔を挙げて進まれる姿。イエスは確かに、その群集の叫びの中に、神のみ業をみておられました。
群集の歓呼は、王を迎える歓呼でした。群集は誤解していたとしても、それは確かに正しいことでした。主イエスは王として、エルサレムに入られたのです。
今日はアドベント第一主日。巷は、アドベントに入る前から、イルミネーションを飾り、クリスマスソングを響かせ、祝祭気分です。この状況は、群集が主イエスの真意を理解しないままに、歓呼の声を上げていた状況にどこか似ています。群集が、イエスの真意を理解しなかったように、クリスマスを楽しむ人々の多くが、主イエスが救い主としてお生れになってくださったことの真意を理解していません。
けれど群集の誤解を超えて、その歓呼の声を神がよしとされたように、真意を理解しないままのクリスマスのざわめきの中にも、神のみ業を見ることが出来るでしょう。クリスマスは、人がどんな思いでそれを迎えようと、全人類の祝祭なのです。メリー・クリスマス、それは真実です。
われらが主イエス・キリスト。わが王イエス・キリスト。美しい称号、力強い称号です。神の子が私の王でいてくださる。どれほどイエスの心を誤解し続けていることでしょうか。けれども、その浅はかさも主はよくご存知です。それを引き受けて主がわたしを臣下としてくださっているのなら、私には恐れるものは何もありません。死も、地獄の罰も、心の暗黒も、弱さも、孤独も、老いも、恐れるものは何もありません。あるのはただ、頼もしい王に率いられて、神の国に向かう、一日一日。ただ慈しみ、恵み、赦しの中に生かされている、一日一日です。すべては引き受けられています。
エルサレムに向かわれるイエスの孤独は、賑やかな孤独です。今から起こるすべてのこと、イエスを十字架につけようとする人間の、罪深くて、意地悪で、底なしに暗い心と行いを、その命のうちにすべて引き受けてくださっている言語を絶する孤独。けれど、その孤独は父なる神とともに、全てを赦し、すべての魂を包み込んで、慈悲に満ちた賑やかな孤独です。
待降節です。この王の誕生を祝う日を迎えます。歓呼の声で迎えましょう。