新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

11月28日「今日の礼拝堂」

2010年11月28日 | 今日の礼拝堂

待降節第1主日

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〇いよいよ今日からクランツのローソクに火が灯ります。一本、一本、光が増えて行きます。クランツの一本目のローソクには「希望」という名前があることを教えてくれたのは、今、岡山教会で牧師をしていらっしゃる高村先生が神学生として研修にいらしていたときでした。
希望からこの世の光が始まるのは、なんて嬉しいことでしょう。福音とは喜びの知らせだと教えられています。喜びの福音がこの一本目の希望から始まるのです。
オレンジ色のバラの花言葉は信頼と希望です。今日この日にオレンジのバラをいっぱい飾ってくれたのはNAさんです。

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長い時間をかけて準備をしてきた「アドベントコンサート」の日です。北星学園大学NSBC(North Star Bible Club)の学生さん11名によるゴスペルコンサートです。
地域の方々、市内の教会からなどで45名の大聴衆を迎えて、NSBCの方々も心の底からの讃美の歌声を聞かせてくれました。 若いエネルギー、若い純粋な情熱の固まりが弾けるようなコンサートでした。最後には聴衆とともに「きよしこのよる」を合唱して素晴らしいひと時を過ごせたことを感謝いたします。

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待降節第1主日説教      重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「われらが王」

象徴行為という言葉があります。その行為を通して、隠された真実を表現するものです。今日のイエスさまのエルサレム入場行進もそれです。それは真の王の到来を意味すると同時に、その支配が、暴力によらず平和によって、権力によらず愛によって実現することを象徴しています。

エルサレムで何が起こるか、イエスはご存知です。待ち構えているのは、誤解、誹謗、中傷、逮捕、そして十字架の刑です。民衆の期待は失望に変わり、歓呼の声は「十字架につけよ」という大合唱に変わります。

イエスの心と群集の心。この落差の大きさ、断絶の深さ。イエスは孤独です。行進のとき、どんな表情をなさっていたのでしょうか。憂いを含んだ目、それでも、歓呼の声をあげている群集を慈悲で包み、凛としてまっすぐに顔を挙げて進まれる姿。イエスは確かに、その群集の叫びの中に、神のみ業をみておられました。

群集の歓呼は、王を迎える歓呼でした。群集は誤解していたとしても、それは確かに正しいことでした。主イエスは王として、エルサレムに入られたのです。

今日はアドベント第一主日。巷は、アドベントに入る前から、イルミネーションを飾り、クリスマスソングを響かせ、祝祭気分です。この状況は、群集が主イエスの真意を理解しないままに、歓呼の声を上げていた状況にどこか似ています。群集が、イエスの真意を理解しなかったように、クリスマスを楽しむ人々の多くが、主イエスが救い主としてお生れになってくださったことの真意を理解していません。

けれど群集の誤解を超えて、その歓呼の声を神がよしとされたように、真意を理解しないままのクリスマスのざわめきの中にも、神のみ業を見ることが出来るでしょう。クリスマスは、人がどんな思いでそれを迎えようと、全人類の祝祭なのです。メリー・クリスマス、それは真実です。

われらが主イエス・キリスト。わが王イエス・キリスト。美しい称号、力強い称号です。神の子が私の王でいてくださる。どれほどイエスの心を誤解し続けていることでしょうか。けれども、その浅はかさも主はよくご存知です。それを引き受けて主がわたしを臣下としてくださっているのなら、私には恐れるものは何もありません。死も、地獄の罰も、心の暗黒も、弱さも、孤独も、老いも、恐れるものは何もありません。あるのはただ、頼もしい王に率いられて、神の国に向かう、一日一日。ただ慈しみ、恵み、赦しの中に生かされている、一日一日です。すべては引き受けられています。

エルサレムに向かわれるイエスの孤独は、賑やかな孤独です。今から起こるすべてのこと、イエスを十字架につけようとする人間の、罪深くて、意地悪で、底なしに暗い心と行いを、その命のうちにすべて引き受けてくださっている言語を絶する孤独。けれど、その孤独は父なる神とともに、全てを赦し、すべての魂を包み込んで、慈悲に満ちた賑やかな孤独です。

待降節です。この王の誕生を祝う日を迎えます。歓呼の声で迎えましょう。


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11月21日「今日の礼拝堂」

2010年11月21日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後最終主日

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〇ナナカマドの赤い実と、ヒペリカムの花の赤が、冷たく凍える木枯らしの中でかじかむ気持ちを暖めてくれるようです。聖霊が降り注いで、教会をこの世に誕生させてくれた聖霊降臨後の時間が終わり、わたしたちは主のご降誕を待ち望む備えをするときを迎えます。
この燃え滾るように色づいてくれたお花や木の実のように、わたしたちの心にも明るい炎を灯しましょう。今日はこれから、教会の内外をクリスマスを待つ気持ちをいっぱいに込めて、楽しく明るく飾りつけをします。お花を活けた人・NAさん。

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〇来週からこのローソクに一本ずつ火が灯ります。少しずつ世の中が明るくなって、やがて闇の隅々までがイエスさまの光で照らし出されます。待ち遠しいイエスさまのお誕生です。

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〇二つの「聖家族」です。左は竹でつくられた素朴なもの。右は瀬戸で出来ている可憐なもの。どちらもほのぼのとした暖かい雰囲気でクリスマスを待っています。

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〇弾ける喜びを現したくて、あっちこっちにリースを飾りました。実際にはこの三倍くらいのリースが飾られています。

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聖霊降臨後最終主日説教        岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「待ち望む」

現代の日本社会は、憲法によって信教の自由は約束され、自由な発言、自由な行動も許されています。わたしたちの信仰生活に対する表立った迫害や脅迫はないはずです。しかし、実際にはなかなか福音を届けることができない、伝わらないというジレンマを抱えているのではないでしょうか。

もちろん、福音自体の力が衰えることはありません。では、どこに問題があるのでしょうか。それは、福音を受け取る側のわたしたちのほうにあると思います。世界的な経済危機と言われながらも、なお私たちは有り余るほどの食べ物、着るもの、便利な品物に囲まれています。自己責任論という風潮もあってか、頑張れば自分の力でなんとか生きていける、何とかしなくてはならないという考え方が巷のムードをつくっています。ところがその一方では精神世界への憧れと、漠然とした不安や恐れもあって「自分の力を超えた存在」を捜し求めたい、という欲求からオカルトブームも後を絶ちません。

そのようなムードの中で、信仰という問題を論ずることはとても難しいと感じます。また、信仰よりも先に、宗教という言葉だけが先行し、本質を見る前にイメージや先入観で拒否されることも少なくないからです。イメージをいうものはそのものの本質を見る前に、ある一面的な判断をもたらします。そしてイメージが先行すると、本質に触れるまもなく反発や反抗、拒絶がおこります。

主の神殿崩壊の予告を聞いた人々の反応が示すとおりです。彼らは、耳を疑い「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんなしるしがあるのですか」と尋ねています。誰がこの見事な神殿が「瓦礫の山になる」ことを想像できたことでしょう。しかし実際に、この予言から40年ほど後の紀元70年、エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊され、主が言われたとおり、瓦礫の山になってしまいました。

主イエスはわたしたちが困難な状況にあるときや苦しいときにこそ、キリスト者としてその証しする機会があるといわれます。そして、その時には「どんな反対者でも、対抗も反論も出来ないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」と約束されています。この言葉の中に、今日の福音があると思います。主はわたしたちをあるがままに受け入れ、罪を赦し、永遠のいのちへの約束を与えてくださいました。そして、終末を迎えるその時まで、私たちをご自身の福音の証人として立ててくださっているのです。

わたしたちに、後どれほどの時が残されているかは知らされていません。しかし、その時は確実に近づいてきています。「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」と命じられる主を待ち望みつつ、その日まで信仰の道をしっかり歩んでゆきたいと願います。

〇岡田牧師は以上のように説教を語ったあと、古い一年を脱ぎ捨てて新しい一年を身にまとって生きていきましょう・・・と、しめくくられました。素直にお互いの存在を喜び合い、みことばを具体的に生きる新しい一年でありますように、命に限りのあること、この世に終わりのあることを常に忘れてはいけないとおっしゃる牧師の真剣な言葉をこころに刻んだ礼拝でした。


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11月14日「今日の礼拝堂」

2010年11月14日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第25主日

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聖壇クロスは今日と次の日曜日、みどりに変わります。そして次の週からいよいよムラサキ色へと進んでいきます。
今日の日課はルカによる福音書20:27-40「復活についての問答」です。非常に興味深い箇所です。人としてこの世に生を受けた以上、私たちは等しく死に定められた存在です。死とは何か。死の先には何があるか。この尽きることのない希求に対して、様々な宗教が生まれてきたのではないだろうかと思います。

今日の礼拝説教は重富牧師が「復活にあずかる者」という説教題で語られました。説教要旨は週報に掲載されたものをこのページの最後に載せますのでお読みください。
これほどに生きているものが知りたいと求めるその死後の世界について、聖書はほとんど記していません。その数少ない記述の中で、今日の聖書箇所は示唆に富んだメッセージを発しています。重ねて書きますが、非常に興味深い箇所です。
人間の身勝手な想像や、夢想を挫く痛烈なメッセージだとも感じます。つまり、どこまでもどこまでもイエスさまの答えは明瞭だと感じます。私たちが信じるべきものはただ一つ、生も死もただ神さまのもの。この世の縁は全て解消されるけれど、命に刻まれた愛そのものは魂の一部となって浄化され、たましいの一部となって霊的なものに清められる・・・と重富牧師は結びました。少しだけ絡まった糸が解れたような安らぎを感じる説教でした。

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〇おだやかな春の日差しのような今日の一活けです。スイートピーが花屋の店先に並び始めると、なぜか足をとめて見入ります。冬の真っ只中で目にとまるスイートピーは、まるで天使の羽のように優しく柔らかでこころの中にハープの音色を響かせてくれるように感じます。
お花を活けた人・NAさんです。

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〇今日はTDさん特製の「すいとん」を頂きました。美味しいものを食べているとき、人はなぜか無口です。美味しさを味わっているとき、人は無上に幸せです。
すいとん・・・・懐かしい食べ物です。私は小学生二年生のときに終戦を迎えましたので、すいとんはご馳走中のご馳走でした。今日のすいとんには椎茸や牛蒡、鶏肉なども入っていて、文字通りにご馳走でした。ニュースで世界の飢餓が映し出されるとき、私は戦中・戦後の飢餓を思い浮かべます。地球上の全ての生きとし生けるものが、美味しいすいとんを食べることが出来る日がくるのでしょうか・・・・・

81〇みなさまにお祈りしていただいた私たちの「かよちゃん」は、術後の回復著しく、今週の火曜日には「リハビリ専門の病院」に転院が決まりました。
リハビリはリハビリでかなり厳しく辛いことでしょうが、かよちゃんのことだからきっと乗り越えてクリスマスの礼拝には「メリークリスマス!」と笑顔を見せてくれることでしょう。
かよちゃん、あと一歩だね。ガンバレかよちゃん!
全国区になったかよちゃんのために、更にお祈りをよろしくお願いいたします。

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聖霊降臨後第25主日説教           重富克彦牧師(週報掲載説教要旨)

「復活にあずかる者」

日本人の死生観について、河合隼雄氏は「自分という存在は、世界、あるいは宇宙と一体であるという感じを持っていて、死ぬことで、宇宙の中にとけ込んでいくというイメージを持っている」と言っています。しかもこれは、仏教伝来より、さらに昔からのことだというのです。五木寛之氏が、死んだら「虚空に行く」と表現しているのは、その感覚なのだろうかと思いました。

十返舎一九は、戯作者らしく、「この世をば、どりゃお暇(いとま)に線香の、煙と共にはい(灰)さようなら」と、おどけた辞世の句を詠んで、煙と共に消えていくイメージで死を受け入れえいます。消えてとけ込んでいくイメージ、これはたしかに、日本人の死生観の底流を流れているものなのかもしれません。

主イエスの教えも、このような感覚をかならずしも否定しないでしょう。死んで、大きな宇宙に、つまり天にとけ込んでいくという感覚です。けれど、煙のようになってとは違います。無に帰してしまうのではありません。復活の身体を与えられるのです。今のわたしと、天国でのわたしとの人格の一貫性は変わらないのです。

さて、今日は、その復活の身体について、少し突っ込んだ議論がなされています。イエスを言い負かそうと近づいてきたのはサドカイ派の人々です。この派には、貴族や上級祭司が多く、復活を否定しています。

「兄が死んだら弟がその妻を引き受けなければならない」という、当時の習慣(レピラート婚)を例にして、その兄が次々に死んで、結局7人の夫と結婚することになった女は、復活の世では、誰の妻になるのかと質問します。それに対してイエスは、復活の世界では、もうめとったり、とついだりすることもないと答えられます。この世の縁の全て、親子も、夫婦も、すべてが解消されるのです。寂しい気もします。復活の世界に行って、妻と会ってももう妻ではない。母と会っても、もう母ではない。これはとても寂しい気がします。けれども、それはこの世に縛られた見方、感じ方の中で考えるからです。この世の縁は解消されますが、夫婦の愛や、親子の愛を養分として養われた魂は、人格の中心となっています。

パウロが言うように、最もおおいなるものは愛だからです。それは浄化され、清められ、霊的に高められます。

わたしはこう想像しています。妻と再会したとき、生前にお互いに感じていた慕わしさ、いとおしさ、喜びは、何倍もの歓喜をなって感じられるだろう。けれど、決して彼女を自分のものと思う所有欲は働かないだろう。そこには、清流のような清らかさがあり、所有欲がないことに、何の寂しさも感じないだろう。満ち満ちた愛は損なわれることなく、しかも無欲で自由。男とか女とかいう性の束縛からも、性欲からも自由。愛と自由。天国に満ちているのはそれです。だから主は言われます。

「この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかるものとして、神の子だからである」(ルカ20:36)と。


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11月7日「今日の礼拝堂」

2010年11月07日 | 今日の礼拝堂

全聖徒主日

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聖壇クロスは「白」です。先にこの世の馳せ場を全うして、天に召された先人たちと共に礼拝を守る日です。神さまの栄光を著す「白」。それは先に召された肉親たちが神さまの光の中で、この世の労苦から解き放たれて安らかに輝いていることを信じる信仰告白です。
それぞれに、愛する人たちのありし日の姿をこころに抱いて礼拝を守り、聖餐式に与りました。

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〇秋のお花は鮮やかに色づいた「どうだん」の葉を背景にして、色とりどりの小菊をあしらってくれました。この日にふさわしいこころ和む一活けでした。持ち寄った愛する人の思い出を飾って、礼拝は暖かい空気のなかでもたれました。お花を活けた人・NAさん。

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〇飾られた写真と一緒に全員集合の記念撮影です。にこやかな笑顔が撮れました。今年、家族を天に送った方もいらっしゃいますが、この日の礼拝で再びまみえる日までを、力強く生きていく力が与えられたことでしょう。

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〇10月26日に降った初雪が、ところによってはまだ残っています。そんな急な季節の変化の中で、いつもいつも小さな天使たちは私たちの心を暖めてくれます。
くじけるんじゃないよ。哀しむんじゃないよ。絶望してはダメだよ。そのまんまでいいんだよ。無理に肩をはることはないんだよ。そのまんま・・・そのまんま・・・一緒に生きていこうね・・・・・
冬になるとこの天使たちは今までより、もっともっと強い励ましをくれるように思います。それは私たちが冷たい空気に閉ざされて、こころまでが凍えてしまう季節だからです。だから、天使たちは真剣に咲いてくれます。その真剣さを素直に受け取りましょう。元気になりましょう。

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〇今年は夏と冬の間で、ゆっくりゆっくりと葉っぱを色づかせていく秋の季節が行ったり来たりでした。気の毒に紅葉もどうしたらいいかと戸惑っていたことでしょう。みどり色のままに落ちてしまったイチョウの葉もあるし、頑張って黄色くなった木もあります。紅葉も枯れかかった茶色の葉と一生懸命赤くなってくれた葉がいっしょになっていて、少し不思議なグラデーションを見せてくれています。
これは教会の桜の木です。頑張って色づいてくれた木です。

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〇今日もかよちゃんの病室に聖餐式を携えてでかけました。10月27日に大腿骨骨折の手術をした人とは思えないほどに回復の早いかよちゃんです。
ご主人の献身的な介護と、かよちゃんの「クリスマスには教会に行く」という強い意志が一つになって、こんなに元気になりました。希望を実現するのは、その実現を強く信じる意思なのだと教えられます。かよちゃん!もう少しだね。ガンバレ、ガンバレ!

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全聖徒主日説教                岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)

「我が家への道」

カトリック教会の司教でキリスト教著作家であるヘンリー・ナーウェンは、親しい友人をなくした後、 同じように悲しみを担う別の友人たちと軽食をたべていたときに、仲間の一人から「あなたはどこでどのようにして死にたい?」とさりげなく聞かれたと記しています。そして、この問いが、先に旅立った友人と同じく、いつかは自分たちも「死ぬ」ということを、ただ否定的に受け止めるのではなく、新しい認識を得る問いかけとして受け止めたと言っています。

それは、親しい友人を亡くしたという経験が、同じ悲しみを担う仲間たちと共に過ごし、思いを分かち合うことによって喜びへとかえられていくという不思議な経験。また、旅立った者と過ごした日々の思い出を語り合うたびに、手の届かない場所へ移されたことを認識すると同時に、逝きし者の命が新しい意味をもって、慰めと励ましを与えてくれるというのです。

私たちは生きている間、どのように生きるか、何を成し遂げることができるか、ということを考え神経を使います。そして、その思いや計画を遂行するために努力します。

しかし、必ずしも自分の思うとおりにことが進むとは限りません。ある時には突然の「死」によってすべてが中断されることもあります。そのようなとき、旅立たねばならなかった者の心のうちを思うと、残された者たちにも深い哀しみが襲います。

これは「死」という問題が、葛藤を引き起こす原因の一つだといえます。

ナーウェン自身の最後も予想がつかないものでした。彼は64歳の誕生日を迎えて間もないある日、心臓が突然止まるという病気で召されてしまったのです。彼の最後の著作となったエッセイのテーマは「生きることと死ぬこと」というものでした。このエッセイの中に、「真に問うべきことは、「どのように生きれば、わたしの死が他の人にとって実り多いものとなるだろうか」ということです。」という、愛するものを突然失った人々にとって心強い慰めとなる言葉があります。

福音の日課において、主は弟子たちにご自身の死についてはっきりと告げられます。また、弟子たちが動揺し、主を残して逃げ去ってしまうという苦難が訪れることも明言されます。ところが主は、少しも動揺してはおられません。なぜなら、父なる神が共にいられるからです。そして、ご自身の死こそが弟子たちにとって実り多いものとなることをご存知だからです。そして愛する弟子たちには「あなたがには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と力強い励ましを与えられました。

主の十字架と復活は私たちの罪を贖うために不可欠なものでした。そして、肉体の死は、新しい命への道、天の父がおられるところ、真の我が家への道の始まりなのです。


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