聖霊降臨後第19主日
「今週の祈り:愛の神さま。あなたは、私たちの脆さや欠点をことごとくご存知です。私たちにそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、生涯、救いの道を歩ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇ススキ、りんどう、シュウメイギク、ピンクマーガレット、みやこわすれ・・・可憐な赤い実を配して、秋を全部まとめて活けてくれたNAさんです。ニュースでは初氷や初霜の便りが次々に届きます。朝の冷え込みが急に強くなりました。一度霜に当たったら、お花はしおれてしまいます。ガーデニングをなさる方は、お花の体力に一番気をつかう頃となりました。今日は全ての花が元気に輝いてくれていました。こんなに贅沢に、居ながらにして自然のいのちに触れることのできる恵みに、心から感謝をします。
〇今日の礼拝説教は岡田薫牧師でした。「御ことばに聞く」というメッセージでした。金持ちとラザロの物語りはとても有名なので、これまでもたくさんの牧師からたくさんメッセージを頂きました。今日の説教は派遣色の強いものでした。私たちが「今」どう生きていくかという問いかけは、今日の聖書のテーマそのものでした。
ルカのテーマは貧しき者への福音です。死んでしまったらやり直しはできないけれど、私たちは今生きています。生きているうちにしなければならないこと。それはルターが言うように、「義とされた者は、愛の業に押し出されていく」という「今」を生きる生き方です。
自分が持っているものは自分の労苦の実ではない。全ては神さまから与えられたものだという、神さまへの感謝の思いがあったら、この金持ちもラザロの存在に気がつかないはずはなかった。自分が受けた恵みを自分のところで留めていては今日の聖書の金持ちと同じになる。喜びと感謝の気持ちが、貧しく哀しいラザロを見いだすのでしょう。厳しいメッセージでした。けれど、力強くあたたかい手で、そっと背中を押し出してくれた説教でした。
〇画面が暗いのは、映像を見るためにカーテンで遮光をしたためです。三年後に「札幌教会宣教百周年」を迎えるための準備が少しずつ始まっています。まだまだ、具体的な形を描けないので、昔の写真を取り込んで目で見る教会の歴史から会は始まりました。
白黒写真の最初は、フィンランドの宣教師ご夫妻でした。宣教百年と言っても、百年の歴史を実感できるのは、当の札幌教会札幌礼拝堂だけです。「三つの礼拝堂をもつ一つの教会」として合同を果たしたのは、2006年のことです。新札幌礼拝堂と札幌北礼拝堂の歴史感覚は、なかなか百年についていくことができず、信徒会や総会などを通して何度も繰り返してきた百年記念について、今日もあまり具体的なところまでは進みませんでした。けれど、確実に時間は動いていき、百年目の記念日を迎えるのも確実なことです。
三つの礼拝堂の信徒が、心を一つにして百年を喜びと感謝の中で迎えることができるように、この光の見えない社会の中で働き続ける神さまの業を具現化していく歩みを続けていきましょう。
聖霊降臨後第19主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:19-31
「神の国の宴席で」
紫の衣ややわらかい麻布を着て毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、できものだらけの貧しい人のたとえ話しです。食べるものにも事欠くラザロは、金持ちの門前に横たわっていました。せめてその食卓から落ちる物で腹を満たせないものだろうか、と思ってのことです。しかし、金持ちはというとそんなラザロには目もくれず、ぜいたくにうつつを抜かしていたのです。ラザロの体は日に日にやせ細り、抵抗力もなくなり、体中できものだらけになってしまいました。犬は、そんなラザロのできものを優しくなめてくれましたが、金持ちはラザロを無視したのです。やがて食べる物も十分に食べられず、できものに塗る薬も手に入らなかったラザロは、病と貧困の中で死んでしまいます。門前に横たわるラザロの亡骸を見て、金持ちは何とも思わなかったのでしょうか。
ラザロは死んだあと、天使たちによって神のみもとへ連れて行かれました。神の国の宴席には、信仰の祖アブラハムの姿もあります。ラザロも、その宴席へと招き入れられました。ところがかの金持ちはというと、死後は陰府に落とされ、炎の中でさいなまされることになったのです。金持ちは苦しさのあまり、はるかかなたに見えるアブラハムに向かって叫びました。せめてラザロをよこして、自分の舌を冷やさせてください、と。しかし、アブラハムは答えるのです。「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と。生前、貧しく弱り果てたラザロに愛の片鱗さえ示さなかった金持ちに対する裁きの言葉です。神の国では、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」とイエスさまが教えられたとおりになるのです。
先週の福音書の日課は「不正な管理人のたとえ」でした。このたとえを語られた後、イエスさまは「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておければ、金がなくなったときに、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(16章9節)と言われました。この世の手垢がついた金や富は、自分のためだけに使うのでなく、他者のため、隣人のため_然り、今、目の前で助けを必要としている人のためにこそ_用いられるべきなのです。なぜなら、それが愛だからです。そうすれば、「永遠の住まい」に迎え入れてもらえる。金持ちのように、死後、陰府でさいなさまされることには決してならないのです。
富が悪いのではありません。神の恵みによって与えられた富を自分の手から離さず、他者と分かち合おうとしない愛の欠如が問われているのです。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。神と人とに仕え、神と人とを愛する者となれますように。
日笠山吉之牧師説教集・・・・・・日笠山吉之牧師随筆集
10月6日(日)聖霊降臨後第20主日
司式:岡田薫牧師
説教:岡田薫牧師
奏楽:中嶋泰子姉
当番受付:堀川悦姉
滝田裕美姉
聖書:ハバクク書・テモテへの手紙二1:3-14・ルカによる福音書17:1-10
讃美歌:188・398・419・聖餐讃美歌258