新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

9月29日「今日の礼拝堂」

2013年09月29日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第19主日

「今週の祈り:愛の神さま。あなたは、私たちの脆さや欠点をことごとくご存知です。私たちにそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、生涯、救いの道を歩ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇ススキ、りんどう、シュウメイギク、ピンクマーガレット、みやこわすれ・・・可憐な赤い実を配して、秋を全部まとめて活けてくれたNAさんです。ニュースでは初氷や初霜の便りが次々に届きます。朝の冷え込みが急に強くなりました。一度霜に当たったら、お花はしおれてしまいます。ガーデニングをなさる方は、お花の体力に一番気をつかう頃となりました。今日は全ての花が元気に輝いてくれていました。こんなに贅沢に、居ながらにして自然のいのちに触れることのできる恵みに、心から感謝をします。

〇今日の礼拝説教は岡田薫牧師でした。「御ことばに聞く」というメッセージでした。金持ちとラザロの物語りはとても有名なので、これまでもたくさんの牧師からたくさんメッセージを頂きました。今日の説教は派遣色の強いものでした。私たちが「今」どう生きていくかという問いかけは、今日の聖書のテーマそのものでした。

ルカのテーマは貧しき者への福音です。死んでしまったらやり直しはできないけれど、私たちは今生きています。生きているうちにしなければならないこと。それはルターが言うように、「義とされた者は、愛の業に押し出されていく」という「今」を生きる生き方です。
自分が持っているものは自分の労苦の実ではない。全ては神さまから与えられたものだという、神さまへの感謝の思いがあったら、この金持ちもラザロの存在に気がつかないはずはなかった。自分が受けた恵みを自分のところで留めていては今日の聖書の金持ちと同じになる。喜びと感謝の気持ちが、貧しく哀しいラザロを見いだすのでしょう。厳しいメッセージでした。けれど、力強くあたたかい手で、そっと背中を押し出してくれた説教でした。

岡田薫牧師説教集・・・・・・・・・・・・・岡田薫牧師随筆集

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                        於:札幌教会札幌礼拝堂スオミホール

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〇画面が暗いのは、映像を見るためにカーテンで遮光をしたためです。三年後に「札幌教会宣教百周年」を迎えるための準備が少しずつ始まっています。まだまだ、具体的な形を描けないので、昔の写真を取り込んで目で見る教会の歴史から会は始まりました。
白黒写真の最初は、フィンランドの宣教師ご夫妻でした。宣教百年と言っても、百年の歴史を実感できるのは、当の札幌教会札幌礼拝堂だけです。「三つの礼拝堂をもつ一つの教会」として合同を果たしたのは、2006年のことです。新札幌礼拝堂と札幌北礼拝堂の歴史感覚は、なかなか百年についていくことができず、信徒会や総会などを通して何度も繰り返してきた百年記念について、今日もあまり具体的なところまでは進みませんでした。けれど、確実に時間は動いていき、百年目の記念日を迎えるのも確実なことです。
三つの礼拝堂の信徒が、心を一つにして百年を喜びと感謝の中で迎えることができるように、この光の見えない社会の中で働き続ける神さまの業を具現化していく歩みを続けていきましょう。

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聖霊降臨後第19主日説教      日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:19-31

「神の国の宴席で」

紫の衣ややわらかい麻布を着て毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、できものだらけの貧しい人のたとえ話しです。食べるものにも事欠くラザロは、金持ちの門前に横たわっていました。せめてその食卓から落ちる物で腹を満たせないものだろうか、と思ってのことです。しかし、金持ちはというとそんなラザロには目もくれず、ぜいたくにうつつを抜かしていたのです。ラザロの体は日に日にやせ細り、抵抗力もなくなり、体中できものだらけになってしまいました。犬は、そんなラザロのできものを優しくなめてくれましたが、金持ちはラザロを無視したのです。やがて食べる物も十分に食べられず、できものに塗る薬も手に入らなかったラザロは、病と貧困の中で死んでしまいます。門前に横たわるラザロの亡骸を見て、金持ちは何とも思わなかったのでしょうか。

ラザロは死んだあと、天使たちによって神のみもとへ連れて行かれました。神の国の宴席には、信仰の祖アブラハムの姿もあります。ラザロも、その宴席へと招き入れられました。ところがかの金持ちはというと、死後は陰府に落とされ、炎の中でさいなまされることになったのです。金持ちは苦しさのあまり、はるかかなたに見えるアブラハムに向かって叫びました。せめてラザロをよこして、自分の舌を冷やさせてください、と。しかし、アブラハムは答えるのです。「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と。生前、貧しく弱り果てたラザロに愛の片鱗さえ示さなかった金持ちに対する裁きの言葉です。神の国では、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」とイエスさまが教えられたとおりになるのです。

先週の福音書の日課は「不正な管理人のたとえ」でした。このたとえを語られた後、イエスさまは「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておければ、金がなくなったときに、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(16章9節)と言われました。この世の手垢がついた金や富は、自分のためだけに使うのでなく、他者のため、隣人のため_然り、今、目の前で助けを必要としている人のためにこそ_用いられるべきなのです。なぜなら、それが愛だからです。そうすれば、「永遠の住まい」に迎え入れてもらえる。金持ちのように、死後、陰府でさいなさまされることには決してならないのです。

富が悪いのではありません。神の恵みによって与えられた富を自分の手から離さず、他者と分かち合おうとしない愛の欠如が問われているのです。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。神と人とに仕え、神と人とを愛する者となれますように。

日笠山吉之牧師説教集・・・・・・日笠山吉之牧師随筆集

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10月6日(日)聖霊降臨後第20主日

司式:岡田薫牧師
説教:岡田薫牧師
奏楽:中嶋泰子姉
当番受付:堀川悦姉
       滝田裕美姉

聖書:ハバクク書・テモテへの手紙二1:3-14・ルカによる福音書17:1-10
讃美歌:188・398・419・聖餐讃美歌258


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9月22日「今日の礼拝堂」

2013年09月23日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第18主日

「今週の祈り:主よ。私たちの心に、正しく考え、行なう霊を注いでください。あなたなしに存在することのできない私たちに、み心に従って生きる力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇今日は礼拝の後、昨年思いがけない若さで急逝されたイシハラ兄の周期記念会が行なわれました。お花はその礼拝のためにご親族から献花されたものです。大きな純白のカサブランカを中心にして、淡く優しい彩りの小花がとり囲んで、とてもあたたかい雰囲気です。

〇イシハラ兄はたくさんの才能をもっていらっしゃいました。ケーキづくりも玄人の域でした。有り余る才能を生かしきることができなかった人でした。つまり、この世を生きるのにとても不器用な人だったと思います。大きなよく通る声で讃美歌をうたい、お当番のときには緻密な日誌を書いていました。何かを求めていたのでしょうか、自分の子どもたちほどの年齢差の大学へ挑戦し楽しいけれど、タイヘンだと嬉しそうに話してくれていました。

〇 今日の説教は甲斐友朗神学生が担当しました。「不正な管理人」と小見出しのついた、とても理解し難い箇所でした。私たち人間の道徳観や倫理観では、なかなか素直にアーメンとは言えない内容です。特に高齢化している教会の中でこの日の説教を担当するのは気の毒だと思うほどでした。けれど神学生は聖書にまっすぐに、逃げることなくみことばを取り次いでくれました。神学生の力点は「必死になって」というものでした。どんな状況に置かれても、それが降りかかった状況のものであっても、自分の失敗で起きてきたものであっても、それに「必死に」取り組んでその状態を改善するとき、神さまはそれを「よし」とされるというメッセージでした。20分くらいの説教の中で、神学生は「必死に」という言葉を強調しました。この説教をつくるために、神学生がどれほど「必死に」祈り、黙想したかを察することができました。

〇イシハラ兄の記念会に連座しながら、ずっと今日のメッセージを反芻していました。イシハラ兄も、必死に生きました。けれど、この不正な管理人のようには生きられませんでした。つまり、生きることに非常に不器用な人でした。彼がもし、今日の管理人のように「器用に」生きることに必死になれたら、もう少し心にも身体にも健康が保たれたかもしれない・・と、そう思いました。

必死に生きるためには「手段を選ばなくてもいいのか・・・?」とか、「これでは泥棒も三分の理」だと思ってしまいがちです。けれどその時会堂を満たしていた神さまの愛の聖霊が、こんなふうに心の鍵を開いてくれました。神はたった一人の滅びも求めない・・・・。そうか、あの管理人の生き方を神さまがよしとされたのは、管理人が持てる力と智慧を搾り出して考えたことで、管理人自身とその周囲の人たちを滅びから救ったのかと。
少し心が軽くなって、再びイシハラ兄の人生の苦悩に必死に向き合えなかった自分を思いました。すべては神のときだと納得はしても、彼本人にではなく、自分自身の生き方を省みるひとときでした。

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                    石原良信兄 周期記念会
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〇記念会の式次第は岡田薫牧師が作ってくださいました。美しい渓流ともみじ・・・。どんな場所からどんな体勢でこの写真を切り取ったのかと、亡くなられた重富牧師を偲びます。

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〇ご親族の涙は一生乾くことはないでしょう。特に、逆縁を経験されたおかあさまの涙は乾く間もなく流れることでしょう。どうかそんな時は、この式次第に飾られた重富牧師の清らかな流れに涙を落としてください。大河の一滴が、やがてこんなに美しく滔々と人の心を癒すことを信じてください。イシハラ兄の蒔いた一粒の種が、こうして親族を一つにまとめて礼拝に招く力になっていくことを、心から、必死に、祈りたいと思います。

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月に一度の「聖書からみことばを聞く会」です。今日でコヘレトの言葉が終わりました。のっけから、虚しい、虚しいで始まったコヘレトも読み終わって感じる思いは、なぜか清々しい共感だと気づきます。虚しかったら虚しいと言っていいんだよと、大きな大きな神さまの手の中にあることを、楽な穏やかな気持ちで感じることのできた最終回でした。今度からはフィレモンへの手紙を読むことが会場一致できまりました。

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聖霊降臨後第18主日説教                岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書16:1-13

「神を畏れよ」

ここに登場する管理人は、主人である金持ちから財産の管理を任されていたのですから、相当の信用を得ていた人のようです。ところが《主人の財産を無駄使いしている》という告げ口をする人が現れました。そこで主人は早速管理人に対して会計報告を提出するようにと命じ、管理人は弁明することなく《どうしようか》と思案した・・・とあります。彼が一切の弁明を行わない所を見ると、告げ口された内容に嘘はなかったようです。解雇通知を受けたも同然の管理人は、考えあぐねた末に主人に借りのある人々を一人ずつひそかに呼び寄せ、負債を軽くしてやりました。これを見て《主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた》とたとえは締めくくられています。もちろん主人はこの管理人の悪い行いを認めたのでも、不正を褒めたのではありません。ただそれがたとえ正義と呼べるものではなくても、彼が切実に真剣に生きようともがき、抜け目なく見事な手口で生き抜く努力をしたところに目を止めているのです。

日課の冒頭に《イエスは、弟子たちにも次のように言われた》とわざわざ書かれているように、このたとえ話は弟子たちに向けて語られたものです。主イエスはあるところで「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ10:16)と、と言われています。私はこの言葉が今日の福音を読み解く一つの鍵だと思います。

この譬えが語られた背景には、主イエスがご自分の時が近づいている事を悟り、弟子たちにもエルサレムで大きな試練が待っていることを意識しておられた、というものがあります。だからこそ主は、不正な管理人が解雇通知を突きつけられた時、いたずらに時間を過ごさず知恵を絞ってなんとか将来に向けての道を切り開こうと必死になって行動しているように、弟子たちに神の国の福音に対する構え、姿勢を持つように求められているのです。

勝ち組/負け組という二極化や何かがおかしいと感じながらも空気を呼んで多勢に流されることが賢いと考えられるような現代に生きる私たちにとって、今日の日課は“あなたはどこに立つのか” “何を中心に据えて生きてゆくのか”を問うものです。そしてこの世を生き抜くために抜け目なく立ち振る舞うことには必死になっていても、神の国のためにその熱心さを持っているか?という問いでもあると思います。神に「忠実」であるはずの教会そしてキリスト者である私たちには、まず神を畏れ敬うこと、そして自らの生活の中で、真の意味で賢く振舞うことが求められているのです。

岡田薫牧師説教集・・・・・・・・・・・・・・・岡田薫牧師随筆集

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9月29日(日)聖霊降臨後第19主日

司式: 岡田薫牧師
説教: 岡田薫牧師
奏楽: 滝田裕美姉
当番: 小川敦子姉
     小川照美兄

聖書:アモス書6:1-7・テモテへの手紙一6:2-19・ルカによる福音書16:19-31
讃美歌:191・358・453・聖餐讃美歌260

〇13:30より、札幌教会札幌礼拝堂・スオミホールで「信徒会」があります。
 お昼は各自済ませてお集まりください。


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9月15日「今日の礼拝堂」

2013年09月15日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第17主日

「今週の祈り:全能・永遠の神さま。あなたは、真実者に、まことに貴い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち勝つ信仰を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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1_4  〇あぁ・・・ほんとに素敵な秋ですね。りんどう・桔梗・貴船・萩・そしてかわいいホオズキが、バランスよく可憐に素朴に活けられました。外は台風の前触れで雨が降り始めました。明日の敬老の日も天気予報は雨となっています。一雨ごとに秋が深まります。走り去る秋の色を見過ごさないようにしましょう。活けてくださった方・NAさんです。

〇週報掲載の説教要旨は甲斐神学生が担当をしてくださいました。
礼拝堂説教は、岡田薫牧師でした。「大きな喜び」と題して、迷い出た一匹の羊をその手に抱くまで、どこまでも捜してくださる神さまの愛が迫ってきます。誰もがみんなこの「迷える子羊」であることをつい忘れるのが人間です。そして、周りに迷惑や心配をかけて勝手にふらふらしている一匹のことを、心の中で裁き、神さまの手足となって探しまわることをしないのが私たち人間です。実はこの一匹の羊こそが自分だと思い至らない限り、真の悔い改めはできないのでしょう。耳に痛いみことばの箇所です。

〇岡田薫牧師は、今日の日課の前にある有名な放蕩息子のたとえ話に言及して、放浪していた弟息子を喜び迎える父親に対して、すねて背を向ける兄息子に向けられる父(神さま)の眼差し 、静かな深い愛の姿を解き明かしてくださいました。それはまさに私たちに対する神さまの眼差しだと、聞く者の心を開いてくれるメッセージでした。「私は見いだされた者!」。互いにこの愛を喜び伝え合うものとなっていきましょう。

岡田薫牧師説教集・・・・・・・・・・岡田薫牧師随筆集

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〇 東京からの友は午後に行なわれる墓前礼拝のために母娘で来道なさいました。今日はこの礼拝堂には珍しい子どもの声が賑やかに響きました。おみやげのご当地ポッキーを頂きながらおしゃべりを楽しみました。

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       日本福音ルーテル札幌教会墓前礼拝  於:札幌平岸霊園

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〇雨交じりの悪い天気にも関らず、驚くほどたくさんの人が墓前礼拝に集まりました。みんなお墓の中で眠っている愛する人に会いにきたのです。短い間にどれだけたくさんの方が召されていったかを、改めて思います。曲がって腰で杖を握って施設からいらした方。おばあちゃん・おじいちゃんに会いにきた若い青年たち。いつあのお墓の中から、集まってくる親しい友たちを迎えることになるのだろうと、その日を思い描く高齢者たち。
通常の礼拝には出てこられない方たちも、こうして墓前に集まってくる・・・それは、ほんとうに感動的な風景です。何年ぶりかで肩を叩きあい、手を握り合って再会を喜ぶこの礼拝が、いつまでも続く平和な時代でありますように・・・・。

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聖霊降臨後第17主日説教             甲斐神学生(週報掲載説教要旨
ルカによる福音書15:1-10

「主に背負われて」

本日の福音書の箇所には二つのたとえ話が記されています。一つは「迷子になった羊のたとえ」、もう一つは「無くした銀貨のたとえ」です。二つのたとえ話のテーマは、それぞれのたとえ話の結びの言葉にもあるように、「悔い改め」です。

しかし、悔い改めとは何でしょうか。迷子になった羊のたとえにスポットを当てて考えてみたいと思います。私たちが普通考える悔い改めとはこうです。今までは自分の好き勝手に生きてきたけれども、それを心から反省し、清く正しく生きていく、ということです。しかしそうしたことは、このたとえの中にはまったく出てこないのです。このたとえで言われている悔い改めとは、飼い主のもとを離れていた一匹の羊が飼い主のもとにもどってきたことです。神さまと人間の関係に置き換えて考えてみますと、神様から離れて生きていた人間が神さまのもとに戻ること、それが悔い改めなのです。

しかし羊は、自分から飼い主のもとに戻ったのでしょうか。決してそうではありません。羊は自分の足では飼い主のもとに戻ってくることができなかったのです。羊は、飼い主が探し回り、見つけたからこそ、飼い主のもとに戻ることができたのでした。このように、私たちは自分の力では神さまのもとに戻ることはできません。神様が私たちを見つけてくださるからこそ、神さまのもとに戻ってくることができるのです。

では、「神さまのもとにもどってくる」とは具体的にどういうことなのでしょうか。私は今回、説教のためにこの福音書の箇所を与えられて、一つ気がついたことがありました。それは、飼い主が羊を「担いで」連れて帰ったということです。「担いで」という言葉は「背負う」とも訳せます。羊の重さは大人の羊でだいたい50キロ以上あるそうです。飼い主はその羊を「背負って」連れて帰ったのです。飼い主の背中には、羊の重さがずっしりとのしかかっていたことでしょう。飼い主は、その羊のよいところだけを受け入れ、愛したのではないのです。その羊の存在のすべてを受けとめ、愛したのです。神さまは、わたしたちのよいところだけでなく、私たちの存在のすべてを受け止め、愛してくださっています。「神さまのもとに戻ってくる」とは、その愛を受け入れることなのです。

今日のたとえの中で羊は、飼い主や群れの仲間たちとはぐれたとき、「自分の足で」歩いていました。しかし帰りは「飼い主に背負われて」帰ってきたのです。このたとえを聴いた私たちもまた、自分の足で頑張って生きていく生き方から、自分のことを背負ってくださる神さまに身を委ねて生きていく生き方に転換することを求められているのではないでしょうか。飼い主が羊のことを背負い、ありのまま受け止めたように、神さまは私たちのことをありのまま受け止め、愛してくださっている、そのこと信じてともに歩んでまいりましょう。

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9月22日(日) 聖霊降臨後第18主日礼拝

司式: 日笠山牧師
説教: 甲斐神学生
奏楽: 中嶋泰子姉
聖書朗読: 林三浩兄
受付当番:出口輝子姉
       小川照美兄

聖書: コヘレトの言葉8:10-17・てもてへの手紙一2:1-7・ルカによる福音書16:1-13
讃美歌: 213・318・199・聖餐讃美歌261


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9月8日「今日の礼拝堂」

2013年09月08日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第16主日

「今週の祈り:全能・永遠の神さま。あなたが約束されたものを得、命じられたことを愛するために、私たちに信仰、希望、愛の賜をさらに豊かに注いでください。み子、主イエス・キリストによっていのります。」

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〇秋が一日ごとに深まってきます。気がつけばナナカマドの実が真っ赤に色づいています。夏から秋へと鮮やかな色彩の展開が始まっています。今年は気候が行ったり来たりと蛇行したので、秋の色づきを見過ごしてしまうような気もします。こうして、日曜日ごとに秋色をいっぱい盛ってくださる方がいなかったら、秋を捉え損ねるかもしれません。ほんとうにありがたいことだと毎週思います。今日のお花も、NAさんのご主人が種から育てて花を咲かせたものを惜しげもなく礼拝に捧げてくださいました。たおやかで楚々とした糸菊の花言葉は「高貴・ 高潔」です。

〇今日は甲斐神学生が初めて司式を担当なさいました。若々しいまっすぐにのびる声で、堂々と礼拝を先導してくれました。まっさらな若葉のような甲斐神学生が、やがて牧師としての召命に応答して、いい牧者となる日が目に浮かぶようで心が暖かくなる礼拝でした。

〇礼拝堂説教は、週報にその要旨が掲載されている日笠山吉之牧師でした。
「本当の弟子とはどういう人か?」と、牧師は問いかけます。それは自分の十字架を放り出さず投げ出さずに負い続けながら、イエスさまに従っていくことだと語ってくださいました。
自分の十字架・・・?改めて自分を見極めて自分の十字架はいったいなんだろうと思いを深めます。もしかしたら、私たちはたくさんある十字架の中で、一番負いやすくて楽そうな十字架を選んで満足しているかもしれない・・・。そう思ったとき、改めて背筋を伸ばしました。

牧師は、丁度この日の朝に2020年のオリンピックが東京に決まったニュースにも触れられました。福島問題という「日本の十字架」を、日本はどうやって負っていこうとしているのか。これは日本人の一人として、投げ出すことも放り出すこともできない十字架です。ただ、私たち一人一人はあまりにも弱く小さい。でも福島もオリンピックも両方とも私たちの問題です。イエスさまが共に頚木を負ってくださるという約束に信頼して、小さなことからしていきましょう。

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〇今日は行事もりだくさんの日です。おにぎり食堂でお腹を満たしたあと、LAOSの学びと世話人会があります。LAOSは「人生6合目からの歩み」というLAOS講座の別冊です。この冊子には副題として「ルーテル教会からの応援ノート」とあります。見渡すところ、人生6合目以上のメンバーが揃っているので、応援してくれる人はどこにいるんだろう?
つまり、高齢者たちが自分自身で自分の人生を応援して生きていけるようにとのご配慮の詰まった冊子だといえそうです。

5_2〇世話人会というのは教会の中の細々したことをお世話するために必要なことを、いろいろと確認したり相談したりする会で、私たちは少人数なので教会員みんなでこの会を行ないます。
今日は、先日の「音楽礼拝」の感想・今後の課題などについて意見を出し合いました。老朽化してきた教会建物のメンテナンスについても希望を出し合いました。 お疲れ直しにルークくんで癒されましょう。

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聖霊降臨後第16主日説教              日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書14:25-33

「弟子の条件」

エルサレムを目指して歩みを進めるイエスさまに、大勢の群衆が一緒についてきました。彼らは、なぜイエスさまについてきたのでしょうか?自分たちに何か利益をもたらしてくれるに違いない…と期待して?イエスさまこそローマ帝国からの解放者だ、と信じて?それとも、単なる好奇心から?それぞれにいろいろな動機があったのでしょう。そのような人々に対して、イエスさまは「弟子」とはどのような人を指すのか、教えられました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(中略)自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」実に、厳しい御言葉です。

中でも「憎む」と訳された言葉にドキッとしますが、これは「より少なく愛する」という意味のユダヤ的表現…と言われると、少しはホッとするでしょうか?しかし、この言葉にはもう一つ「放棄する」という意味もあるとのこと…だとすれば、愛する家族も、自分の命も、つまりは自分の持ち物すべてを「なげる」ほどの覚悟がなければ、イエスさまの弟子ではない!と言われていることになります。イエスさまの傍らでこの御言葉を聞いていた弟子たちは、どう思ったでしょう?俺は大丈夫、弟子合格だ!と胸を張ることのできた弟子は、果たしていたのでしょうか? 

ここでイエスさまが「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ~」と言われていることに注目したいと思います。すなわち、私たちにとって「自分の十字架」とは何か?ということです。私たちには、それぞれに負うべき「十字架」があります。それが、強いて負わされたものであるにせよ、あるいは自ら積極的に担おうとするものであるにせよ、私たちにはそれぞれに委ねられた「十字架」があるのです。その「十字架」をしかと背負った上で、イエスさまについていくのでなければ、真の弟子とは言えない。その「十字架」までどこかに放り出し、なげてしまってはならないのです。イエスさまが最後まで十字架を担い続けられたように、私たちもイエスさまの弟子だというなら、イエスさまと同じように最後まで背負わなければならないそれぞれの「十字架」があるのです。

心配はいりません。イエスさまは、私たちが背負う「十字架」を共に担ってくださいます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ福音書11章29節)なげるべきものはなげ、背負うべきものは背負って、イエスさまに従っていく者でありたい。

日笠山吉之牧師説教集・・・・・日笠山吉之牧師随筆集

 

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9月15日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝

司式:岡田薫牧師
説教:岡田薫牧師
奏楽:滝田裕美姉
聖書朗読:秋田直枝姉
礼拝当番:小笠原里子姉・小川照美兄

聖書:出エジプト記32:7-14・テモテへの手紙一1:12-17・ルカによる福音書13:1-10

讃美歌:149・293・402・聖餐讃美歌261


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9月1日「今日の礼拝堂」

2013年09月01日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第15主日

「今週の祈り:永遠・全能の神さま。あなたはキリストによって、すべての民に栄光を顕されました。み霊を注いで、み名を告白する堅固な信仰に、全世界の教会をたたせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇毎月第一週目は信徒で礼拝を守るようになって数ヶ月、もうすっかり雰囲気が整ってきました。今月の召天者の遺影とともに、今日もとても静かな心を寄せ合った礼拝ができました。
司式は役員のオガワ兄。説教は代議員のタキタ姉が岡田牧師の説教を代読しました。
お花はいろいろな色の糸菊とアスターです。深まり行く秋の色です。活けてくださった方はいつものようにNAさんです。

〇90年前の今日、関東大震災という近代化された首都圏を襲った直下型地震が起こりました。
90年前というから、既にその地震を体験した方はおおかた亡くなられたことでしょう。私は12年前に96歳で亡くなった父の介護をしていて、関東大震災の話しを繰り返されるレコードを聞くようにして枕元で聞いたことを思い出します。父の頭ではその後の地震は阪神大震災も全て関東大震災に吸収されているような感じでした。
最近のように次々に記録が上書きされる中で、私たちはどこまで記憶を風化させないでもち続けていくことができるでしょう。それよりなにより、正直いって私たちは自分の身に降りかかってこない限り、どんどん抵抗力が強くなって、衝撃的な出来事に対して不感症になっていくのを否めないように思います。隣り人を見失っている恐ろしさを感じます。
いつ、何が、自分たちのところに襲ってくるか分からないあやふやさの中で、私たちは今日も守られて礼拝を共にしみことばを与えられました。ほんとに身近な教会の中にも、苦しんでいる友、哀しんでいる友がいます。今日、礼拝に来られなかった方々を思って神さまの慰めを祈りましょう。

                        3_2 3_2 3_2 裏庭のハマナスの真っ赤に色づいた実です。

聖霊降臨後第15主日説教                岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書14:7-14

「主を知る恵み」

豊かであることの基準として私たちが真っ先に考えるのは、どのような事柄でしょうか。お金か?財産か?健康か?能力か?社会的な地位や権力?どれも魅力的なものではありますが、絶対的なものではありません。財産やお金は失われるものでありますし、能力も健康も地位や権力も永遠ではありません。むしろ、それらにしがみつこうとすればするほど私たちの心は平安を失います。

この日、主イエスは食事のためにあるファリサイ派の人の家に招かれていました。そして、次々と訪れる客が上席を選ぶ様子をご覧になりながら《婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。…むしろ末席に行って座りなさい…誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》と言われています。

ユダヤ人たちは、神の国に入った時、天の祝宴に招かれることを理想の状態として心に描いていましたから、常日頃それにふさわしい者であろうと律法を遵守し、忠実に努めていました。ですから、上席を好んで選ぶということは、“かねてから自分は律法に忠実である、神の前に恥ずかしいことはしていない”という証しでもあったのです。しかし席次というのは、本来主催者側が決めるべきものです。ですから自ら進んで上席に行くというのはやはり非常識であり、招いてくれた人の思いを欠く無礼な行為といえます。また主は、招いてくれた人に対しても《昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しが出来ないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。》と言われました。

主はここで、将来イスラエルの民だけでなく、全世界から信仰を与えられた者たちが神の祝宴へと集められる、ということを教えようとされているのです。ところが、主を招いた人も招待を受けた人々も自分には当然その権利があると考えていました。招待される側の勝手な判断と主催者側の思惑とが外れている可笑しさは、神の国、天の祝宴についての人々の無理解を指摘するものだったのです。そして、天の祝宴の招き手である神さまが判定されるべきことを無視する行為は、自らが神さまに取って代わろうとしてしまうこと、自己神格化になりかねない行為であるから、気をつけなさいと戒められているのです。

主はこのたとえを通して、神を知る恵み、そこに生かされている幸いを私たちがまず心に刻むようにと促しておられるのです。

岡田薫牧師説教集・・・・・・・・・・・・岡田薫牧師随筆集

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9月8日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝

司式: 甲斐神学生
説教: 日笠山吉之牧師
奏楽: 滝田裕美姉
聖書朗読: 小川敦子姉
受付当番: 大輪まり子姉・小川照美兄

聖書: 申命記29:1-8 フィレモンへの手紙1-25 ルカによる福音書14:25-33
讃美歌:168・392・200・聖讃讃美歌259

〇礼拝後、おにぎり食堂・LAOSの学び・信徒による話し合いの会があります。


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