桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 1

2018-04-07 10:48:34 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.1  
神宝交検事件と浅妻媛

AD160年頃、孝安天皇の命を受けた物部の大連は楽々福(ササフク)尊(後の孝霊天皇15歳頃)を旗頭に丹後路から出雲に向かいます。

出雲近くの孝霊山に借り宮を築き、素戔嗚祭祀だけで暴徒を抑えようとする出雲にスサノオ神宝の検閲を申し出ます。

ちょうど出雲の領主出雲振根が出かけて留守だったので、弟の飯入根が苦慮の末、神宝の1部(おそらく、数ある銅矛の一部)を渡しました。

帰ってきてそのことを聞いた出雲振根は激怒、飯入根を殺害してしまいます。

まだ出雲に滞在していた使節団は、出雲振根が飯入根を殺害したことを知り、出雲振根を殺害、これを期に出雲は大和に従順するどころか、逆に火に油を注ぐ形に。

交渉が長引く中、楽々福尊は土地の女性「朝妻媛」を妻に迎え「鶯王(伯耆王?)」を授かります。(*2)
交渉の決裂を見て、一旦、楽々福尊は朝妻媛、鶯王を置いたままヤマトに引き返します。

しかし、出雲支配下の地方では各地で益々鬼(賊)が暴れ始め但馬路、丹波路、瀬戸内と子主要交通網が遮断、外交、交易の出来ない状態に陥ってしまった。
特に大きな痛手は瀬戸内交通、九州方面での交流遮断は交易のみならず九州各国の離反にもなりかねません。
加えて三輪山の麓で採れた砂鉄(*1)も涸渇してしまい、製鉄の出来ない状態に。
此の侭ではせっかく作った大和王権も支配力を失い崩壊の危機に立たされてしまいます。

*1、三輪山の麓では上質の砂鉄が大量に採取された伝承が有り、今も田原本町の伊与戸はその子孫が暮らした場所だと伝えられます。
伊与戸の南、大きな社叢を持つ村屋神社自体が物部守屋の直系と考えられる所から、卑弥呼の跡を継いだ臺与(トヨ又はイヨ)或は関係者の居住地に繋がるとの説が一番ロマンが有って理にも叶う点が有ります。
歧多志田神社キタは鉄工の意味祭神の「天香語山命」は芸能の神だともされ、近くにフエフキ、タイコウジ、ヒョウシダの地名も残り、雅楽が最初に伝えられたちだともいわれて居ます。
*2、鳥取県の大山北麓、孝霊山伝承。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。


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