鏡作り神社「鏡作り神社」は田原本町近隣に5社あります。
鏡作り神社(八尾) 式内社 大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社。
鏡作り摩毛神社 式内社 田原本町大字小阪字里中244
鏡作り伊多神社(保津) 式内社 田原本町大字保津字村内150
鏡作り伊多神社 (都) 式内社 田原本町大字宮古字補屋60
鏡作り神社(石見) 三宅町石見650
「鏡作坐天照御魂神社」一般に言う鏡作り神社です。
田原本町八尾にある鏡作り神社は「鏡作坐天照御魂神社」で、それぞれの鏡作り神社の中心になる存在です。
御祭神は 天照國照彦天火明命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、饒速日命、天火明神、彦火 明神、櫛玉神、大物主神、大国魂、大国主(大和))
石凝姥命(イシゴリドメミコト、天岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。石の型を用いて鋳造に精通した女性の意味)鏡作り部の祖神
天糠戸命(アマノヌカト、アメノヌカト ノミコト、石凝姥命の子)鏡作り部の祖神
ただ、古い記録では、左から己凝戸辺命、天糠戸命、石凝戸姥命(大和志料記載)と有ります。
いずれも鏡作りに携わった神々が祀られていたようです。
国道24号線から少し入った県道わきに赤い鳥居が容姿を誇るかのように建っています、それは北へ続く参道と狭い駐車場の有る前の広場と共に砂利道の上に一際高く聳える様に見えます。
砂利道の少し広い参道の奥に垣に囲まれた拝殿とその後ろに三棟並んだ珍しい形の美しい本殿があります。
拝殿前の広場の手前に、鏡池(心洗池)が有り、鏡を洗ったり、鏡作りに携わる職人が身を清めたものだと謂われます。
古い神社には鏡池をよく見かけますが、身を清める、或いは姿を映すという意味では同じなのでしょう。
鏡池の前に小さな建物の中にあるのが鏡石。
説明書きには「此の鏡石は江戸時代に、前の鏡池より出土したもので、古代の「鏡」製作時、近辺の鏡作郷よりの粗鏡の仕上げ、即ち鏡面の研磨工程時使用された用具かと推察される。
鋳造面を「鏡面」への研磨時、この鏡石の凹面に粗鏡を固定し、上方から水を流しながら、二上山の麓より採取した金剛砂等で「平面加工」や「鏡面加工」を施した時の用具かと推察される。」
と有ります。
御神宝の鏡は、『三神二獣鏡(さんしんに じゅうきょう)』と称され、三角縁神獣鏡の外区が欠落したものとも言われます。
この神宝の三神二獣鏡は、縁の部分を欠く特異な保存状態であり、鋳型製作のための金製原型と推測、或いは製造工程で欠損した為放置されて残ったとの見解も有ります。
いずれにしろ、ここで三角縁神獣鏡が作られた証拠でしょう。
境内社に鍵取神社と笛吹神社が並んで立っています。
左側の鍵取神社は神無月に神々が出雲へ出張する時の鍵を預かる留守番役。
笛吹神社は葛木坐火雷神社(通称笛吹神社)の様ですが、笛吹には囃子の笛の意味ともう一つ、金属を溶かす炉に風を送る送風機の音の意味も持っています。
近くに鍵の地名や、少し南東に成りますがフエフキやタイコウジの小字名が残っているのも興味深い話です。
この先、色々と解明されることと期待しています。
真っ直ぐ伸びた長い参道の突き当りに整然とした形で建つのが拝殿。
綺麗に磨かれた床は奥の本殿を映し出し、手入れの届いた拝殿には神を敬う気持ちさえ伝わって来ます。
三社一棟の本殿は、左側から天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、石凝姥命の三柱の鏡作三所大明神が祀られています。
堂々とした三柱の本殿右横にちょこんと鎮座する四柱の神様は、左から天照皇太宮、手力雄神社、住吉神社、春日神社とされます。
本殿と拝殿の間東側に鏡作坐若宮神社が鎮座しています。
祭神は天八百日命 (あめのやおひのみこと)、神代4世の神様、八尾氏の祖神とも謂れて居ます。
社殿は1間間口、正面蟇股の下に二羽の白い鳥、さらにその下に白蛇の彫像が飾られ、社殿の両脇には本殿同様の象の木鼻が施されています。
大神神社同様、白蛇は守り神とされているようです。
参道の右脇に鏡作神社の由緒書の碑が建っています。
「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあります。
「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった...云々。
一帯は磯城城上郡と城下郡で編成され、
日本書紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったと有ります。
磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができます。
『和名類聚抄』によると、式下郡(しきのしもごおり)には、 賀美、大和(大和神社一帯)、三宅、鏡作、黒田、室原の6つの郷が有ったようです。
鏡作りの現在の郷中はかなり広範囲にわたって居ることが、大鳥居の手前の西の隅に建つ碑からうかがえます。
鏡作神社の拝殿左に大きな鐘楼が建っています。
社務所を含む一帯はかつて神仏習合時代神宮寺、真言宗「聞楽院」と言う寺院があり、明治5年に廃寺と成って、鐘楼だけが残り、寺院跡は社務所に成って居ます。
毎年2月21日に一番近い日曜日に、境内で五穀豊穣を祈願する御田植祭が催されます。
御田植舞、豊年舞の他、牛使いの儀など盛り沢山の農耕神事が奥菜割れ、近隣でも有名になって居ます。
当日は、牛が暴れるほど雨に恵まれると云われ、当日の境内は数多くの参拝客で賑わいます。
ほかの資料で興味深いものを少し列挙してみますと。
創立は崇神天皇六年とみられ『大倭神社注進状裏書』に
「社傳ニ云ク、中座ハ天照大神之御魂也、傳ヘ聞ク崇神天皇ノ六年九月三日、於是地改鋳日御象之鏡、為天照大神之御魂、今之内侍所ノ神鏡ナリ、即チ当社ハ其像鏡奉斎、爾来号此地ヲ日鏡作ト」
天照大神が天岩戸に籠った時、石凝姥命が、天香具山の銅を取って鏡を鋳て日の像を作ったという。
現在の主祭神は天照國照彦天火明命。
先代旧事本紀に、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とあり
神紋は、『神社名鑑』には、「鏡型、七九の桐と巴」とあます。
弥生遺跡で有名な鍵・唐古遺跡の南西、『和名抄』の大和国城下郡鏡作郷に位置し、周囲に他にも三社の鏡作社がかたまってある。とあり、
この三社は鏡作り摩毛神社(小坂)、鏡作り伊多神社(保津)、鏡作り伊多神社(都)に当たります。
八尾鏡作り神社より南に秦庄の地名もあり、さらにその南方に曾我遺跡があり、膨大な数の玉作の素材や破片 が出土し、さらにさらにその近くには側の忌部(インベ)町が有り、天太玉神社と言う名の神社が有るのも意味深く感じます。
また、鏡作神社の目と鼻の先にある鍵・唐古遺跡から流水紋刻線の銅鐸鋳型が 発見され、銅鏡と銅鐸がほぼ同じ場所で作られていたことを 実証しています。
更に、鍵・唐古遺跡から数キロ東南の三輪山の麓、桜井市 の太田から銅鐸の耳の部分の破片もが出ています。
このあたりは敏達天皇の訳語(オサタ)田幸(サチ)玉宮(タマノミヤ)の伝承地とされ、彼がもうけた日祀(ヒマツ)リ部の名負いの他(オサ)田(ダ)日奉部(ヒマツリベ)は、鏡作神社の西側の黒田郷(7代孝霊天皇黒田廬戸宮所在地)の鏡作氏の戸籍に付けられていますので、銅鐸と鏡は深いかかわりが有ったと思われます。
柏原市内に式内社の鐸比古・鐸比売神社というのがあり、その近くから多鈕 細文鏡が発見された事も、あたかも銅鐸と鏡を関連付けているようです。
『古語拾遺』(中臣氏負けた忌部氏の上申書)では、天岩屋に祭ったのは鏡・幣・玉の他に 天目一個神が作った刀・斧および鉄鐸(サナギ)であったそうです。
鏡作神社の歴史は、第10代崇神天皇の御代に遡ります。
疫病が流行るなどして乱れる世の中。皇居に八咫鏡を祀るのは畏れ多いと、豊鍬入姫命に託された天照大神の八咫鏡は大和の笠縫邑に祀られることになります。その際に別の鏡を作ることとなり、試鋳された鏡を天照国照彦火明命と称え、ここに祀ったと伝えられます。
参道右手に結界の張られた場所があります。
良く見かける土俵のある場所で、おそらく祭事の際に土俵が作られ、奉納相撲が行われてしょう。
鏡作り神社(八尾) 式内社 大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社。
鏡作り摩毛神社 式内社 田原本町大字小阪字里中244
鏡作り伊多神社(保津) 式内社 田原本町大字保津字村内150
鏡作り伊多神社 (都) 式内社 田原本町大字宮古字補屋60
鏡作り神社(石見) 三宅町石見650
「鏡作坐天照御魂神社」一般に言う鏡作り神社です。
田原本町八尾にある鏡作り神社は「鏡作坐天照御魂神社」で、それぞれの鏡作り神社の中心になる存在です。
御祭神は 天照國照彦天火明命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、饒速日命、天火明神、彦火 明神、櫛玉神、大物主神、大国魂、大国主(大和))
石凝姥命(イシゴリドメミコト、天岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。石の型を用いて鋳造に精通した女性の意味)鏡作り部の祖神
天糠戸命(アマノヌカト、アメノヌカト ノミコト、石凝姥命の子)鏡作り部の祖神
ただ、古い記録では、左から己凝戸辺命、天糠戸命、石凝戸姥命(大和志料記載)と有ります。
いずれも鏡作りに携わった神々が祀られていたようです。
国道24号線から少し入った県道わきに赤い鳥居が容姿を誇るかのように建っています、それは北へ続く参道と狭い駐車場の有る前の広場と共に砂利道の上に一際高く聳える様に見えます。
砂利道の少し広い参道の奥に垣に囲まれた拝殿とその後ろに三棟並んだ珍しい形の美しい本殿があります。
拝殿前の広場の手前に、鏡池(心洗池)が有り、鏡を洗ったり、鏡作りに携わる職人が身を清めたものだと謂われます。
古い神社には鏡池をよく見かけますが、身を清める、或いは姿を映すという意味では同じなのでしょう。
鏡池の前に小さな建物の中にあるのが鏡石。
説明書きには「此の鏡石は江戸時代に、前の鏡池より出土したもので、古代の「鏡」製作時、近辺の鏡作郷よりの粗鏡の仕上げ、即ち鏡面の研磨工程時使用された用具かと推察される。
鋳造面を「鏡面」への研磨時、この鏡石の凹面に粗鏡を固定し、上方から水を流しながら、二上山の麓より採取した金剛砂等で「平面加工」や「鏡面加工」を施した時の用具かと推察される。」
と有ります。
御神宝の鏡は、『三神二獣鏡(さんしんに じゅうきょう)』と称され、三角縁神獣鏡の外区が欠落したものとも言われます。
この神宝の三神二獣鏡は、縁の部分を欠く特異な保存状態であり、鋳型製作のための金製原型と推測、或いは製造工程で欠損した為放置されて残ったとの見解も有ります。
いずれにしろ、ここで三角縁神獣鏡が作られた証拠でしょう。
境内社に鍵取神社と笛吹神社が並んで立っています。
左側の鍵取神社は神無月に神々が出雲へ出張する時の鍵を預かる留守番役。
笛吹神社は葛木坐火雷神社(通称笛吹神社)の様ですが、笛吹には囃子の笛の意味ともう一つ、金属を溶かす炉に風を送る送風機の音の意味も持っています。
近くに鍵の地名や、少し南東に成りますがフエフキやタイコウジの小字名が残っているのも興味深い話です。
この先、色々と解明されることと期待しています。
真っ直ぐ伸びた長い参道の突き当りに整然とした形で建つのが拝殿。
綺麗に磨かれた床は奥の本殿を映し出し、手入れの届いた拝殿には神を敬う気持ちさえ伝わって来ます。
三社一棟の本殿は、左側から天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、石凝姥命の三柱の鏡作三所大明神が祀られています。
堂々とした三柱の本殿右横にちょこんと鎮座する四柱の神様は、左から天照皇太宮、手力雄神社、住吉神社、春日神社とされます。
本殿と拝殿の間東側に鏡作坐若宮神社が鎮座しています。
祭神は天八百日命 (あめのやおひのみこと)、神代4世の神様、八尾氏の祖神とも謂れて居ます。
社殿は1間間口、正面蟇股の下に二羽の白い鳥、さらにその下に白蛇の彫像が飾られ、社殿の両脇には本殿同様の象の木鼻が施されています。
大神神社同様、白蛇は守り神とされているようです。
参道の右脇に鏡作神社の由緒書の碑が建っています。
「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあります。
「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった...云々。
一帯は磯城城上郡と城下郡で編成され、
日本書紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったと有ります。
磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができます。
『和名類聚抄』によると、式下郡(しきのしもごおり)には、 賀美、大和(大和神社一帯)、三宅、鏡作、黒田、室原の6つの郷が有ったようです。
鏡作りの現在の郷中はかなり広範囲にわたって居ることが、大鳥居の手前の西の隅に建つ碑からうかがえます。
鏡作神社の拝殿左に大きな鐘楼が建っています。
社務所を含む一帯はかつて神仏習合時代神宮寺、真言宗「聞楽院」と言う寺院があり、明治5年に廃寺と成って、鐘楼だけが残り、寺院跡は社務所に成って居ます。
毎年2月21日に一番近い日曜日に、境内で五穀豊穣を祈願する御田植祭が催されます。
御田植舞、豊年舞の他、牛使いの儀など盛り沢山の農耕神事が奥菜割れ、近隣でも有名になって居ます。
当日は、牛が暴れるほど雨に恵まれると云われ、当日の境内は数多くの参拝客で賑わいます。
ほかの資料で興味深いものを少し列挙してみますと。
創立は崇神天皇六年とみられ『大倭神社注進状裏書』に
「社傳ニ云ク、中座ハ天照大神之御魂也、傳ヘ聞ク崇神天皇ノ六年九月三日、於是地改鋳日御象之鏡、為天照大神之御魂、今之内侍所ノ神鏡ナリ、即チ当社ハ其像鏡奉斎、爾来号此地ヲ日鏡作ト」
天照大神が天岩戸に籠った時、石凝姥命が、天香具山の銅を取って鏡を鋳て日の像を作ったという。
現在の主祭神は天照國照彦天火明命。
先代旧事本紀に、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とあり
神紋は、『神社名鑑』には、「鏡型、七九の桐と巴」とあます。
弥生遺跡で有名な鍵・唐古遺跡の南西、『和名抄』の大和国城下郡鏡作郷に位置し、周囲に他にも三社の鏡作社がかたまってある。とあり、
この三社は鏡作り摩毛神社(小坂)、鏡作り伊多神社(保津)、鏡作り伊多神社(都)に当たります。
八尾鏡作り神社より南に秦庄の地名もあり、さらにその南方に曾我遺跡があり、膨大な数の玉作の素材や破片 が出土し、さらにさらにその近くには側の忌部(インベ)町が有り、天太玉神社と言う名の神社が有るのも意味深く感じます。
また、鏡作神社の目と鼻の先にある鍵・唐古遺跡から流水紋刻線の銅鐸鋳型が 発見され、銅鏡と銅鐸がほぼ同じ場所で作られていたことを 実証しています。
更に、鍵・唐古遺跡から数キロ東南の三輪山の麓、桜井市 の太田から銅鐸の耳の部分の破片もが出ています。
このあたりは敏達天皇の訳語(オサタ)田幸(サチ)玉宮(タマノミヤ)の伝承地とされ、彼がもうけた日祀(ヒマツ)リ部の名負いの他(オサ)田(ダ)日奉部(ヒマツリベ)は、鏡作神社の西側の黒田郷(7代孝霊天皇黒田廬戸宮所在地)の鏡作氏の戸籍に付けられていますので、銅鐸と鏡は深いかかわりが有ったと思われます。
柏原市内に式内社の鐸比古・鐸比売神社というのがあり、その近くから多鈕 細文鏡が発見された事も、あたかも銅鐸と鏡を関連付けているようです。
『古語拾遺』(中臣氏負けた忌部氏の上申書)では、天岩屋に祭ったのは鏡・幣・玉の他に 天目一個神が作った刀・斧および鉄鐸(サナギ)であったそうです。
鏡作神社の歴史は、第10代崇神天皇の御代に遡ります。
疫病が流行るなどして乱れる世の中。皇居に八咫鏡を祀るのは畏れ多いと、豊鍬入姫命に託された天照大神の八咫鏡は大和の笠縫邑に祀られることになります。その際に別の鏡を作ることとなり、試鋳された鏡を天照国照彦火明命と称え、ここに祀ったと伝えられます。
参道右手に結界の張られた場所があります。
良く見かける土俵のある場所で、おそらく祭事の際に土俵が作られ、奉納相撲が行われてしょう。