「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 高幹島崎城を築く事

2020-04-01 10:48:17 | 古文書

島崎家家臣団の末裔の萩原家にて長年大切に保管していた古文書「島崎家由来の巻」の解読本が発行されましたので紹介します。

 

高幹島崎城を築く事  附長国寺創営之事

兵書に曰(いわ)く、善く国を治むる者は、民を御する事、父母の子を愛すが如(ごと)く兄の弟を愛すが如し。其(その)飢(き)寒(かん)を見ては則憂い、其労苦を見ては則悲しみ、其賞罰に至ては身に加ふるが如し。

賦斂(ふれん)をば己が物を取るが如く、是(これ)民を愛し国を治るの要道也。

民を懐(いだ)ける時は自然と国家豊穣(ほうじょう)にして其家門繁盛に及ぶとかや、爰(ここ)に島崎二郎高幹は其身文武の二道に長じ、上は将軍の命を重(おもん)じ、下百姓を憐れみ(あわ)道に邪なかりしかば其(その)威名(いめい)近隣に隠なく、名士猛卒招かざるに来り集り、臣たらん事を請う。

高幹大に悦び厚く恩を施されしかば、君臣上下一つに和し勇威強大にて、家門益々繁栄に及びける

時に建久六年春、鎌倉へ参勤し而(こうして)将軍家に謁見(えっけん)し城地取立普請(ふしん)支度旨委細言上(ごんじょう)に及びけるに、早速願え通り免許せられければ高幹限りなく悦び御を願ひ、常陸へこそは帰えられける。

天より縄張りなし普請の次第、一々絵図に認め委(くわし)く諸役人に申渡し、夫々に人夫を集め、近国他国より木石を持運び堀を掘り、土手を築き上部 書に「建久六年願済になり、正治二年迄七ケ年にして城全く成る」

二重柵に二重塀を設け、本丸・二ノ丸・出丸・腰曲(くる)輪(わ)、其外所々空堀を掘り、切櫓をかけあげ、正治二年堅城全く成就しけり。

其要害、東は塩根大生原より十四町北方に大堀を堀り柵をふり、南は香取浦の入海より十町計り隔て大堀を穿(ほ)り、海水をたたえ、西は行方通りの大道より脇に河幅広く堀り切りて要水害とし、北は逆茂木(さかさもぎ)柵透間(すきま)もなく結廻して惣構(そうがまえ)とせり。

都(すべ)て島崎茂木上戸に家中諸士の家檐(ひさし)を双(ならび)て、実に無双の要害也。本城の東南の隅に三重の高櫓(やぐら)雲に聳(そび)え、是を物見(ものみ)櫓(やぐら)と名づく。

此櫓より東は渺渺(びょうびょう)たる大生原。鹿島根の遠霞白布を曵(ひ)けるが如く見え渡り、所々の桜花の色をまし、彼(かの)處(ところ)の吉野の春景色も斯(か)くやと疑う計り。

南の方は、夏(なつ)衣(ころも)香取ケ浦の浪風冷かに吹晴れ三伏の夏も忘れ、夏なき心ちがせられ、西は霞浦の湖水漫々として、膳所(ぜぜ)の琵琶湖を望むに等しく、風に順(したが)う舟の帆は兎(うさぎ)の浪(なみ)を走るが如く、北麻生玉造続き渡れる里々の枯木に置ける霜迄も、花かとあやます。

匣(ぎょくこう)に荒山千丈の雪を積りて峙(そばだ)てる、四季の時々の風景は画が如く他邦に秀(ひいで)て要害も亦(また)無双の勝地なり。

高幹限りなく悦び此(この)處(ところ)に住せしより、嶋崎家代々の居城とす。高幹は承久二年十二月三日逝去す。

行年五十三也。嫡子を太郎晴(はる)幹(もと)という。承久(じょうきゅう)乱(のらん)の節、北条に属し宇治巻嶋の合戦に討死す。次男を二郎政(まさ)幹(もと)という父兄 の跡を継ぎ、島崎左衛門尉(じょう)と号す。

其子太郎左衛門尉長幹(ながもと)、佐竹長義の娘を娶(めと)り一子を設け平四郎忠宗と号し、左衛門尉に任じ、正応(しょうおう)四年五月、五十三歳にし卒す。

子息太郎時(とき)幹(もと)安藝(あき)守(のかみ)に任す。其嫡子太郎左衛門尉高直、次男盛時、三男三郎繁定という。

何れも無双の勇士なり元弘(げんこう)建武(けんむ)の頃足利佐馬頭直義に従い、所々戦功を顕(あらわ)し相模次郎時行蜂起の時、高直は足利に属し、次郎盛時定は時行に従い(したがい)建武二年武州鶴見の戦いに盛時は討死し、弟繁定は痛手を負い下総国に引退して、鎌倉方残らず敗軍に及びければ、三郎繁定も終に自害しける。

太郎左衛門高直は足利に属し戦功有(ある)故(ゆえ)、本領安堵の御教書を給わり島崎城に帰任す。

嫡子小次郎氏(うじ)幹(たか)は高氏の偏名(へんめい)を給り、氏幹と名乗り左衛門尉に任ぜられ武田太郎信繁の娘を娶(めと)り、此(この)腹に男子出生す。島崎太郎と言う。

氏幹は至(し)徳(とく)(北朝年号)元年甲子(きのえね)行年五十三歳にして卒す。嫡子太郎、家督を継ぎ左衛門尉任す。然るに鎌倉は足利佐馬頭満氏関東菅領(かんれい)として、鎌倉在城して鎌倉公方(くぼう)と称す。

太良左衛門尉は満氏の寵(めぐみ)を蒙り(こうむ)、偏名を拝領し満幹(みつもと)と号し応(おう)永(えい)十一年甲(きのえ)甲(さる)行年四十八歳にして卒す。

嫡子太良(たろう)安定次男次(じ)良(ろう)重時(しげとき)、三男三(さぶ)良(ろう)盛国という、安定家督を継ぎ、大炊之(おおいの)助(すけ)重幹(しげもと)と改め然(しか)るに応永廿三年執事杉氏(うじ)憲(のり)鎌倉公方持氏を諌(いさめ)れども聴かずして合戦に及びしに、大炊之介重幹は、持(もち)氏(うじ)に従い防戦すと雖も(いえど)其軍利あらずとして駿河国に引退く。

舎弟次良重時は駿河国にて討死す。其後、成(しげ)氏(うじ)公方の家督を継ぎ鎌倉に還(げん)住(じゅう)せられし砌(みぎ)り大炊之介重幹も召出され寵(ちょう)遇(ぐう)、他に異なり三良盛国も同じく出され、右馬に補(ほ)せらる。重幹の嫡子小太良為幹という。

公方成氏の諱(いみな)の一字を賜り成幹と改め衛門尉となり後、駿河守に任ぜらる二男刑部左衛門棟幹、後に修理之亮と号す。

三男三郎盛長と号す共に成氏に仕う。成幹子息二人あり。嫡子太郎国幹左衛門尉駿河守に補せらる、次男次郎吉(よし)幹(もと)右京佐と号す。

太良国幹の嫡子太良左衛門尉播磨守長国と号す。是より、島崎家中興の良将にして文武の道に達し、殊に神仏を尊い民と憐み給いしかば、諸人其徳を称せざるはなし。

爰(ここ)に奥州岩崎郡荒川と云う所に龍川寺という禅林有り。彼の寺に英仲禅師とて道徳高き僧有ける。長国豫(かね)て彼の僧の道徳を慕い、呼向いて対面せんと人を遣(つか)わしければ英仲禅師使と共に来り、長国に謁見(えっけん)す、播播磨守長国限なく悦び、種々饗応し英仲を師とし学問を励み禅法を修しける。

英仲奥州へ帰らんと云えるけるに、長国懇(ねんごろ)に止めて帰さず信心の餘(あま)り文永年中上戸に一寺を建立し、英仲禅師を開山とし、永く此地に止められし英仲禅師も止事(やんごと)を得ずして、爰(ここ)に止まり禅法修行忌(はばか)りなかりければ、諸人尊敬して次第に繁(いそが)しける。

長国開山基故大興山長国寺霞浦禅林と大額、今に存せり。然るに永正十二年夏の始、島崎左衛門長国、心地例(たとえ)ならずして打臥しけるか、日を追うて病重り頼み少なく見えしかば、妻子諸臣を召集め宣(のたま)へけるは、我死せば霞浦禅林に葬(ほうむ)り、長く我本懐を達せしむべし、と言い終りて終(つい)には、はかなくならせたまいつ。

一族家子従難き悲しむと雖(いえど)も、其甲斐あらざれば遺言の如く泣々尊び骸(むくろ)を霞浦禅林に葬り、謚(おくり)名を大興山隆公庵主と号し、日頃身に代え命に替らんとする家の子郎等も多しと雖(いども)も、無常の散気(華)は智勇の良将というとも防ぎ止むること能(あた)わず冥途黄泉(よみ)の旅路に赴(おもむ)かせ給う。

会者定離の世習ひ是泪に及ぼす事共なり。


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