「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎城跡発掘調査報告書」島崎城の構造―水の手曲輪・帯曲輪・腰曲輪・古屋曲輪

2021-07-17 16:32:48 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。

  1. 島崎城の構造

水の手曲輪

 馬出曲輪と西Ⅱ曲輪との中間,鞍部状の窪みを平場に造成L字状に空堀〈3〉をめぐらす水の手曲輪(仮称)がある。東西42m・南北35m,約1032㎡の面積である。西側に「大井戸」と 呼ぶ径4mの岩盤を刻り貫いた丸井戸があり,現状では深さ3mほどであるが,昭和30年代辺りまでは水を湛えた井戸で,危険なため教育委員会と御神社氏子により埋め立てたのである。この丸井戸の周囲は5mほど楕円状に掘り込まれ水汲み場・水屋施設の平場が形成されている。

 地元には,「天正19年(1591) 年,城主島崎安定が佐竹氏によって謀殺された折,佐竹勢が島崎城を攻擊,城は落ちてしまう。島崎一族の者が島崎家家宝の黄金の鳥を、この大井戸に投げ込んだ」という伝説がある。全国的に流布する落城金鶏伝説で,一般には落城の日とか正月に金鶏が鳴くという話が付くものである。

 さて、この大井戸遺構の東側に,平場が形成される。標高24mで、1曲輪より4.5m,馬出曲輪より5m,西Ⅱ曲輪より4.5m低い。南側一部に空堀<3>に並行する土塁(高さ1.5m) が 残る。この土塁は、空堀 <3>堀底道のカーブ地点にあたり、堀底道への物見台的機能があったとみられる。また,平場は北側に鋭く突出する形で出張るが,これは虎口〈1〉からの進入に対する物見,横矢に対する出張りである。 

帯曲輪・腰曲輪・虎口(イ)(ハ)・古屋曲輪

 埋め立てられてしまった空堀<3> 北側は虎口(イ)で西側へ堀となって降り,腰曲輪とつながり,虎口(イ) の内側は北へ帯曲輪となって東Ⅱ曲輪外周をめぐり,虎口(ハ)に至る。虎口 (イ)は残念なことに昭和55年の参道工事の折,ブルドーザで幅が広げられてしまって旧状が不明である。しかし,以前よりこの位置は隘口となり,大手口と伝承されてきた。ここを大手口とみるのは、いささか無理があるが,この西側前方の谷間,古屋曲輪・越前曲輪は、大手口方面であると認められ,付図1に示したように谷間入口には「表門」と呼ぶ所がある。虎口(イ)の道路工事の折,ここより五輪石塔の一部と宝篋印塔の一部が出土している。かってこの隘口部が大手口でないにしても重要な虎口であったことは充分に想像できよう。

 虎口(イ)の北側帯曲輪は幅10m平均で長さ50m,通路に利用されたことは,塚状の土塁をともなう虎口(ハ)の存在から判明する。今日,帯曲輪東側壁面に3~4カ所の横穴(開口部70 cm) がある。この横穴は1mほどの掘り込みがみられ,廃城前か,その後の,また城郭以前の横穴かは不明で,かなりの埋没が認められる。虎口(ハ)は東斜面敷に幅3mほどの虎口部を形成,西に高さ1.5mの土塁を構える。この虎口(ハ)より幅1mほどの通路が,空堀〈4〉の堀底にむかって延びている。虎口(イ)から坂をくだり,標高14m地点に,今日桑畑となる腰曲輪がある。東西30~12m・南北40mほどの広さで、虎口(イ)の防備を意識した構えである。

 北側の堀<7>塁壁上に,高さ2m,長さ12mの土塁があり,褶部が幅4mもあって、物見台状となる。下方の古屋曲輪との比高は5.5平均あり,この物見台状土塁が盛られることから,古屋曲輪との連絡通路がどのようになっていたかは不明である。現状では虎口(イ)より西へ古屋曲輪南側を通るまっすぐな道があるが,この道は御礼神社参道としてつくられたもので,旧状は不明である。

 谷間麓の古屋曲輪は、城内というより根小屋的構成を有していた曲輪で,現在の土子家の敷地55m×35mにあたる。標高8.5~9m周囲より4~4.5m高い。

 かって(昭和30年代まで)西側に濠がめぐり、北側は堀〈7〉で越前曲輪と仕切られる。堀〈7〉は現状で幅10m,深さ1m 弱を測り,竹林となっている。

Ⅱ曲輪北側の二重空堀・物見台

 島崎城大規模普請の様子を如実に語る遺構が,東Ⅱ曲輪とⅢ曲輪を分けるための二条の空堀 と,後述するⅢ曲輪空堀(大堀)の存在である。広義の内城域と中城域を別するこの二条の空堀は,いずれもかって堀底が通路である空堀道であったとみられる。

 空堀〈4〉は,虎口(ハ)からつづく通路延長から東Ⅱ曲輪をコの字形にめぐる堀で,実効幅は最大32m(上幅同じ)を東Ⅱ曲輪北土塁上八幡台と物見台上間で測る。現状で深さは、直高11m,南斜面法高は21mで,かなりの遺構面までの埋没が認められる。東側での空堀<4> は実効幅23m(上幅18m)で、西側法高は凡そ20mの規模である。この距離は,長柄鑓(凡そ7m)での戦闘はできない。そこで,北側物見台中腹部に腰曲輪をつくり、八幡台との実効堀幅 を16mにしたともみられる(なお,この腰曲輪は橋脚台ともみられる)。

 以上の空堀〈4〉と,空堀〈5〉の中間に物見台および土塁通路状遺構がある。この物見台と空堀〈4〉に並行する外周土塁は,掘り残し部分の加工土塁である(成田上層の砂質岩盤層位が斜面にある)。興味ある点は外周土塁の南側から、物見台である頂部(標高29.3m) にかけては、 18度の勾配をもって土塁は緩やかにたちあがり,褶部は坂道を呈し,南より北西へまわりこむ形で幅2~3mでつづく。これは前述したが,空堀<4>底道から、この外周土塁へと入城ルートがあり、物見台に至り,おそらくは八幡台に橋で渡ったと思える構成なのである。なお,このようなルートを経た場合、空堀<4>を跨ぐ32mもの架橋が可能であったかどうか,中腹腰曲輪が,橋脚台であったのか否かは,今後の発掘調査成果をみないと何とも断じ得ない。

 物見台とⅢ曲輪との中間には、空堀<5>が穿たれている。この空堀<5>は、今日も古屋地区より金井柵への連絡通路として利用されている空堀道である。しかし近年の埋め立てや道路工事により西側はほとんど旧状をとどめていない。現状においての物見台北側で,実効堀幅14m (上幅11m), 深さは直高7m,法高10mを測り、かなりの埋没が認められる。掘り方プラ ンは、物見台からつづく外周土塁とは並行せずに東側に延び,小字「金井柵」と呼ばれる根古屋北側先端に至る。空堀 <5>は根小屋地区を区画(北限)する機能もあったことが想定される。

 空堀〈5〉の物見台より西側は,後述のように近年に改変されてしまった。消滅前の空堀<5>は坊主屋敷と呼ばれる腰曲輪の東側斜面敷を穿って,堀<7>に接続していたとみられ, 坊主屋敷の道路敷がその跡とみられる。すなわち空堀<5>は,金井柵から残存部分の堀を経て坊主屋敷東側をめぐって堀<7>に至って,内城域の区画一防備ラインーを形づくるものであったとみられる。一見て堀〈7〉は空堀の〈4〉の延長上にあるとみえるが,あまりの高低差(凡そ10m)と塁壁面のつながりが見い出せない。空堀<5>と坊主屋敷を結んで堀<7> に至ったとみると、伝承も全体プランからみても自然な構築法といえるのである。⇒次回はⅢの曲輪・坊主屋敷・外曲輪を予定。

 



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