「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「堀之内大台城」発掘調査報告書 別編 歴史的考察 

2022-04-05 22:01:39 | 歴史
豊臣期佐竹領国の構造  
―堀之内大台城を中心として―
はじめに
堀之内大台城(以下、大台城と略記する)は、佐竹氏が築いた城郭である。 そこで、佐竹氏の領国統一と豊臣大名としての佐竹氏の動向を追いなが ら、大台城築城に至る過程とその役割について考察を加えたいと思う。
 1.佐竹氏と豊臣政権
戦国期の佐竹氏は、奥七郡と称される常陸国北部の領国を大きく超えることはなく、佐竹氏権力は、基本的に太田城の佐竹氏と佐竹氏に従属しながらも独立性の強い江戸氏により構成されていたといってよい。
佐竹氏は、戦国後期には主として陸奥に対して北上し、天正十年代以降は伊達氏と対立するに至る。常陸においては、永禄年間以降小田氏との対立の中で常陸南部に進出する。いっぽう、伊豆・相模・武蔵を領国化した後北条氏は、天正二年(1574)以降、下野・下総・常陸に進出する。ここにおいて、佐竹氏は後北条氏・伊達氏と対立することになった。後北条氏と伊達氏の間には、佐竹氏を双方から攻撃するという縁約が成立していたとみられる。これに対して、佐竹氏は、伊達氏に対しては最上氏・蘆名氏・相馬氏などの諸氏とともに伊達氏包囲網を形成して対抗した。後北条氏に対しては、結城氏・宇都宮氏などと結んで対抗するとともに、後北条氏の背後にある豊臣政権との結びつきによって対応したとみられる。
天正十一年(1583)東国に連絡を求めて来た豊臣秀吉に、佐竹氏は直ちに答報している。佐竹氏は東国大名の中で、豊臣政権に対してきわだった対応をみせている。
天正十四年五月二五日、豊臣政権は関東・奥両国停戦令を発した。この停戦合は、戦国大名間の領土紛争を、豊臣政権の領土裁判権の下で否定する私戦禁止令であったとみられる。これより先、同年四月十九日、佐竹義重のもとには同様な趣旨の秀吉直書が発給されていた。それは、秀吉が上杉景勝を取次として佐竹氏に発給したものであり、関東・奥羽の戦国大名間の領土確定の方針を、いちはやく佐竹氏に報じたものとみることができる。すなわち、佐竹氏と豊臣政権の関係がこれ以前から緊 密であったことが知られるのである。
この停戦令の焦点は、南奥羽における佐竹氏・最上氏などと伊達氏の対立、関東における佐竹氏・宇都宮氏などと後北条氏との対立にあったと考えてよい。豊臣政権は、関東に対して山上道牛を使者として派遣し、諸大名間の停戦と領土確定の任務に当たらせている。
豊臣政権の関東奥羽に対する政策は、天正十四年末に変化する。天正十四年九月二五日の時点では、豊臣政権は上杉景勝に関東から奥羽までを豊臣政権に結びつける申次・取次の任を果たせようとしていた。しかし、この豊臣方の方針は、同年十月末に徳川家康が秀吉の母大政所を岡崎に質として上洛し、秀吉に服属を誓ったことによって大きく転換をとげる。この天正十四年十一月の時点で、秀吉は関東・奥両国惣無事令の執達を徳川家康を中心として推し進めることとなった。
天正十五年十二月三日付をもって、豊臣政権は「惣無事之儀」の執達 を徳川家康に命じ、違反する者は成敗する旨を秀吉直書で関東・奥羽の諸大名に広く通告した。この主旨を報じた秀吉直書は、結城氏・岩城氏 ・伊達氏の三者に充てたものしか現存しないが、佐竹氏にも同様な趣旨の秀吉直書が発給されていたと考えることは、想像に難くない。惣無事令は、戦国大名の抗争を私戦として禁止し、その禁圧を目指すものであり、さらに、戦国大名間の領土を画定するものであった。佐竹氏においても、当知行地を基本とする領国は、この時期に確定していたとみられる。
2. 佐竹氏の領国統一と島崎氏の滅亡
天正十八年(1590)の豊臣政権による後北条氏討滅にあたり、関東 ・奥羽の諸大名は、豊臣秀吉のもとに参陣することが命ぜられた。小田原参陣がこれであり、参陣しなかった大名は領主権を没収され、その領地は他の領主に与えられた。
佐竹氏は、小田原の役に際し、同年五月二五日、義宣が宇都宮国綱ともに小田原に参陣し、五月二七日豊臣秀吉に謁した。この時、義宣に従った一族・客将・国衆ら十二名の中に島崎氏がおり、義宣が豊臣方に太刀・馬・金などを献じたのにならい、島崎氏も秀吉に太刀一腰・馬一足を献じている。この島崎氏は、島崎安定とみられる。
島崎氏は、島崎城を本拠として、戦国末期には行方郡南部を支配下に治めていたが、いっぽうで、佐竹氏の答下ともなっていた。島崎氏が佐竹方となったのは、後北条氏の勢力が北進して来ることと、小高氏・玉造氏など他の行方郡の領主に対抗するためとみられる。しかし、それは佐竹氏を主、島崎氏を従とする単なる軍事的な同盟関係ではない。小田原参陣において、島崎氏は佐竹氏の国衆として位置づけられている。従って、島崎氏は自己の領内の知行充行権をはじめとする諸権限は留保しながらも、実質的には佐竹氏に従属する一国人となっていたとみられる。 そして、島崎氏が佐竹氏とともに秀吉に謁見したこと自体、島崎氏は佐竹氏の磨下として認識されたことになり、独立した領主としての領主権を豊臣政権から認定されなかったことになる。
天正十八年八月朔日、佐竹義宣は豊臣秀吉から常陸国と下野国内の戸 領「当知行分」二一万六七五八貫文を目録別紙を添えて安堵された。このなかには、江戸氏領や大掾氏領とともに、佐竹氏の実際の支配地ではなかった鹿島郡・行方郡など常陸南部の地も含まれていたと考えられる。 同年十一月十日、義宣は上洛にあたって、重臣真崎重宗・和田昭為両名に江戸・行方の仕置を命じ、十二月佐竹勢は、水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を滅ぼした。さらに、翌天正十九年閏正月二五日帰国した義宣 は、二月九日鹿島郡・行方郡の諸氏を太田城下で謀殺したと伝える。島崎安定・徳一丸父子は上小川で殺されたという。ここに佐竹氏は、豊臣政権を背景として領国統一を果たした。佐竹氏とともに小田原に参陣した島崎氏を滅ぼしたのは、佐竹氏が兵力と兵根を集中するための蔵入地の拡大をはかるとともに、霞ケ浦と北浦に挟まれた行方郡の軍事的価値と水郷舟運の掌握の必要性によるとみられる。
3.佐竹氏の行方郡支配と堀之内大台城の築城
ここでは、佐竹氏の領国支配、とりわけ行方郡の支配を考えながら、みられる。「小貫氏系図」の頼久の項に「慶長元年丙辰堀内城峠行ヲ築」、大台城の築城についてみていきたい。
すでに述べたように、天正十八年(1590)佐竹義宣が上洛に先立ち、真崎・和田らもっとも有能な重臣に委ねた行方郡の仕置は、翌十九年閏正月二五日の義宣の帰国を期して急速に推し進められ、同年二月九日の南郷三十三館の滅亡となって具現した。島崎氏の本拠である島崎城は、島崎安定・徳一丸父子の横死ののち、佐竹氏の攻撃により落城した。
天正十九年から文禄三年(1594)に至る時期の佐竹氏の行方郡支配については不明である 。しかし、領国の統一を遂げた佐竹義宣は、一例として新しい支配地である府中城 (石岡市)に一族の松平信久らを置き、「府中普請」に関する三カ条の定書を与えて、鎮城の構築を急がせている。佐竹氏が、行方郡支配の拠点として、一時島崎城を使用した可能性はあるが、しかし、佐竹氏が島崎城を恒久的な拠点として認識しなかったことは事実である。
府中城の構築にみるように、佐竹氏に天正十九年から大台城を築城する意図があった可能性はある。しかし、天正十九年の奥州出陣、文禄元年から同二年九月までの名護屋出陣、文禄三年の伏見普請役などの豊臣政権の軍役により、築城は進渉しなかったと思われる。文禄三年十月から同年末にかけて、佐竹領国に太閤検地が実施され、翌文禄四年六月十九日、佐竹義宣は検地結果に基づき、豊臣秀吉から五四万五八○○石にのぼる領国を新たに安堵された。
このうち、行方郡の総石高は二万六三七一石余である。佐竹氏は、文禄四年七月から九月にかけて、家臣に一斉に知行充行状を発給し、知行割替を行った。この時、行方郡南部は小貫頼久に支配が委任されたとみられる、その本拠として大台城が利用された。文禄四年には、大台城の本格的築城が開始されたとみられる。
「小貫氏系図」の頼久の項に、「慶長元年丙辰堀内城在干行方郡ヲ築」『新編常陸国誌』に掘内故城として「慶長元年佐竹義宣ノ家臣小貫大蔵始テ築ク」と見えるのは、慶長元年大台城が一応完成した時期を示した小貫頼久が城代となった。
佐竹氏は、行方郡の支配のため、大賀城 (潮来町)・小高城 (麻生町)・玉造城 (玉造町)と大台城の四城を使用しているが、このうち拠点となったのが大台城であり、行方郡が佐竹領国の南端に位置することからも、大台城の築城は、佐竹領国において重要な意味をもったとみられる。
4.大台城代小貫頼久について
先にも述べたように、大台城代は小貫頼久である。ここでは、まず小貫頼久について述べる前に、小貫氏についてふれておきたい。「佐竹諸氏系図」四所収の「小貫氏系図」により、頼久に至る小貫氏の略系図を作成すれば次のようになる。
小貫氏略系図
公通―通近―通直―通長―通政―某―某―頼等―頼隆―頼郷―頼忠―某―通伯―通勝―通定―頼重―某          頼久
       某―元勝―俊通―頼俊―頼行
小貫氏は、藤原秀郷の孫公倫の子公通を祖とする。公通の曽孫通長の時に佐竹昌義の磨下に属し、以後佐竹氏に宿老として仕え、通長の嫡孫通経が小貫郷に住し、子孫が地名により小貫氏を称したという。この系譜を確認する術はないが、小貫氏の実際の祖としては、通経がふさわしいと思われる。また、小貫郷とは、現在の茨城県那珂郡山方町小貫と考えられる。
通経ののちの系譜についても不明な点が多いが、特に通伯・通勝・通定・頼重の四代にわたり「致仕シテ小野崎氏ヲ称ス」と記されており南北朝期から室町期にかけて、小貫氏は小野崎氏と深い関係を持っていたとみられる。通定は部垂城(大宮町)を築き、以後子孫はここに居城したが、頼久の祖父後通の時、佐竹義舜の子宇留野義元に攻撃され、俊通は享禄二年(1529)十月二日自殺した。部垂落城に際し、二歳の子は城外に逃れた。これが頼久の父頼俊である。頼俊は、天 十二年(1544) 佐竹義昭から小貫家の再興を認められ、領地を与えられて宿老に復帰したという。のち佐竹氏三奉行の一人となる頼久の基礎は、父頼俊の代に築かれたとみてよい。
小貫頼久の事績については、「小貫氏系図」の次に掲げる頼久についての注記に大略述べられている。
頼行瑩死ニ因テ、頼久ヲ立テ嗣子トス、永禄六年闐信公筑波郡小田 ノ城主小田讃岐守氏治後天庵号ト闘テ利有、氏治敗走シテ藤澤ノ柵ヲ保ツ、元亀二年八月再氏治入道天庵ヲ討、頼久先隊タリ、進テ敵軍ヲ敗首級ノ功有、家臣菊池丹波武秀疵ヲ被ルト雖、頸ヲ獲タリ、小田氏ノ 旗地白大十天幕州濱紋ヲ取テ是ヲ獻ス、闐信公書ヲ頼久授テ其功ヲ賞シ、且両品ヲ賜、因是幕ノ紋二ツ頭左巴ヲ更テ、洲濱ヲ以家ノ紋トシ、後代ノ美目トス、天英公命シテ執政トス、文禄元年壬辰朝鮮征伐ニ因テ天英公ノ供奉シ、肥前名護屋在陣、六月十五日真崎兵庫助宣宗ト同船、名護屋出帆朝鮮渡海、八月十五日帰朝、十二月二十五日帰国、 慶長元年丙辰堀内城在干行方郡ヲ築御遷封後廃スト云且密宗ノ一寺ヲ営ス、如意山寶珠寺實相院ト号、五年庚子ノ乱ニ依テ、天英公命シテ東都二使ス、登營シテ東照神君ニ拝謁ス、御劔相州廣光ヲ頼久二賜、七年壬寅御遷封供奉ス、八年癸卯三月廿六日土崎湊ニ没、法諱香山、初妻荒巻駿河守為秀女好無子シテ没、継妻玉生美濃守高宗女慶長十八年奚未五月十三日没法名可山妙芳 
それでは、ここに記された小貫頼久の事績を、当時の史料から見ていくことにしよう。
江戸中期に秋田藩において編纂された「家蔵文書」六一冊には、小貫氏の文書として、小貫内記(六冊目)・小貫弾右衛門頼忠(一七冊目)・小貫伊右衛門頼央・小貫木工兵衛頼央・小貫郷左衛門(四三冊目)の五家の文書が収められている。このうち、小貫弾右衛門頼忠が小貫頼久の後裔であり、三点の文書が収められている。
小貫頼久は、通称清三郎、はじめ佐渡守頼安と名乗った。「家蔵文書」一七の小貫頼忠家文書には、(永禄七年)正月七日の上杉輝虎書状写、(天正十五年)霜月十日の多賀谷重経書状写、年末詳極月十三日の多賀谷重経書状写のいずれも小貫佐渡守に宛てられた文書三点が収められている。 いずれも、上杉・多賀谷氏から佐竹義重への披露を依頼されている。また、この間、頼久は永禄十二年(1569) 河井堅忠とともに、越後の上杉謙信の所へ使者として赴いたのをはじめ、元亀三年には甲斐武田氏のもとに使者として赴き、このほか蘆名氏や岩城氏への使者を務め、天正十年頃には伊達輝宗に書状を発給している。このほか、(永禄十年)二月八日の北条高広宛て上杉輝虎書状に「小貫ニ孫次郎相尋分者」と見え、年末詳六月十三日の上杉景勝書状は小貫佐渡守に宛てられている。中でも注目されるのは、(天正二年)霜月二七日の上杉謙信書状に「此段佐左・佐中・梶源・梅江斎・小佐ニも可申候」と見え、小貫頼久は上杉方から、佐竹氏権力の中枢を担う人物とみなされていた。小貫頼久は、佐竹氏の中では周辺の戦国大名との外交面で重要な役割を果たしている。頼久は、天正十六年頃佐渡守頼安から大蔵丞頼久と名を改めた。
文禄元年(1592)佐竹義宣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い、肥前名護屋に赴くが、小貫頼久も文禄二年肥前名護屋に在陣し、同年六月十五日真崎宣宗と同船で朝鮮へ渡海している。
文禄三年佐竹領に太閤検地が実施され、翌文禄四年六月一九日佐竹義宣は豊臣秀吉から五四万石余の知行を安堵された。これをもとに、佐竹氏は同年七月から九月にかけて家臣に一斉に知行充行状を発給し、知行割替を行った。この時の知行充行状は、一般的に佐竹義宣の直状形式と和田昭為・人見藤通・小貫頼久の三奉行のうち二人の連署奉書形式の二形式で発給されている。「水戸市史」上巻によれば、小貫頼久は人見藤通と連署で四四通の知行充行状を発給している。この時、頼久は同年八月二〇日大台城領のうち井関舎人丞に長山の内五〇石、坂藤次右衛門に島崎の内五○石を充行っている。井関・坂両氏は、ともに島崎氏旧臣とみられる。また頼久は、佐竹義宣から久慈・那珂・茨城・行方郡内の蔵入地九四七一石余を預け置かれた。この内、潮来・延方の蔵入地一二六一石五斗六升は大台城領の蔵入地であったとみられる。小貫頼久の知行高は明らかではないが、「佐竹一門一族家臣慶長国替記」には四五〇石と記されている。小貫頼久は、慶長七年(1602) 佐竹氏の秋田移封に従い、翌慶長八年三月二六日秋田の土崎湊で没した。
五 堀之内大台城の機能と役割 
大台城は、以上述べて来たように、小貫頼久が城代となった佐竹氏の城郭である。ここでは、豊臣期における佐竹領国と関東の情勢を考えながら、大台城の機能と役割についてみていきたい。
後北条氏の滅亡ののち、豊臣秀吉は天正十八年(1590) 八月一日と同年九月二〇日の二回にわたり関東の知行割を実施した。佐竹義宣は八月一日にその領国を安堵されたが、九月二〇日には、義宣の弟蘆名義広が江戸崎領を秀吉から宛行われ、佐竹氏の与力大名となったとみられる。
いっぽう、徳川家康の子で豊臣秀吉の養子となっていた秀康は、結城晴朝の養子となり、この時の知行割により、結城氏の本領以外に、小山領・壬生領・鹿沼領・日光領などとともに、小田氏治の磨下菅谷氏の支配領域であった土浦領を得たことにより、結城氏は霞ヶ浦に面する湊を保有することにもなった。
しかし、佐竹領の行方郡と与力大名蘆名氏の江戸崎領とは、霞ヶ浦を両岸から押さえる位置にある。さらに、大台城は霞ケ浦が終わり、そこから流れる常陸利根川が始まろうとする地点の東岸に位置する。当時の大台城の南側と東側は、霞ヶ浦からの入江である湖沼であったとみられる。それは、あたかも霞ケ浦舟運を根幹から掌握しえる位置にあることは重要である。
さらに、慶長七年(1602) 秋田移封に際し、佐竹義宣は和田昭為に「行方にある兵子」は江戸城へ送り、それも難しい分は「行方之舟付二何方へも相集可指置」と指令している。兵子は俵子とも書き、ここでは兵根米つまり蔵米を意味する。霞ヶ浦と北浦に狭まれた行方郡は、佐竹領内の蔵米を積出す湊を有し、領国経済にとって重要な位置を占めた。 それは、天正十八年の江戸の成立による舟運の発展に関連するものである。常陸利根川を下って逃子に至り、さらに逃子から江戸に至る舟運のルートも想定されるが、このルートは後世になってからのものであり、当時は、常陸利根川から香取内海を通り、佐倉を経て、常陸川を遡って関宿に至り、関宿から古利根川の一つである太日川を下って江戸に至るルートが使用された。このような、佐竹氏の領国経済を南常陸で支えるための拠点となったのが大台城であったとみられる。
また、軍事的にみれば、行方郡の南は常陸利根川を狭んで下総であり、すなわち徳川領国の一つとして徳川直臣が配されていた。佐竹氏は、徳川氏と領国を接する南常陸において、鹿島郡をすべて一族東義久に与えるとともに、行方郡においては境目の城として大台城を築いて拠点とし、これに対拠したのである。さらに、霞ケ浦舟運の掌握は、戦争時における軍事物資輸送を掌握することにもなり、土浦湊を有する結城氏に対しても、大台城は大きな脅威であったといえよう。したがって、大台城は 佐竹領国の南の拠点として、軍事的にも経済的にも大変重要な位置を占めた城郭であった。慶長七年佐竹氏の秋田移封により大台城は廃城となった。使用期間はわずか七年のことであった。
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(1) 豊臣期の佐竹氏については、『水戸市史』上巻、藤木久志「豊臣期大名論序説―東国大名を例として―」(『歴史学研究』二八七号)、山口啓二「豊臣政権の成立と領主経済の構造」(同『幕藩制成立史の研究」第一部二、校倉書 房)、福島正義『佐竹義重』(人物往来社)がある。本稿は、これらの研究 に負うところが大きい。 
(2) 拙稿「戦国末期南奥羽における伊達氏包囲網について」(地方史研究協議会編『流域の地方史―社会と文化―』所収、雄山閣)。 
(3) 上杉家文書『新潟県史』資料編3、四〇八号。
(4) 註 (2)。 
(5) 藤木久志「『関東・奥両国惣無事』令について」(『戦国の兵士と農民』「角川書店、のち同『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会、所収)。
(6) 秋田藩採集文書『結城市史』第一巻、二四三頁。 
(7) 白土文書『福島県史』七、二八三頁。 
(8) 大日本古文書『伊達家文書』九八六号。 
(9) 註 (5)。 
(10) 佐竹文書『水戸市史』上巻、六五四頁。 
(11) 佐竹文書『水戸市史』上巻、六五八頁。
(12) 和光院過去帳『群書類従』二九輯。 
(13) 六地蔵寺過去帳『群書類従』二九輯。
(14) 『水戸市史』上巻、六七一頁。 
(15) 佐竹文書『水戸市史』上巻、七五四頁。 
(16)「佐竹諸士系図」四所収、東京大学史料編纂所謄写本。 
(17)「島崎盛衰記」によれば、小貫頼久は島崎氏の旧臣で、佐竹氏に内通し、島崎氏を滅ぼした下剋上の人物として描かれている。行方郡にも小貫と称する地があり(北浦村)、「島崎盛衰記」の作者は、小貫頼久を行方郡の小貫を本貫地とみて島崎氏の旧臣としたのかもしれない。しかし、その作者 が小貫頼久に関する知識がなかったとは考えられず、むしろ「島崎盛衰記」を著すほどの人物であれば、歴史的資料を収集したはずであり、小貫頼久が佐竹氏の家臣であったことを知っていた可能性は高い。とすれば、島崎氏滅亡ののちも行方郡を島崎氏につながる者が支配したとし、佐竹氏を侵略者と見て、佐竹氏の行方郡支配を容易に認めない地元住民の意識が考えられる。
(18)『水戶市史』上卷、七八一頁及福島正義前揭書、二二二頁。 
(19) 註 (6)。 
(20)『栃木県史』史料編中世三、八七・八八頁。 
(21) 上杉家文書『新潟県史』資料編3、五一七号。 
(22) 家蔵文書二四、佐藤忠佐衛門清信文書。
(23) 新編会津風土記『福島県史』七、八〇四頁。 
(24)家藏文書10、岡本又太郎元朝文書。 
(25)大日本古文書『伊達家文書』三O九号。 
(26)本誓寺文書『新潟県史』資料編4、二二〇一号。 
(27)無為信寺所藏文書『新潟県史』資料編4、二三三七号。 
(28) 上杉家文書『新潟県史』資料編3、二六二号。 
(29) 大和田重清日記。 
(30) 註 (5)。 
(31) 島崎譜、東京大学史料編纂所謄写本。 
(32) 水府志料所収文書『茨城県史料』中世編Ⅱ、三五八頁。 
(33)文禄五年藏納帳、秋田具立秋田図書館藏。
(34) 常陸太田市、佐竹寺蔵。 
(35)市村高男「豐臣大名の歷史的位置—結城秀康中心として—」(『地方史研究』一八一号)。 (36)『水戶市史』上卷、七六九頁。
(粟野 俊之)



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