「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「行方郡之仕置」島崎氏等大掾一族滅亡への軌跡

2020-09-06 08:12:03 | 歴史

島崎氏に関する記事が「鹿行の文化財」第24号に掲載されていましたので紹介します。

「行方郡之仕置」島崎氏等大掾一族滅亡への軌跡

◆はじめに

 俗に南方三十三館と呼ばれるように、常陸南部には平姓大掾氏の一族がはびこっていた。それは、梅原猛氏流の表現を借りれば、「神々の流竆」ならぬ「大掾氏の流竆」ともいうことができよう。子から孫への細胞分裂によって、この地方に分出していったのだ。それらが鎌倉時代初期から四百年の時を刻み、戦乱興亡を経て戦国の世へと及んでいた。

 ところが、1591年(天正19年)2月、佐竹氏により一挙に誅殺されてしまったのである。嶋崎氏の外、玉造・小高・手賀・武田の六氏は勿論、行方の将、鹿島・中居・烟田の三氏は鹿島郡の旧族で、敢えない結末を迎えるこれは平家一門の宿命にも思えてくる。

 ◆佐竹氏をめぐる当時の情況

 1586年(天正14年)春に、佐竹氏の当主は彼の勇将「鬼義重」の異名をもつ義重から義宣となった。義重は引退には遠い37才、義宣は若冠17才の時である。しかも、佐竹氏をめぐる情勢は容易ならざるも折も折のことである。奥羽の伊達政宗、相模の北条氏直という強豪を腹背に受け、常陸・下総・下野を舞台に抗争がくりかえされていた。

 一方、中央権力の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残る関東・東北だけとなった。関東には小田原に拠る北条氏政や氏直、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光がいた。

 秀吉は、天正15年「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名同士の戦いを私的なものとし武力紛争の停止と平和的解決を、関白政権にゆだねることを命じていた。ところが北条氏は、上洛し臣徒を求めても氏政の弟氏規を、家康の勧めでやっと上洛させた。そこに、沼田領問題が起こった。ここは信州上田城を本拠とする真田氏の所領だったが、北条氏の侵攻で争いの場となった。結局、秀吉の裁定となり沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領として決着した。にもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政の家臣が奪取してしまったのである。

 これで秀吉には、小田原征伐の絶好の口実を与えることになった。先述の惣無字事令違反として、1590年(天正18年)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かった。ここに至って、佐竹義宣も姻戚の宇都宮国綱から急迫した情勢を伝えられ、小田原参陣へと態度を決めた。奥州白河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、運命にかかわる決断となった。五月二十五日、石田三成らに迎えられ、二十七日秀吉に謁した。この佐竹氏麾下の諸将の中に、嶋崎氏が入っていた。そして、太刀一振り馬一頭を献上していることに注目したい。大掾氏の総氏、大掾清幹ら一族の多くは参加していない。これまでの北条氏との関係からすれば、至極当然である。江戸重通、小田氏治も参陣しない。日光の戦いに没頭し、天下の大勢からとり残される破目になる。

 ◆ふりかかる軍役賦課とその代償

 北条氏を滅ぼしてすぐ、秀吉は奥羽の大名領地を確定すべく会津に軍を進めた。義宣に対しては、兵糧米等の調達がきた。時恰も端境期とあって現物納には苦労した。そればかりか、妻子と父義重まで上洛を命じられるのである。しかし、秀吉は同時に義宣に対しつぎのような朱印状を与えた。

常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、相添目録別紙令扶助之訖、然上者、 義宣任覚悟、全可令領知者也。 天正十八年庚寅八月朔日  (朱印)(秀吉) 佐竹常陸助殿 (注※参照)

 この朱印状によって、佐竹氏が現に支配している土地は、秀吉に公認されることになった。しかし、二十一万七百五拾八貫文の佐竹領の中には、まだ服従していない江戸氏や大掾氏の行方・鹿島の諸濠の支配地が含まれているのである。そして、この年の冬、義宣はその地位を保証されたことへのお礼に上洛した。そして秀吉の推挙では従四位下・侍従の位官を授けられ羽柴の姓まで与えられた。これで佐竹氏は、名実ともに豊臣政権下の大名となった。

 ◆佐竹氏の領内統一

 秀吉により公認されたとはいえ、領内統一に先行しての領土安堵であって、家臣下をとげていない勢力がある。そこで義宣は、それら諸将の潰滅に動いていくのは、当然の帰結であった。東義久を鹿島郡に当らせ、重臣和田昭為らに江戸・行方の仕置を命じたのである。この年十二月に江戸・大掾両氏を滅ぼし翌年二月行方・鹿島両郡の諸勢力をすべて一掃し、領国統一は完了した。豊臣政権を後ろ楯に、佐竹氏は北関東隋一の勢力にのし上がったのである。

 ◆嶋崎氏らの滅亡の跡

佐竹氏の南部討伐についての史料に「和光院過去帳」がある。それには、「天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生首の衆、鹿島殿父子カミ・嶋崎殿父子・玉造殿父子・中居殿・烟田殿兄弟・アウカ殿・小高殿父子・手賀殿兄弟・武田殿己上十六人」諸氏が掲げられている。(玉造町史)六地蔵過去帳には、嶋崎氏のみだが、「桂林呆白禅定門天正十九年辛卯卒於上ノ小河横死、春光禅定門号一徳丸於上ノ小川生害」と記載があるという。

「南方三十三館由来書」や「諸士系図書」の所伝では、義宣はこれら諸氏を会盟にことよせて太田城下に誘殺し、従わない者には軍をさしむけ一朝にして葬り去ったと伝えられている。(藤本久志・戦国大名の権力構造)

 このように、大掾諸氏を滅ぼした手段については、いくつかの伝承があり謎が多い。地元牛堀では今でも、佐竹の呼び出しに対し、嶋崎はさだめし誉められるだろうと喜び勇んで出立したのにと、不憫がって語られている。瀬谷義彦氏は、茨城の史話の中でこのことにふれているので抄記すると次のように述べている。「嶋崎氏をはじめ、太田に誘って殺したと「新編常陸国史」にあるが、いったい何の名目で、多くの城主が招かれたのか。「前述した会盟にことよせて云々・・・」の件りで、江原史昭氏編「鹿島・行方三十三館の仕置」をとり、大掾、江戸氏らの壊滅後南部の諸氏らが、秀吉にその支配権を認められなかったことの不安が、佐竹氏を盟主と仰ぐ雰囲気を作り出し、改めて自分らの支配地の配分を佐竹氏のもとで、承認してもらうための会盟に誘われたとする。この他、茶の湯に誘われたという伝承もあねが、江原説が当を得たものだ。そして、太田城中で一緒に殺害されたものでなく、それぞれの縁故に預けられて処分されたのが真相である。嶋崎安定は、その妻の父久慈郡上小川の城主小川大和守に預けられ、その家臣、清水信濃に鉄砲で射殺され、安定の子徳一丸(13才)は自殺させられた。玉造城主玉造重幹は、大窪城主大窪久光に預けられ、同地正伝寺において切腹。また、鹿島城主鹿島清房父子は、山方城主山方能登守に預けられて殺害された。これら何れも謀殺で、三成・秀吉の承認で断行したというか、これは勝者の論理である。

 ◆嶋崎城落城の残り火

 嶋崎氏一族のうち、幼少のため生き残り避難の末、家臣に守られて多賀郡由縄子村に土着した徳一丸の弟吉晴の子孫は繁栄し、当地嶋崎氏の祖となった。

 嶋崎城落城から数えて116年後、1707年(宝永4年)に嶋崎氏の菩提寺、牛堀町上戸の長国寺にこの子孫がお詣りし、先祖供養の碑を建立している。それからまた264年たって、昭和46年9月、島崎家をはじめ地元有志により、「嶋崎安定公父子三百八十年祭」を父子が非業の死をとげた、大子町頃藤で斉行したのである。

 落城の思いがこもる島崎城は、牛堀町の史跡として指定され、平成5年1月には第六次発掘調査を実施し、わたくしも参加した。現在、公表するに至ってないが、島崎城の成立は室町時代前期の築城という。掘立柱でなく礎石を使用、五輪塔の笠石も出てきた。城門は右斜めで二階建ての藥井門の可能性もあり、家挌を表すものという。

 ともあれ、近世の前夜、大掾氏一族は突如として泡の如く消えていった。だが、たった一つの救いは、一族最後の分出の鳥名木氏だけはその厄を免れ、その後新庄藩に七十石どりの家臣として仕え、大阪の陣にも従軍していることである。明治以降はこの地に帰住し現在まできている。そして数少ない中世古文書の中でも「譲状」は圧巻で他に、甲冑をおさめた箱、軍旗、旗指物、風呂敷、軍陣長襦袢等貴重なものばかりだ。これらに接すると、私には曙光を見る思いに駆られれるのだが、いささか感傷的にすぎると評されようか。玉造町では、先年玉造氏滅亡四百年の記念事業を催し、参加者に多大の感銘を与えたことを付記しておこう。

◆おわりに

 「嶋崎盛衰記」には、島崎城落城の場面が迫真の筆致で書かれていて興味深い。徳一丸のけなげな奮戦ぶり、お里の方の最期、お投げの松の秘話は、今なお当地では人々の口の端にのって語られている。これは嶋崎氏の家臣の子孫たちの「鎮魂」と解せようか。戦国という古い秩序が音をたてて崩れ、次の近世という武家社会の確立に向かって幕が開く。この大きな歴史の転換の姿を、目の当たりにした人々。中には戦いに参加し死んだ者、家や田畑を焼かれた者もあったであろう。戦い終わって嶋崎氏の家臣は、近郷付近に散在した。そして、先祖が在りし日のことを感覚として受け止めたものを「語り部」となって伝えてきているのだ。しかも共感をもって。

 ※注 貫文制(貫高制)から石高制へ

石高は米穀、質高は貨幣が単位(永楽銭など使用)である。秀吉の天下平定が一段落した、天正十九年「天正の石直し」により、全国の石高は統一的に把握される。このことは、農民へ年貢高、大名には軍役の基準となる。石高制の移行は、兵農分離を進め収奪を強めて、大名の財政的基盤が確立する。と同時に、中央権力の中枢が地方に浸透していくものである。    潮来市(旧牛堀町)今泉元成

引用 「鹿行の文化財」 第24号鹿行地方文化研究会   鹿行文化財保護連絡協議会 発行

 


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