「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎城跡発掘調査報告書」島崎城の構造―縄張と曲輪編成・Ⅰ曲輪

2021-07-15 17:16:15 | 歴史

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。

  1. 島崎城の構造

縄張と曲輪構成

 島崎城は今日御札神社拝殿・本殿が建つ中心部を南にして,北側台地つづきに五条の堀切と空堀を穿って、南側に土塁を積みあげ,城内を構成する。さらにその外側,古宿の台地上に、北に三条,西側に二条の空堀と堀切を穿って,外曲輪・大構を構成。2ないし3カ所の出城を西側峰つづき台地上に構築する。堀之内大台城の第2次発掘調査で,西出城の発掘調査を実施, その結果,西出城地区は,嶋崎氏時代一慶長元年以前の築城手法で構築一の独立した城であった,ことが判明した。この大台城西出城も島崎城の支城または出城のひとつに加えることのできる遺構である。

 本報告では,以上の残存遺構の構成から、大きくⅠ曲輪(堀切 <1>南側,近世の本丸に相当), 馬出曲輪(堀切〈1〉の北側),Ⅱ曲輪(堀切 <2>・堀切く3〉・堀切4>で区画,近世の二の丸に相当),Ⅲ曲輪(堀切 <6>と堀切 <5>の中間,近世の三の丸に相当)と曲輪構成を仮称できる。 また目的・用途および伝承・方位からみて,本書では最もふさわしい曲輪名をもって仮称した区域もある。

 曲輪の配備は,自然地形を巧みに利用し,先端部をⅠ曲輪,Ⅰ曲輪虎口(城の出入口)前方を馬出曲輪,台地つづき北と西にⅡ曲輪,その中間厳部を水の手曲輪として、本城地区を形成する。これにつづいて北側台地上にⅢ曲輪と谷間の削平地・中腹・麓の微高平地が形づくられ,中城地区を形成する。Ⅲ曲輪から北側の広大な古宿の台地上全域が外曲輪の大構にあたる。本城・中城地区がいわゆる島崎城の城内にあたり,平面凡そ東西200m,南北300mの台地上に占地,外曲輪・大構地区の外城は東西300m,南北700mの範囲に及ぶ。

 今年度の第2次調査では,Ⅲ曲輪北堀切(堀切 <6>)まで測量調査の範囲とし,外曲輪・大構は,昭和62年度事業計画に組み入れることとした。台地上にみる以上の曲輪配備は,いわゆる連郭式縄張と呼ばれるグランドプランで,谷間や虎口の一部で階郭式と梯郭式縄張となっているが,総体的には連郭式で構成されているといえる。では、次に各曲輪の現状遺構を概観してみよう。

Ⅰ曲輪

 標高28mコンタ上の台地先端部,南々東を頂点とする三角形プランがⅠ曲輪である。平場は北側で東西60m,中央で南北70mを測り,面積は2728㎡である。今日の御礼神社境内で,南側に本殿・拝殿が位置し,本殿内には,古面(室町時代作・県指定文化財) 5点が納められている。

 第1次・第2次発掘調査は,拝殿前方と北側虎口土塁を調査区域として実施した(後述)。土塁は南側先端部と北側の塁壁に残る。南土塁は御札神社本殿の建設(近世の段階)の折, 大きく抉り取られ、現状のような型となった。現在高さ2.5m, 槢(上幅)は最大730cmであるが、削り取られる前は上幅10mほどで櫓台を呈していたと認められる。この櫓台には、島崎城のシンボリックな建築が一例えば天守建築——存在したのであろう。(隣地にある堀之内大台域には、天守建築に相当する建築遺構が検出されている)。

 北側土塁は虎口にあたる櫓台状土盛遺構と西側に延びる土塁とからなる。虎口土塁は,中央が鞍部となり,出入口である虎口であったことがわかる。昭和55年に御札神社拝殿を改修した折,ブルドーザで,この鞍部を大きく掘りさげ,東側を削りとり、車が社殿前へ登れるようにしてしまった。第2次発掘調査では,この削りさげた道路東側の壁面のセクション検出作業を実施,土塁基底部より古石塔群の集石状遺構の出土をみた(後述)。なお,昭和55年の削り去った土砂は,土塁外側の堀切〈1〉に敷いて,虎口鞍部まで車があがれるように道路スロープをつくった。従って,旧土塁斜面は、虎口西側斜面にみられるが,敷部は,やはり遺構面を掘り下げている状況なのである。

 この虎口土塁を地元古宿の人は「お鐘の台」といって,時報や登城合図を知られた鐘が吊ってあった、と伝承する。現状で土塁は高さ2.5m,楢部は東側で4m×2.6m, 西側で5m×3 mの平場を形づくる。いずれも櫓台状の形状を呈し,伝承の鐘を吊った櫓が存在した可能性は充分考えられる。虎口外側は、前述した堀切〈1〉で,実効堀幅20~25m (上幅17~20m), 深さは現状でI曲輪側4m, Ⅱ曲輪2m~2.5mを測るが,前述の工事で客土をもって埋めたてられ,旧状は不明である。

 虎口土塁の西側に高さ1~3mを測る土塁がめぐる。残存土塁は西側に延びるにつれ保存状況は良く,虎口土塁との接続部は,かつての御礼神社への参道(昭和55年の道路工事以前)にしたため消滅している。残存状況の良い西側土塁は,丘つづきで西1曲輪と自然地形でつながっていた部分を掘り切った上部にあたり,いわゆる出隅横矢となる。

 西側土塁の塁壁外側は、行方台地を形成する常総粘土層と成田層岩盤を刳り抜いたいた空堀がめぐる。この空堀は、大手谷間からの隘口(虎口<イ>)からつづく空堀〈3〉にあたる。

 空堀〈3〉は,西土塁下の堀底にたっと屏風をたてたように砂質の岩盤が切り立ち、築城工事を物語るかのように削り落とした風化溝状遺構がつづく。今日虎口(イ)から35m程が,道路布設ためかなり埋め立てられているが、1曲輪西側の保存状況は極めて良い。現状で,実効堀幅12m(上幅10m), 深さ7m~8mを測る。西に進むにつれカーブを描き、南へ60度曲がり, I曲輪と西1曲輪の中間堀切となる堀底は、おそらく空堀道として利用されていたとみられ,堀 底より西1曲輪へ登る桝形虎口〈口〉が形成されている。⇒次回は、馬出曲輪・Ⅱ曲輪を予定。

 



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