志穂 つぶやかないで、いってみよう。

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戦前の女子教育

2011-07-06 09:49:38 | ドラマ
朝ドラ「おひさま」の中で、現代の陽子が

 「女学校を卒業して、進学する人は殆どいなかった。
  私のころも、4人くらいだったわねえ。
  卒業後に嫁ぐ人も多かった」

と語るシーンがある。

先の日記に
 「90歳の祖母は終戦後、小学校の教師をしていてローマ字を知っているから、
  パソコンのキータッチが早い」
と書いた。
(ちなみに、携帯メールも凄い早さで打ち込んでる)

ローマ字をいつ覚えたのかは知らないけれど、
戦前に通った女学校では英語の授業はあっただろうし、
女学校を卒業して進んだ女子専門学校でも、
英語の授業はあったと思う。

「女子専門学校」は、今の学制でいうと、大学教育に当たる。

東京女子大は「女子大」って名称だったらしいけど、
女学校を卒業して進学する高等教育機関は
「女子師範学校」と「女子専門学校」くらいなものだったらしい。
(専門学校は、東京を中心に全国の色々なところにあって、
戦後は「女子専門学校」から「大学」に名称が変わった。)

女子大以外の「大学」は、基本的に男子学生のみの受け入れ、
いくつかの「大学」は女子を受け入れているものの、
そこへ入れるのはごくわずか。

早稲田大学は当時、女子学生の受け入れもしていて、
祖母は早稲田に行きたかったらしいけれど

 「早稲田なんぞ行ったら、男か女かわからなくなる

と、周囲に猛反対されて、仕方なく、都内の女子専門学校
(今は「某女子大学」になっている)に進学。

時々
  「戦後、強くなったのは女性とストッキング」
って言葉があるけれど「強くなった」というよりは
  「強くならざるを得ない、そうじゃないと生きて行かれない」
のだったと思う。

祖父が身体が弱くて、入退院を繰り返していたので、
祖母が大黒柱だった。

子供たちの世話は曾祖母が一手に引き受けて、
祖母は、吹けば飛びそうな小さくて華奢な身体で働いて、
曾祖母と祖父、自分(祖母)、子供4人を養った。

子供4人のうち2人は、祖母の妹の子供。
祖母の義弟は出征して帰ってこなかったそうで、
戦後の生活を建て直して子供を育てられる環境になるまで、
祖父母が預かり、母、母の兄と一緒に暮らしていた。

そして、母も教師だった。
中学の英語の教師。
就任して結婚するまでの僅か3年間だけど、
エネルギッシュな教師生活だったらしい。

いつだったか「また教壇に立ちたい?」と聞いたら、
  「学校は煩い先生もいるし、英語を教えるなら
  自分の裁量でやれる働き方がいい」
と、自宅で英語塾を開いた。

私は、全然教えることには向いてないけれど、
「戦後、強くなった女性」は、ちょっと憧れるなあ、と思う。

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