今日、8月24日は自分にとって一生忘れることのできない事が起こった日です。
5年前の2001年の事です。
当時の日記を拾ってみました。
いつものように胸のつかえを感じながら会社に行った。10時半頃、席に座ってメールの整理をしているといつもの胸の圧迫感がやってきた。いつもはすぐに治るが今回は治らないのだ。苦しい。どうしよう。病院へ行ったほうが良いだろうか。しかしどうやって。救急車か。タクシーか。激痛ではないから心筋梗塞ではないだろう。深呼吸をいくらしようが苦しさは取れない・・・・
T(会社の同僚)に相談し行きつけのK病院にタクシーで連れて行ってくれと頼んだ。タクシーを拾えた。苦しさは続く。病院の手前当たりでちょっと気分が良くなる。H先生は午後だ。しかし、1時半からだ。すぐに違う先生に見てもらうか、順番を待つか問われた。その時は調子良かったので待つことにした。Tにも悪いので帰ってもらおうかなと思った。しかし、また発作が始まった。やはりすぐに見てもらおうと職員に状態を話した。12時前だ。内科の処置室前でしばらく待たされる。苦しい。やっと呼ばれてベッドに寝て血圧、心電図などを取られる。後は症状の始まりなどの状況を詳しく何度も聞かれる。心電図を見てから先生たちの対応が変わってきた。入れ替わり立ち代りいろいろな先生が来る。Tを呼んでもらう。Tに家に電話して妻にK病院に来るように伝えてもらう。
心臓の責任者をやっているという先生がやってきた。心電図を見る限り、典型的な心筋梗塞を起こしていますと言われた。え?激痛は無かったよ。人それぞれで症状は違います。一刻を争います。カテーテルを使った手術を早急にやる必要があります。奥さんはいつ来ますか。間に合わなければ事後承諾ということで手術を開始します。お願いしますと答える。選択の余地は無いのだ。先生はまだ言う。この病院に心筋梗塞で運び込まれた患者は10人に5人はなくなっています。5割の生存率です。カテーテルの手術は97%の成功率です。頑張りましょう。
点滴の針は右の手の甲に打たれた。血をさらさらにするためかバファリンも噛み砕くように言われた。12年も通っているので内科としてのカルテはある。H先生の患者かなどと会話が聞こえる。カテーテルは右足の付け根の動脈から入れるようだ。毛もそられる。おしっこの量を見るために尿管を通される。思ったほど痛くは無かった。恥ずかしさも感じない。5割の生存率か、それも後数時間、いや数十分の、と思うと不安になる。しかし、どうしようもない。手術のチームメンバーに任せるしかないのだ。準備ができたようで心電図系とか点滴とかいろいろなものをくっつけて手術室に運ばれた。さぞ周りでは危ない人が居ると思ったことだろう。
手術室では大きなカメラが顔の前に来て時々ウィーンと動く。これで心臓を撮しているのだろうと思う。右足の付け根に麻酔を何本か打たれる。ちょっと痛い。血管にカテーテルを入れるときはどれくらい痛いかななどと思っていた。
自分の脈の音がすごい。ピーピーと乱れた音だ。最初脈とは思わなかった。脈には全く聞こえない。いつのまにかカテーテルが挿入されていたらしく詰まった個所が分かったとの声が聞こえてきた。
赤の矢印部分で詰まっているその先に血流がない
左冠動脈の右側の血管であった。眠くなるといわれていたが全く眠くならなかった。そのうちにこれから治療を開始しまーすと声が聞こえてきた。冠動脈ステント術というもので詰まった血管をバルーンで膨らませ、その後ステントというメッシュ状の管を埋め込むものだ。
バルーンを挿入して詰まった血管を拡げている
その後乱れ打ちのピー音がピッピッピと規則正しい音に変わった。手術は結構早く終わった。ああ、助かったのだなと思った。
<o:p>無事に血流が回復した</o:p>
手術室から出て病室に運ばれた。7階らしい。集中治療室であった。奥さん見えてますよと看護婦さんに言われた。さぞ心配しただろうなと思った。妻の顔を見てほっとした。やはり妻だ。身体はまだ色々な計器に繋がれていて自由は利かない。でも生き長らえたという安堵感は感じた。
のどが渇いたが一人では飲めない。妻に何度か飲ませてもらった。7時15分頃先生が来て右足つけ根の管(2本)を抜いた。動脈なので止血が大事なのだ。先生が30分に渡ってずっと押さえてくれていた。そのときの会話だったが、内科の処置室で見る心電図の波形は確実に心臓が死んで行きつつある波形であったようだ。早く処置が始まってよかったのだ。後2ないし3時間遅れていたら不整脈で死んでいただろうとのこと。
先生の押さえが終わると太い棒のような物を止血場所に押し当て、かなりの粘着力を持ったテープで×印に固定された。しばらくは足を動かせないとの事。
夜は腰が痛かった。途中足もベッドに縛られた。ただ、時間が経つごとに身体を動かせるようになってきた。睡眠薬も飲んだせいかうつらうつらと寝てしまった。
この日を境に自分の人生、人生観ががらりと変わりました。生きている喜びを一番感じた一日でした。
病院には血圧が高かったので通院はしていました。行きつけの病院があるということはある意味、良いことなのかもしれません。
このようになるまでの生活は不摂生そのものでした。仕事も会議はほぼ毎日、その後の飲み会、2次会、3次会。客との接待。ほぼ毎日が午前様の帰宅。このような生活を20年は続けていたと思います。酒は強い方だったので、働き盛りとはこういうものだと思っていました。もちろん、たばこも吸っていました。
あれから5年、再発せずに何とか生きてきました。
良い機会なので当時の闘病記録をしばらくブログで綴ってみようと思います。
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