ユギオDMのペガ海駄文です。 ただしBL要素は薄め。
これも構想から10年越しくらいに、やっと着手しました。
あ、ある意味これは焼き直しです。
「ナルコレプシーの水槽」という黒歴史駄文の、前日談として同時に生まれた構想にも関わらず、
こっちだけ10年も先延ばしになった上に、しかも黒歴史すぎてあっちは読んでないんでw
一切読まないで書いちゃったので、ダブってるとこ、かみ合わないとこ、色々あるかと思いますが、
これも人生の紆余曲折の好例という事で、生ぬるくお見逃し下さると助かりマスw
DM終了後の、ペガサス生存ルートですが、でもやっぱ原作に寄せたパラレル気味っす。
ちょっとこじらせてますが、敬愛するペガ海作家さんに捧ぐ…という感じで、
勇気ある方はお付き合いください(先に謝っとく!サーセン!w)
■
オレはある男を探していた。
I2社の会長職を辞した後、その男は消息を絶っていた。
アメリカ国内にヤツが何件か所有していた邸宅を全て回ったが、各物件は管理人に預けたままで、本人は全く顔も見せないのだという。
さすがに連絡は取っているそうだが、教えてくれるよう頼んで回っても、どこでも断られた。
それでオレは仕方なく、KC米国支社の部下やI2社、現地企業の知人まで使って、情報収集を行った。
するとそう日がかからないうちに、有力な手がかりが得ることができた。
ニューヨーク市内で、ヤツに似た男が度々目撃されているというのだ。
長身に加え、ヤツの容姿は人込みでも目立つ。そのうえ、あの半分空想の世界にでもいるような、掴みどころのない立ち振る舞い。
デュエリスト世界で彼を知らない者はいないが、彼を知らない一般の人々の中でも、充分彼は「浮いていた」。
更に聞き込みを続けると、意外な事に、ヤツはニューヨークの片隅に小さなアパートを借りて、静かに暮らしているという。
現在の仕事のほうは不明。
よく近所の公園や商店街に一人で現れるらしい。あまり人とはかかわらないが、密かに「貴族」というニックネームで呼ばれ、親しまれているのだそうだ。
オレは溜まっていた業務を片付けると、すぐにその男がいるとされる地区へと向かった。
■
ニューヨーク。そこは相変わらず、常に新しい情報とエネルギーに満ち溢れた街だ。
芸術や音楽や芸能など、様々な分野で成功しようと夢見る若者が、世界中から数多く集まっている。
「もしかして、ヤツも画家として一からやり直すつもりなのだろうか」
オレはそんな推測に何故か心躍るものを感じながら、ヤツの行きつけの喫茶店とやらで、その登場を待った。土曜の午後はほぼ必ず現れると聞いていた。
天気はいいが、オレはオープンカフェではなくあくまで店内派だ。
日本と比べるとあまり衛生的とは言えない路地の喧騒を避け、一番奥の席に着く。
コーヒーを傍らに、気長に待つつもりで新しく買った本を開いたオレだったが、あまりページは進まなかった。
それは思いのほか早く現れたその男が、こちらを一目見るなり、「おお!!」とまるで演劇のように驚きを示したためだった。
親しい友人との感動の対面風に、男は迷いなくオレの向かいに腰掛ける。
「あなたが私を訪ねてくるだろうと聞いてはいましたが。こんなに早いとは思いませんでした」
「オレは昔から、決めたら即行動するタイプだからな。あんたも知っているだろう」
「ええ、勿論です」
男──ペガサスと初めて出会ったのは、オレがまだローティーンの頃だ。
あの頃のオレには、一回りも二回りもヤツが大人に見えたものだった。
その後、お互い若くして社会の第一線に就いた後は、あくまで対等なビジネスの関係を結び、その関係が長く続いた。
完全に音信不通となってからも長かったが、こうして共に成人してしまうと、実際にどうかはともかく「昔と変わらないな」という印象が、どうにも先に出てしまうものらしい。
そのせいか、オレとヤツはほぼ同時に同じ社交ワードを発してしまっていた。
そうした同窓会めいた馴れ合いの空気をオレが嫌ったところ、察したように男は店員を呼び、「いつものをお願いね」とフレンドリーにオーダーを済ませる手際を見せた。
そうだ、過去にオレは嫌というほどコイツと仕事をしてきた。だからつい変わらない部分ばかりを見つけてしまうが。
実際に今目の前にいるペガサスの容姿は、現役時代とはおおよそ別人と言っていいものだった。
背中まで長く伸ばした銀髪は、失った片目を隠す一房を除いて、後ろにまっすぐ一本で束ねられている。
シンプルな薄手のクルーネックのニットに、細身で風合いのいいデニムとカジュアルな革靴を、さらりと履きこなしていた。
おまけにこの、甘そうなフラペチーノを、生クリームまみれのケーキと一緒に優雅に楽しむ様。
しかしこれはこれで、「貴族」と陰で呼ばれるのも、妙に納得できてしまうから、反応に困る。
…オレはというと、無難に黒のビジネススーツだ。
休日昼に喫茶店の奥で膝をつき合わせたこんな男2人は、奇妙な組み合わせだろう。
さすがにヤツの顔なじみの店員たちは、こちらを少し気にしているようだ。
だがその他には、オレたちに大した注意を向ける者などいない。とにかく人や物の動きが激しく、それどころではないのだ
「こんな騒がしい場所、あんたの趣味ではないと思っていたんだが」
「ちょっとした心境の変化です。ああ、ブルックリンにワンルームを借りてましてね。
そこの地区でしたら、ここよりもう少し静かですよ」
「それにしたって似合わないな。一体どういう心境の変化なんだ」
「あなたにはお話していませんでしたっけ?私はこう見えて、若い時分はなかなかに騒がしい街で過ごしていたりしたんです。だから、ここも案外居心地がいいんですよ。
…ケーキ、おひとつどうです?」
「アメリカの菓子は甘すぎる。…遠慮しておく」
「そう言わずに。ここのケーキは甘さも控えめで、今話題なんですよ」
仕方なくオレは勧められたチョコレートケーキを一口齧った。確かに意外と悪くはない。
だがオレはコイツとこうしてお茶をしに来たわけではなく、当然早く本題に移りたかった。
「それで、今は何をしているんだ」
「私?仕事ですか?…特にしていません」
予想通りの答えだった。
「であれば、かえって都合がいい。オレはお前に頼みたい用事があって来た」
オレがこの男を探した理由は、一度コイツにオレの絵を描かせてみたいと思ったからだ。
心境の変化というのは、実はむしろ今のオレを指す言葉だった。
不思議なもので、自らが夢に近づき望んだものを手に入れていくほどに、敢えて自分が「望まなかった」「この手に触れなかった」ものに、関心を惹かれ始めたのだ。
これは単なる酔狂や道楽かも知れないし、あるいは時代が時代ならば「豊かさ故の貧しさ」などと、メランコリックに表現したがる文人たちの格好のネタになっていただろう。
ただ、オレ自身にとっては、意外にそれほど大した意味はないのだ。
写真家に美しく撮られすぎるのに飽きてしまった、というのが、最も直接的な理由だ。
オレを快く思っていないであろう因縁のこの男が、果たしてオレをどこまで醜く描くか。
それを一度見ておきたくなった。単純にそれだけの、好奇心の範囲に過ぎない。
長く人生のモチベーションを保つ上では、必要な無駄もある。これもそのうちの一つだと捉えていた。
「…絵の依頼ですか」
ペガサスは分かっていた。もう他人の心を読む能力を失ったはずだが、勘はいい。
「世間に発表するような作品ではなく、オレが個人的に買って、所有したい。
オレ自身の絵を描いて欲しいんだ。手軽にでいい。…どうかな」
金に不自由はしていないだろうが、底意地の悪いコイツの事だ。いくら高値を吹っ掛けられたとて、すぐにその辺りの銀行で引き出せるくらいのドルは、予め用意しておいた。
是が非でも、首を縦に振らせるつもりだった。…が。
ペガサスはオレの依頼を固辞した。
もう絵は全く描いていない、描けなくなったというのだ。
「あんた、何のためにニューヨークに住んでいるんだ?嫌でも新進気鋭のアーティスト共の芸術作品が毎日目に入ってくるだろう。インスパイアされる事もあるんじゃないのか」
「最初はそれを期待しました、また絵筆を握れる日が来るかも知れないと。でも現実はそうはいかなかった。…かと言って、私は少しも焦ってはいないんですよ。
焦りを覚えない自分にはさすがに驚きましたが、でもそれで、ようやく──」
ゆっくり『自分探し』を行えるようになったのだと、ペガサスは打ち明けた。
自分探し、か。随分遅い思春期だと唾棄しそうになったオレだったが、寸前で思い止まる。
あの夏の熱さと激しさが、ずっと忘れられない、と。
イベントですれ違うデュエリストたちが、時折オレにポツリと漏らす言葉がある。その言葉が不意に脳裏をよぎったのだ。
この男がカードゲームM&Wを生み出し、オレがそれを科学技術により、現世での神々の闘いに昇華させた。
ならば、オレたちが残したものとは何だったのか。
迷いの中にあるこの男の隻眼には、このオレはどう映っているのか。オレはそれがより一層知りたくて堪らなくなった。
オレは今でもあの夏の闘いから続く一本の道を歩んでいるつもりだが、そんなオレを『自分探し』の迷いの中で、コイツは一体どのように醜く描いてくれるだろうか。
…どうしても描かせたい。
「どうしてもダメなのか?ラフでもいい。殴り書きでも構わない」
「私の記憶しているあなたは、絵に描かれるのも写真に撮られるのも嫌いだったような…」
「まあな。今でも大嫌いさ。だからこそ気分転換には打ってつけなんだ」
「おっとそうでしたか。それと、その強引な性格は少しも変わっていませんね」
「変える必要がないからな。…とにかく、早くYESと言え。こっちはラクガキに数百万ドル出してやるつもりなんだ」
「ちょっと私を買いかぶりすぎではありませんか」
優雅な仕草で、溶け始めたグラスのアイスをストローでくるくるかき回す。ヤツの曖昧かつ鷹揚な態度に、オレは苛立ち始めていた。
尚も食い下がるが、ヤツは一向に了承しない。そのくせ度々雑談に話が逸れるものだから、次第にテーブルの上には、空のカップやソーサーが溜まっていった。
随分とサービスの悪い店だ。それとも、オレたちの雰囲気があまりに異様で、スタッフが接触を躊躇っているとか。…まさかな。
とはいえ夕方が近付くにつれ、徐々に通りの騒がしさも増してきた。
店への客の出入りも活発になり、客層の変化も感じ始めていたところで、ペガサスが言った。
「何にしても、懐かしい顔に出会えた事は嬉しいものですね。
良かったら場所を変えませんか。狭くて汚いですけど、私の部屋でも構いませんし…」
「そうさせてくれ」
オレは当然その誘いを甘んじて受けた。
このまま収穫なしで帰る事も覚悟していたが、意外な展開だった。
■
店で会計を済ませた後、地下鉄に乗り、最寄り駅で降りた。
マンハッタンのビルが望める高級地とは別の方向に歩いていく。
この辺りは一部治安が悪いと聞いていたが、それは杞憂だったようだ。レンガ造りの背の低い建物が並ぶ、至ってレトロで庶民的な風情の路地へと入った。
道すがら商店街で夕食の材料を買うペガサスは、やはりこの辺りでは有名人のようだ。
もしかしたらヤツの正体に気付いている者も中にはいるのかも知れないが、ここの住人は他人の事情に踏み込んでこないのだろう。
ペガサスはオレを「昔からの友人」として、日用雑貨店の老夫婦に紹介した。
「まあ。素敵な人には素敵なお友達がいるものなのね」
というご婦人の言葉に、オレは愛想笑いと適当な社交辞令で応えるしかなかった。
レンガ造りの5階建てのアパートメントの、最上階がヤツの部屋だった。
ワンルームといえばワンルームだが、その部屋だけで日本でいう十数畳以上あり、キッチンやバスルームやクローゼットなども一通り揃ってはいる。
窓からの景観は自然が多く良好で、内装は落ち着いたシックなトーンに統一されていた。
ヤツの成金趣味丸出しの持ち家より、ずっとこの部屋の方がセンスが良いように思えたのだが。
唯一の問題は、大量に床に詰まれた児童向けコミックだろうか。そしてそのキャラクターのウサギのぬいぐるみや、ポスターや文具やらといった、あらゆるグッズの一面の散乱。
「折角の好物件が、まるでオタク部屋じゃないか。あんたみたいなイイ大人が、こんな」
「私の熱はあなたには負けますよ。ねえ海馬ボーイ」
「いや、オレの場合インテリアと趣味を厳密に切り離しているからこそ、あくまで仕事上で…」
弁解している間にも、ペガサスがあまりに柔和な顔で楽しそうに笑うので、オレもすっかり毒気を抜かれ一緒に笑うしかなくなってしまった。
「子供の純粋な心を失わない事が、クリエイターとしての重要な核の一部をなしている。
その意味で、あなたと私はよく似ていると思いますよ。海馬ボーイ」
「まずそのボーイというのはやめろ。…反発したい気持ちはなくはないが。
確かにあんたの言う事には一理あるな。ありがたく心に留めておくとしよう」
オレはスーツの上着を脱ぐと、さっきまでぬいぐるみが座っていたソファに腰を下ろした。
ペガサスは窓際のチェアに腰かけ、束ねていた髪をほどいた。
「それで…、この部屋で『自分探し』は完遂できそうなのか?」
「支障はありませんが順調とまでは言えませんし、完遂…となると。
そこに完全に至る人間が、果たしてこの世界に1人でもいたのか…」
「まあな」
子供じみたひねくれた質問だと自分でも思った。
先ほどのクリエイター論と、自分探しの完遂とは、ともすれば矛盾する要素をふんだんに持ち合わせている。
それでいて『自分探し』が終わらないと絵を描けないというのだから、こういった人種は難しいものだ。
だからこそオレは期待していた。期待は膨らむ一方だ。
こうして一緒にいればいるほど、どんどんこの男に興味が湧いてくる。
ヤツが適当につけた夕方のテレビ番組をBGMにしながら、しばし世間話をした。
オレが自分の仕事の事を話し、ヤツはそれを聞いている場面が多かった。
M&Wの生みの親であるヤツにとって、オレの仕事はその意匠を継いだようなものでもある。未だに高い関心を持たれている事は、素直に嬉しかった。
当時は激しい対立も何度も経験したが、今となっては…。
今も決して、この男はオレの全てを認めてはいないだろうし、どこかには不満や軽蔑、嫌悪・敵意やといった感情も混在しているはずだ。オレがこの男に抱く思いがそうであるのと、恐らく同じように。
しかしそれらの否定的な側面を含めても、俺たちの関係は実に面白いものだと思うのだ。
オレはなかなか自らの事を語らないペガサスに対し、不躾な質問を続けた。相当悪質な客に違いない。
「なあ、その椅子じゃ疲れないか?あんたもソファに来ればいいんだ」
「え、ええ……」
ヤツから引き出した話によると、今は本当に毎日街をブラブラし、夜は部屋で漫画やアニメを見て、気ままに暮らしているそうだ。…部屋のあり様からそれも容易に頷ける。
一緒に出掛けるような友人や恋人は持たず、ネットにもあまり触れないそうだ。
「確かにそういう時期も、必要だとは思うがな。オレとしては勿体ない気がしてな」
画材らしきものはどこにも見当たらない。スケッチブックの一冊も。
「本当に何も描いていないんだな。腕がなまらないか?」
「そうですね。腕はなまりますね。なるべく『目』だけは落とさないように、街へ出て、様々な作品を見てはいるのですが」
「なら、オレを描け」
「すみません、心の準備が…」
「このノートとペンでいい。練習だと思って描いてくれ」
オレは自分のカバンから、持参したノートとペンを取り出し、ペガサスに差し出した。
ペガサスは一応それを受け取ったものの、膝の上に乗せたまま、じっと俯いてしまう。
「あなたは、どうしてそんなに私に描いて欲しいのですか?」
「さあ?…それが分からないから、お前に描いてもらえば分かるかと思ったんだ」
「あなたにしては随分とザックリとした理由ですね」
「そういうあんたこそ、何故そう頑なに描く事を拒むんだ」
「分かりません…」
それが分かるくらいなら苦労はしません、と。控えめな声ながら、どこか投げやりな調子で言う、ペガサス。
傍から見ればあまりに不毛な会話だろう。だが、オレはこのやり取りを楽しんでいた。
オレがこの男に描いて欲しい願望の中には、こうした段階とやり取りも含まれていたのだろうと、今この時に初めてそう思った。
「絵が描けるヤツは、見える世界も違うのかな」
「どうでしょう。でもあなたは充分すぎるほど、人と違う世界を見ていると思いますが」
「パンチの効いたジョークだ。だがオレは、もしオレに絵の才能があったら、あんたを描いてみたいと思う。…図面ならば書けるんだがなあ」
「私の図面や数式でもいいんじゃないですか。モデルになりましょうか」
「モデルなどは要らん作業なんだが…。そうだな、モデルになってくれるならいいか」
隣に座ったペガサスの長い銀髪を、指先で後ろにサラサラと撫で梳いた。
左目には痛々しい眼帯。端正な顔はわずかに曇った表情を見せ、ブラウンの右目は、訝しげにオレの様子を窺っている。
少し腰が引けたヤツの肩に、オレはそのまま手を乗せた。そして距離を詰める。
いつの間にか日は暮れ、夕空と同じ暗いオレンジ色の中に、この部屋の景色の輪郭もゆるくおぼろに溶け始めていた。
虚しく一人しゃべり続けるテレビだけが、チカチカと尖った光をオレたちに浴びせている。
「怒っているのか。あんまり茶化すなよ」
「そんなつもりはないのですが…」
「あんた、オレが嫌いなんだろう?」
「そういう簡単な言葉でまとめられる感情ではありません」
「それはどんな感情だ?あんたにはオレがどう見えている?」
昔のコイツだったら、すぐにオレを引きはがし、更に嫌味の1つ2つでも浴びせてくるだろう。
しかしコイツは動かず、まるで聞き分けのない子供に手を焼くとでも言いたげな、そんな苦笑いを浮かべて見せるだけだった。
痺れを切らしたオレは、もう一方の手をヤツの膝の上…ノートの上に置かれたヤツの手に重ねると、耳元に熱っぽく囁いた。
「あんたにオレがどう見えているか知りたい。だからオレを描いて欲しい。
…あるいは、オレが『どう見えていたか』。あんたがあの眼を失う前、オレは一体──」
どんな醜い悪魔の姿をしていたのか?
オレがそこまで言うと、男は急に立ち上がった。
「…分かりました。やってみましょう。ただし、報酬は1ドルも要りません。
あなたに描いた絵をお渡しできる約束もできませんが、それでもよければ」
ペガサスの表情はよく見えなかったが、口元だけは笑みを軽く刷いていたと思う。
オレは興奮していた。当初の希望にはほど遠い条件だが、ここまでこぎ着ければ及第点だ。
買ってきた食材が料理に変わる事はなかった。
ヤツが冷食をつまんでいる間、オレは眼下の通りの灯りと、行き交う人々を眺めていた。
カーテンを閉めた後は、テレビを消して音楽をかけた。ありきたりなクラシックだ。
ヤツは本当にあのノートとペンだけでオレを描くようだった。
「なるべく醜く描いてくれよ」
オレはそう念を押し、ネクタイを軽く緩めた。
■
例の大量のキャラクターグッズは、部屋の反対側にまとめて移動させた。
特にポーズの指定もないため、案内されたベッドの上に適当に座っていた。
ずっと素描を繰り返しているらしい。先程までと打って変わって、会話はほとんどない。
最初は緩慢だった筆の音が、次第に軽快にリズムを刻み始めたのを感じた。
オレを見るヤツの目が、鋭さを増していく。オレはこういう目をしたヤツが好きだ。
好きであるからこそ、駆け引きを楽しんだり、叩き潰したくもなる。
デュエリストの目。絵描きの目。オレにどう挑み、何を暴いてくれるだろう。
かなりのハイペースで素描が描かれていく。オレは一度ベッドから降り、ヤツの手元を覗いた。
「へえ、さすがに上手いじゃないか」
「このくらいは。でもこれはただの基礎の確認ですから…」
「これがお前に見えているオレ、か?」
「いえ…まだ全くその域には及んでいません」
「そういうものかな」
オレがわざとらしく笑みを投げかけると、ペガサスは狼狽の色を露わにした。
それから少しずつポーズの指定がなされるようになる。
オレはあくまで従順に、その指示に従う。まるで「こういうプレイ」のようだ。
時々真剣なヤツの表情を盗み見るのや、視線がぶつかった時に、ヤツの目が明らかに戸惑い、揺れ動くのを見るのもまた格別で、堪らなかった。
対するペガサスは…、だがそれでもペンが紙を掠る音は、やまない。
不思議な力がこの部屋を支配している。
「なあ、上、脱いでもいいかな」
オレがそう問いかけると、どこか心ここにあらずといった風に、ペガサスはそれを二つ返事で了承した。
オレの身体には、義父によってつけられた幾筋もの鞭の痕が、おぞましく残っている。
何ら事情を知らぬ者が一目見ても、誰もがこの痕を醜いと思うだろう。
しかしこの男は、全てを知っている。事の成り行きも。
オレの知らないオレ自身の心の内ですら、かつてのヤツのあの『眼』には、全てが見通されていたはずなのだ。
「あんたには説明なんて何も必要ないな」
シャツを脱ぎ捨てたオレは、再びベッドの上に身を投げ出し、無言で次の指示を待った。
ペガサスもまたしばし押し黙ったのち、しかしオレの問いや傷痕には一切触れず。淡々とポーズの指示、それからスケッチを再開した。
退屈なクラシックをBGMに、忙しない筆遣いが続く。
そしてまたオレは盗み見る。オレを見るヤツの目を。
迷いが晴れるどころか、より深い苦悩に苛まれているような、そんな目だ。
それでも筆は驚くほど進んでいるのだから、ヤツの迷いとは、一体何だったのだろう。
きっと本人にも理解できてきないに違いない。やはりオレと眼差しが交差するたび、ヤツはまるで怯えたように、ノートにそっと視線を落とした。
「今でもオレが悪魔や…怪物に見えるか?」
「私はただ、目の前にある、そのものしか見えていません」
「オレを見るあんたを、オレも見ている。…興奮するよ」
「それは良かった。忙しいあなたには退屈かと心配していたので」
「退屈?馬鹿言え。…お前が穴の中の怪物を覗き込むとき、怪物もまたお前を見ているんだ」
「……………」
一層筆遣いが粗くなる。今のオレにはどんな言葉よりも、その音が明白な答えであり、また最高に刺激的だ。
「よく描けてるじゃないか。オレの言った通り、いいリハビリになっただろう」
「ええ、おかげ様でね。本当に久々です」
「オレの醜さがよく表れている。さすが本職は違うな」
「そうですか?私は、ただ見たままのあなたをスケッチしただけですから」
「見たままのオレ、とは?」
「アジア系の人は年齢より幼く見えますね。あなたのような人の場合は、肩書を取り除けば余計に」
「…それだけか?」
「ええ。何かご不満ですか?」
ペガサスは薄い唇の端に笑みを刻む。その言葉に嘘はないのだろうが、絵心のないオレには確証が持てない。
それよりオレは、ヤツの一見柔和な瞳の奥や、口調の端々に、挑戦的なものを感じ取った。
既に昂っていたオレの欲望は、そんなきっかけで簡単に弾ける。
「もっとオレの内側まで、醜く描いてくれ」
ヤツの座る椅子の座面に膝を滑り込ませ、腕を強引に取って、オレの肩に回させた。
もう片方の、ペンを持った手をぐいと掴むと、ペンは床に転がり落ちた。
抵抗する素振りがないので、そのままオレはヤツの胸元に体重を預けて、顔を埋めた。
微かなフレグランスの香り。薄手のニット地越しに伝わる温もりに、頭の奥が痺れる。
「…抱いて欲しいという意味ですか?あなたの『描いて欲しい』というのは」
「あんたにその趣味がないのは分かっている。そこまでの意味はない…」
「なら、安心しました。よくいるんですよね…古いイメージを持った人たちが。
画家は絵を描くためにモデルを抱くとかね。そういうのは私の美学に反しますので」
「だろうな。あんたにはそんなやり方は似合わないし、必要ないに決まってる」
交わされる言葉とは裏腹に、ペガサスがオレを拒む様子は一向になかった。
オレは少しずつ角度を変えながら、素肌を晒したままの身体を、ヤツの身体に密着させていった。
直に鼓動と息衝きを感じる。快・不快を超えた衝動がオレを動かしている。
あの夏の熱さ、激しさ…というワードが、霞む意識の向こう側でずっとチラついていた。
その熱さと激しさを生んだ最初のきっかけは、オレと、他ならぬこの男だ。
「オレたちには、何一つ説明など要らないんだ」
ペンを落としたヤツの手に、オレは執拗に唇を這わせた。
すらりとした綺麗な指をしているが、案外…特に掌などには、しっかりとした筋肉の厚みと張りを感じる。
「お前に、何を迷う必要があるんだ…。確かに…迷っているお前を見るのも一興だが…」
ほとんど譫言だった。オレ自身、明確な自分の意思を認識していない。
オレは夢中でヤツの指先から手首まで、まんべんなくキスを落としていく。
舌は使わない。軽く吸ったり、上下の唇でやわやわと挟んだり、そのまま滑らせてみた。
いつの間にかオレの頭にはヤツのもう一方の手が乗せられており。
「こうしていると悪魔に見えなくもない」
と、美しい詩でも吟じるような低音の囁きが、上から降ってきた。
オレはそれを何かの聞き違いかも知れないと思いながらも、更に高められる衝動は抑えようがなかった。
ヤツの言葉をもっと聞きたいのに、どんどんオレの理性は吹き飛んでいく。
こんなオレの姿を今すぐ描いて欲しい。しかし男の右手の自由を奪っているのは、オレだ。
どうしていいか分からない。
「あの『眼』が見たあなたは、救いを求める子供でもあり、罪深い悪魔でもあった」
「はあ……、はあ……」
「私がエジプトを訪れた時、セト神と出会う事は出来なかった。後の世にその遺物の多くが破壊されたからだそうだ。 だからセトのカードは、この世に存在していない。
…ヨーロッパに伝わり、サタンの原型となったも言われる、悪神セト。また別の解釈では、アダムとイヴに知恵の実を与えたあの蛇の、眷属であるとされる事もある。
つまり、全ての悪の根源とも呼ぶべき存在だ。オレをそんな悪に準えてくれるなんて、なんと身に余る光栄だろうか。
オレは堪らなくなって、ヤツのもう空っぽの眼孔に当てられた布に、精一杯うやうやしく口づけた。ヤツの右手の指には、自分の指を、それこそ蛇のように…絡めたままで。
「もっと、言ってくれ……」
男の言葉も意思も、ろくに理解できないほど浮かされた頭で、オレは求めた。求める事しかできなかったのだ。
「私は確かに、あなたの中に悪魔を見た。遂に探し求めたセトに出会えたかと思った。それは夢の実現であり歓喜であり、恐怖でもあったが…」
「はあ…っ、はあ……」
「でも同時にあなたは、救いを求める子供の顔もしていた。いつか裏切られるのを知りながら、それでも与えなければいけないような…。そんな限りない慈悲が、あなたを見る私の中に見えた。
私の中に一瞬見えたその心は、悪魔への恐怖よりもはるかに恐ろしく、その相反する2つの恐怖が、やがて私自身を──」
オレはそこに続く言葉をじっと待ったが、結局その先が語られる事はなかった。
力の抜けたオレの手の戒めを、するりと抜け出していたヤツの両腕が、気付いた時にはオレの身体をしっかりと抱き締めていたからだ。
「あの『眼』を失くした今の私には、あなたは悪魔や怪物には見えません。
その時私が見たものも、どこまでが真でありどこからが虚なのか。今となっては全てが曖昧な、つまるに過去の残影でしかないのです」
子供にするように、髪を撫でられた。額にキスをされたが、何だかはぐらかされたようで、オレはそれがかえって不服だった。
「オレは、悪魔にも怪物にも見えない…?」
「ええ。私にとっては、憎くて可愛い後輩。ただし類まれな才能を持った、一人の『ボーイ』です。
悪魔『的』であるとは思いますよ。あなたがただのいい子だったとは、少なくとも全然思えませんからね」
「ふっ…」
行き場のない熱を体中に持て余しながら、オレはペガサスの腕から滑り落ち、そのまま絨毯の上に崩れるように座り込んだ。
「あんたはそう言うが、あんたの描いたそのノートのオレは、充分醜悪だったぞ」
まさに魔物か怪物か。そのくらい醜いとオレ自身は思ったのだ。
「その感じでいいんだよ。欲をかかなければ、その感じで満足だ。だから」
オレのせいで少し乱れた、ペガサスの服と髪。しかしそんな事がほとんど意味をなさない程に、達観したような静かな眼差しと穏やかな笑みを、ヤツはオレにまっすぐに向けていた。
かたやオレは、一体どれほど無節操なのだろう。
こんな目で見られる事も、またこれはこれで快感だと思った。
そしてオレは、おもむろにベルトに手をかけていた。
上手くベルトの金具も外れないままに性急に立ち上がると、オレはヤツにこう頼んだ。
懇願した。
「なら、今ここに見えるオレを『描いてくれ』…」
■
目覚めた時にはもう朝だった。気を遣ってくれたのかカーテンは閉められたままだが、差し込む光で分かる。
見慣れぬ天井をしばらく見上げていたが、自分が衣服を何も身に着けていない事に気付き、ハッとする。そしてその裸体の上に、毛布がかけられていた事にも。
周りを見回すと、ウサギのキャラクターグッズの山が部屋の反対側を埋め尽くしていた。
思考が現実に引き戻される途中で、不意打ちのようにあの男の声が聞こえた。
「おはようございます、海馬ボーイ」
男はガウン姿のままソファにゆったりともたれて、モーニングコーヒーを味わっていたようだ。
コーヒーの芳醇な香りが、鼻腔を抜けて胃の奥まで染みていく。オレはゆうべから何も口にしていない事を思い出した。
「シャワー、自由に使っていいですよ。その後で朝食にしましょう」
「ああ、すまない。オレは……」
昨夜オレはヤツに絵を『描いて』もらったのだ。ありったけに醜い絵を。
そんな自らの醜態を一つ一つ思い返す度、ただでさえ空腹でむかつく胃がぎゅっと絞り込まれるようで、吐き気まで込み上げてくる。
しかしその苦い記憶も、途中からはどうも不明瞭になり。そしてそのまま境目もハッキリしないままに、後の事は全てがぽっかりと空白に抜け落ちていた。
…これには、思い当たる理由があった。
「すまない。最近どうも調子が悪いんだ。予測できないタイミングで勝手に眠っている事が、たまにある」
疲れのせいだろうと初めはタカをくくっていたが、近いうちに専門医への受診を考えていた。
とはいえ、それはここにいる男とは関係のない話だ。オレはオレ自身の知らない空白の時間の出来事に、いささか不安を抱いたが、
「あなたの可愛い寝顔もスケッチさせて頂きました。よろしければ後でノートをご覧になって下さい」
男があまりにあっけらかんとそう答えるので、これ以上無駄に重く考えるのはやめておいた。
「なに、寝顔だと」
「そうです、可愛いですよ。ご自分ではなかなか見る機会もないでしょう」
その代わりに、別の不安感を覚える羽目になる。
このまま朝からペースを乱されるのは御免だ。オレは先にシャワーを済ませ、ヤツと共に遅めの朝食を摂った。もっとも、ヤツにとっては遅くも何ともないいつもの時間だそうなのだが。
時計は午前9時過ぎを指している。
カーテンを開けまず目に飛び込んだのは、昨日とはまた違う、白い朝の光に照らされた、日本より目覚めの遅いレンガ造りの街並み。その向こうに、公園や小高い丘の木々の緑が鮮やかだ。
この部屋にしても、あんな事があったのと同じ空間とはとても思えないほど、まるで「別人」のような風情で清廉そうに澄ました顔をしている。
オレはそんな新しい朝の時間の中で決して置いていかれまいと、平静を装って朝食を口にした。
シリアルにミルク、ハムエッグ、サラダにスムージー。この上なくシンプルな朝食だが、空腹のオレには至福だった。平静を無理に装うつもりなどすぐに忘れ、オレは出された食事を無心に頬張っていた。
そんなオレ以上に上機嫌だったのが、ペガサスだ。長らくここで一人で暮らしていたという事情を鑑みずとも、やはりこんな男にも人恋しいという感情は当たり前にあるのかも知れない。
男は染みついた習慣のようにごく自然な動作で、さして見もしないテレビのスイッチをONにする。今度は朝の番組の騒がしいトークを、環境音として食卓に流していた。
時折はニュースにコメントしたりもするが、交わされる大半は他愛無い日常の会話だ。
そんな中やや唐突な印象で、けれど確実に上がるのがこの話題だった。
「あなたは今日帰られるんですね」
「ああ。飛行機のチケットは手配してあるし、仕事がな」
当然見送りは要らないと断った。
しかし、この部屋を出る前に、必ず触れなくてはいけない事がある。
元々、それが目的でオレは強引にここに上がり込んだというのに、全くおかしな話だ。
それほどゆうべのオレは自分を見失っていたし、その事を忘れておくのに、この朝の空気が、あまりに心地良すぎてしまったのだ。
「ありがとうございました」
急に気持ち悪いほどかしこまって、男はオレにあのノートとペンを手渡してきた。
「ペンは、あんたにやるよ。安物だし…でもそろそろインクもなくなるか」
だが、ノートはどうする。確かコイツは昨日、オレに絵を渡すかどうかは約束できないと宣っていたはずだ。
「とにかく、まず中を見て下さい」
至極当然の事を促され、それでもオレはかなりの覚悟でもって、そのページを開いた。
まだ初めのラフの段階でさえ、あんなに醜悪だったこのオレの絵。
その後の混沌とした出来事と、その出来事の後もコイツがなおも筆を走らせていた事実を知ってしまった以上、オレにとってそのノートは──、
少なくとも、今この場で見られるような代物ではないはずだったのだ。
なのに、一体どういう事だろう。
まるで魔法だった。
確かにこのノートには、あの時見たのと同じままのオレのスケッチが、描かれている。
なのに、どの絵を見ていっても、そこに描かれたオレがどんなポーズを取っていても、
あの混沌と空白の間に描かれたであろう、ひどく乱れたオレであっても。ヤツが可愛いと嬉々として言う、だらしなく寝崩れたオレであっても。
どのオレもただの「オレ」でしかなく、あの時のような魔物や怪物などには、少しも見えなかったのである。
オレは混乱した。
しかしそれが、ただのいつもの、世にゴマンと氾濫する「オレ」の上っ面のコピーかと言うと、そうではなかった。
オレには幼い頃に亡くなった実の両親がいる。写真の1枚すら残っていない、両親。
2人の姿は、生涯オレの記憶の中だけに留めておくつもりだった。
しかしヤツの描いたオレの姿を見て、…それも、あんなに醜悪だったはずのオレだ。
そんなオレの絵を見て、(ああ、そういえば母はこんな目元をしていた)と、忘れられていたはずの過去に、自然とオレは再び想いを寄せたのだ。その絵を「美しい」とさえ思えてしまったのだ。
こんな魔法みたいな事が、果たして現実に起こりうるものなのだろうか?
「どうでしたか?」
そうにこやかにペガサスに訊かれ、オレは動揺を禁じえなかった。
「…あんたはさすがにオレの見込んだ男だ」
すぐにノートを閉じた。オレの動揺は、簡単に見透かされているだろう。
「私はあなたを醜いとは思いませんが、とにかく見えるものありのままを描いたつもりです。
まだ本調子ではありませんが。あなたの叱咤激励のお陰で、ようやく第一歩を踏み出せました」
「そうか」
「どうでしょうか。お気に入り頂けましたか?」
たった一晩で評価を180度変えるなど、さすがにあんな事の後とはいえ…オレのプライドが許さなかった。
いや、自分自身がまずこの状態を把握していないのだ。上手く説明などできない。
「このノート、オレはどうすれば」
「差し上げますよ。あなたがお受け取り下さるなら。ああ、勿論1ドルも要りません」
「絵だけじゃない、部屋や食事の世話にもなった」
「それ以上の素晴らしい体験を私はあなたから頂きましたから。むしろ私のほうこそお礼をしたいくらいなんです」
ペガサスは今朝からずっと上機嫌のままで、その挙動はあたかも戯曲の一場面を演じているかのようだ。
ぬいぐるみの中に埋まりかけていたオレのカバンを、ヤツが掘り返して、オレに渡す。
オレはノートを手早くカバンにしまったが、次にこのノートを開く日が果たして来るのかどうか、少しも見当がつかなかった。
次にまたこのノートを開いた時、そこに描かれたオレが、どんな姿で、このオレの目に映るのか。
もしかしたらもう二度と、オレはノートを開かないかも知れない。
反対に、そう遠くない日に、再び何らかの誘惑に憑りつかれたオレがノートに手を伸ばし、そしてあの恐ろしい魔法のようなページを、怖いもの見たさで覗いてしまうかも知れない…。
「あなたの望むあなたを、描いてあげられたでしょうか」
スーツの上着を受け取った時、男のフレグランスが微かに香った。
身支度を整えるオレを、男は夢見心地のように眺めている。オレはちょうど夢と現実の狭間にいるくらいの気分で、その男を脇目に見ていた。
「…オレには、絵はやはり分からないようだ」
捨て台詞めかして吐いたはずの言葉だったが、男は一層喜色満面の様子で、その言葉を拾った。
「絵は、不思議なものですよね。私にも正直分かっていません。
意図した通りに描けなかった気に入らない絵のほうが、その絵自身がまるで勝手に命を得たかのように、この私に向かってイキイキと勝手な何かを訴えてきたり、ね」
「オレは芸術家ではないからな。そういった感性は尚更分からない」
「そうですか?あなたが見たあなた自身の絵は、あなたに何か自己主張をしてきませんでしたか?」
「……………」
「我々が絵を見る時、絵もまた我々を見ているのかも知れませんね。
もしその絵が自分自身を映したものだとしたら、そこにいるのはつまり……」
下らんロマンティシズムだ、とオレはそれ以上取り合わなかった。
■
玄関先まで見送りにきた男は、まだガウン姿だった。
昨夜はほとんど眠っていないとの事で、これから改めて好きなだけ寝直すらしい。
さすがは貴族だな、とオレが皮肉を言うも、ヤツは意外な事を語り始めた。
「これから少しずつ本格的に描き始めようと思います」
「ああ、それは良かった。楽しみにしている」
「この部屋から、近いうちに引っ越すつもりです。ここでは画業に向きませんからね」
「随分急に思い立ったな。それも喜ばしい事だが」
「全て、あなたのお陰ですよ。感謝しています」
「オレのほうこそ…」
またオレの方が目を反らしてしまった。どうも調子が狂いっぱなしだ。
しかし確かに、思い返せば、昔からオレはコイツに振り回されてばかりいた気もする。
ある意味で自然な形に戻ったようで、これはこれで妙に肌に馴染む感覚もあった。
「次の住所に落ち着いたら、あなたにご連絡するようにしますので」
「ああ、待っている」
「またあなたを描いてみたいと思います。あなたさえ良ければ」
「考えておこう…」
動き出した週末の街を、1人で歩く。
帰路というのは、いつも何かしらの抒情を持っていると感じる。
昨日アイツと登ってきた坂道は、今日には下り坂だ。緩やかに伸びる長い坂の向こうには、白く輝くビル群がそびえていた。
オレの心の奥には、まだ昨夜の空気が滞留している。オレのカバンに収められたあのノートのページの奥にも、きっと。
それでも何の遠慮もなしに、新しい1日と涼しく乾いた街の風が、オレの髪やスーツの裾をいたずらに遊ばせて、そして通り抜けていくのだ。
オレはただその風に身を晒し、そのうちに流れていく景色や雑踏の騒がしさにも特段の感慨はなくなり、
そのまま当たり前のように、自分の日常の時間の中へと戻っていった。
オレがノートを次に開くのと、ヤツがオレに次の連絡を寄越すのと、どちらが先になるだろうと、意識の片隅ではぼんやりと考えながら。
ただその考え事すら、地下鉄を降りた頃には自然とどこかへ消えてしまっていた。
END
・・・あー恥ずかしい。 何度か直すと思いますホントすいません。
なんかもう今さ、腐女子ウケしない文体があえて好きっていうのもあるし、
直接的なカラミってそもそも必要なのかっていう、根本的な事も揺らいでるしw
どんどん需要のない方向へ驀進していってる感モリモリなんすけど、
でも… この憧れの先に、あの作品があるんですよね…★
いつかたどり着きたいあの領域…。
80歳を過ぎても文章を書く能力は伸びるという説に期待を託し、キダは進んでいきますw
ではw
これも構想から10年越しくらいに、やっと着手しました。
あ、ある意味これは焼き直しです。
「ナルコレプシーの水槽」という黒歴史駄文の、前日談として同時に生まれた構想にも関わらず、
こっちだけ10年も先延ばしになった上に、しかも黒歴史すぎてあっちは読んでないんでw
一切読まないで書いちゃったので、ダブってるとこ、かみ合わないとこ、色々あるかと思いますが、
これも人生の紆余曲折の好例という事で、生ぬるくお見逃し下さると助かりマスw
DM終了後の、ペガサス生存ルートですが、でもやっぱ原作に寄せたパラレル気味っす。
ちょっとこじらせてますが、敬愛するペガ海作家さんに捧ぐ…という感じで、
勇気ある方はお付き合いください(先に謝っとく!サーセン!w)
■
オレはある男を探していた。
I2社の会長職を辞した後、その男は消息を絶っていた。
アメリカ国内にヤツが何件か所有していた邸宅を全て回ったが、各物件は管理人に預けたままで、本人は全く顔も見せないのだという。
さすがに連絡は取っているそうだが、教えてくれるよう頼んで回っても、どこでも断られた。
それでオレは仕方なく、KC米国支社の部下やI2社、現地企業の知人まで使って、情報収集を行った。
するとそう日がかからないうちに、有力な手がかりが得ることができた。
ニューヨーク市内で、ヤツに似た男が度々目撃されているというのだ。
長身に加え、ヤツの容姿は人込みでも目立つ。そのうえ、あの半分空想の世界にでもいるような、掴みどころのない立ち振る舞い。
デュエリスト世界で彼を知らない者はいないが、彼を知らない一般の人々の中でも、充分彼は「浮いていた」。
更に聞き込みを続けると、意外な事に、ヤツはニューヨークの片隅に小さなアパートを借りて、静かに暮らしているという。
現在の仕事のほうは不明。
よく近所の公園や商店街に一人で現れるらしい。あまり人とはかかわらないが、密かに「貴族」というニックネームで呼ばれ、親しまれているのだそうだ。
オレは溜まっていた業務を片付けると、すぐにその男がいるとされる地区へと向かった。
■
ニューヨーク。そこは相変わらず、常に新しい情報とエネルギーに満ち溢れた街だ。
芸術や音楽や芸能など、様々な分野で成功しようと夢見る若者が、世界中から数多く集まっている。
「もしかして、ヤツも画家として一からやり直すつもりなのだろうか」
オレはそんな推測に何故か心躍るものを感じながら、ヤツの行きつけの喫茶店とやらで、その登場を待った。土曜の午後はほぼ必ず現れると聞いていた。
天気はいいが、オレはオープンカフェではなくあくまで店内派だ。
日本と比べるとあまり衛生的とは言えない路地の喧騒を避け、一番奥の席に着く。
コーヒーを傍らに、気長に待つつもりで新しく買った本を開いたオレだったが、あまりページは進まなかった。
それは思いのほか早く現れたその男が、こちらを一目見るなり、「おお!!」とまるで演劇のように驚きを示したためだった。
親しい友人との感動の対面風に、男は迷いなくオレの向かいに腰掛ける。
「あなたが私を訪ねてくるだろうと聞いてはいましたが。こんなに早いとは思いませんでした」
「オレは昔から、決めたら即行動するタイプだからな。あんたも知っているだろう」
「ええ、勿論です」
男──ペガサスと初めて出会ったのは、オレがまだローティーンの頃だ。
あの頃のオレには、一回りも二回りもヤツが大人に見えたものだった。
その後、お互い若くして社会の第一線に就いた後は、あくまで対等なビジネスの関係を結び、その関係が長く続いた。
完全に音信不通となってからも長かったが、こうして共に成人してしまうと、実際にどうかはともかく「昔と変わらないな」という印象が、どうにも先に出てしまうものらしい。
そのせいか、オレとヤツはほぼ同時に同じ社交ワードを発してしまっていた。
そうした同窓会めいた馴れ合いの空気をオレが嫌ったところ、察したように男は店員を呼び、「いつものをお願いね」とフレンドリーにオーダーを済ませる手際を見せた。
そうだ、過去にオレは嫌というほどコイツと仕事をしてきた。だからつい変わらない部分ばかりを見つけてしまうが。
実際に今目の前にいるペガサスの容姿は、現役時代とはおおよそ別人と言っていいものだった。
背中まで長く伸ばした銀髪は、失った片目を隠す一房を除いて、後ろにまっすぐ一本で束ねられている。
シンプルな薄手のクルーネックのニットに、細身で風合いのいいデニムとカジュアルな革靴を、さらりと履きこなしていた。
おまけにこの、甘そうなフラペチーノを、生クリームまみれのケーキと一緒に優雅に楽しむ様。
しかしこれはこれで、「貴族」と陰で呼ばれるのも、妙に納得できてしまうから、反応に困る。
…オレはというと、無難に黒のビジネススーツだ。
休日昼に喫茶店の奥で膝をつき合わせたこんな男2人は、奇妙な組み合わせだろう。
さすがにヤツの顔なじみの店員たちは、こちらを少し気にしているようだ。
だがその他には、オレたちに大した注意を向ける者などいない。とにかく人や物の動きが激しく、それどころではないのだ
「こんな騒がしい場所、あんたの趣味ではないと思っていたんだが」
「ちょっとした心境の変化です。ああ、ブルックリンにワンルームを借りてましてね。
そこの地区でしたら、ここよりもう少し静かですよ」
「それにしたって似合わないな。一体どういう心境の変化なんだ」
「あなたにはお話していませんでしたっけ?私はこう見えて、若い時分はなかなかに騒がしい街で過ごしていたりしたんです。だから、ここも案外居心地がいいんですよ。
…ケーキ、おひとつどうです?」
「アメリカの菓子は甘すぎる。…遠慮しておく」
「そう言わずに。ここのケーキは甘さも控えめで、今話題なんですよ」
仕方なくオレは勧められたチョコレートケーキを一口齧った。確かに意外と悪くはない。
だがオレはコイツとこうしてお茶をしに来たわけではなく、当然早く本題に移りたかった。
「それで、今は何をしているんだ」
「私?仕事ですか?…特にしていません」
予想通りの答えだった。
「であれば、かえって都合がいい。オレはお前に頼みたい用事があって来た」
オレがこの男を探した理由は、一度コイツにオレの絵を描かせてみたいと思ったからだ。
心境の変化というのは、実はむしろ今のオレを指す言葉だった。
不思議なもので、自らが夢に近づき望んだものを手に入れていくほどに、敢えて自分が「望まなかった」「この手に触れなかった」ものに、関心を惹かれ始めたのだ。
これは単なる酔狂や道楽かも知れないし、あるいは時代が時代ならば「豊かさ故の貧しさ」などと、メランコリックに表現したがる文人たちの格好のネタになっていただろう。
ただ、オレ自身にとっては、意外にそれほど大した意味はないのだ。
写真家に美しく撮られすぎるのに飽きてしまった、というのが、最も直接的な理由だ。
オレを快く思っていないであろう因縁のこの男が、果たしてオレをどこまで醜く描くか。
それを一度見ておきたくなった。単純にそれだけの、好奇心の範囲に過ぎない。
長く人生のモチベーションを保つ上では、必要な無駄もある。これもそのうちの一つだと捉えていた。
「…絵の依頼ですか」
ペガサスは分かっていた。もう他人の心を読む能力を失ったはずだが、勘はいい。
「世間に発表するような作品ではなく、オレが個人的に買って、所有したい。
オレ自身の絵を描いて欲しいんだ。手軽にでいい。…どうかな」
金に不自由はしていないだろうが、底意地の悪いコイツの事だ。いくら高値を吹っ掛けられたとて、すぐにその辺りの銀行で引き出せるくらいのドルは、予め用意しておいた。
是が非でも、首を縦に振らせるつもりだった。…が。
ペガサスはオレの依頼を固辞した。
もう絵は全く描いていない、描けなくなったというのだ。
「あんた、何のためにニューヨークに住んでいるんだ?嫌でも新進気鋭のアーティスト共の芸術作品が毎日目に入ってくるだろう。インスパイアされる事もあるんじゃないのか」
「最初はそれを期待しました、また絵筆を握れる日が来るかも知れないと。でも現実はそうはいかなかった。…かと言って、私は少しも焦ってはいないんですよ。
焦りを覚えない自分にはさすがに驚きましたが、でもそれで、ようやく──」
ゆっくり『自分探し』を行えるようになったのだと、ペガサスは打ち明けた。
自分探し、か。随分遅い思春期だと唾棄しそうになったオレだったが、寸前で思い止まる。
あの夏の熱さと激しさが、ずっと忘れられない、と。
イベントですれ違うデュエリストたちが、時折オレにポツリと漏らす言葉がある。その言葉が不意に脳裏をよぎったのだ。
この男がカードゲームM&Wを生み出し、オレがそれを科学技術により、現世での神々の闘いに昇華させた。
ならば、オレたちが残したものとは何だったのか。
迷いの中にあるこの男の隻眼には、このオレはどう映っているのか。オレはそれがより一層知りたくて堪らなくなった。
オレは今でもあの夏の闘いから続く一本の道を歩んでいるつもりだが、そんなオレを『自分探し』の迷いの中で、コイツは一体どのように醜く描いてくれるだろうか。
…どうしても描かせたい。
「どうしてもダメなのか?ラフでもいい。殴り書きでも構わない」
「私の記憶しているあなたは、絵に描かれるのも写真に撮られるのも嫌いだったような…」
「まあな。今でも大嫌いさ。だからこそ気分転換には打ってつけなんだ」
「おっとそうでしたか。それと、その強引な性格は少しも変わっていませんね」
「変える必要がないからな。…とにかく、早くYESと言え。こっちはラクガキに数百万ドル出してやるつもりなんだ」
「ちょっと私を買いかぶりすぎではありませんか」
優雅な仕草で、溶け始めたグラスのアイスをストローでくるくるかき回す。ヤツの曖昧かつ鷹揚な態度に、オレは苛立ち始めていた。
尚も食い下がるが、ヤツは一向に了承しない。そのくせ度々雑談に話が逸れるものだから、次第にテーブルの上には、空のカップやソーサーが溜まっていった。
随分とサービスの悪い店だ。それとも、オレたちの雰囲気があまりに異様で、スタッフが接触を躊躇っているとか。…まさかな。
とはいえ夕方が近付くにつれ、徐々に通りの騒がしさも増してきた。
店への客の出入りも活発になり、客層の変化も感じ始めていたところで、ペガサスが言った。
「何にしても、懐かしい顔に出会えた事は嬉しいものですね。
良かったら場所を変えませんか。狭くて汚いですけど、私の部屋でも構いませんし…」
「そうさせてくれ」
オレは当然その誘いを甘んじて受けた。
このまま収穫なしで帰る事も覚悟していたが、意外な展開だった。
■
店で会計を済ませた後、地下鉄に乗り、最寄り駅で降りた。
マンハッタンのビルが望める高級地とは別の方向に歩いていく。
この辺りは一部治安が悪いと聞いていたが、それは杞憂だったようだ。レンガ造りの背の低い建物が並ぶ、至ってレトロで庶民的な風情の路地へと入った。
道すがら商店街で夕食の材料を買うペガサスは、やはりこの辺りでは有名人のようだ。
もしかしたらヤツの正体に気付いている者も中にはいるのかも知れないが、ここの住人は他人の事情に踏み込んでこないのだろう。
ペガサスはオレを「昔からの友人」として、日用雑貨店の老夫婦に紹介した。
「まあ。素敵な人には素敵なお友達がいるものなのね」
というご婦人の言葉に、オレは愛想笑いと適当な社交辞令で応えるしかなかった。
レンガ造りの5階建てのアパートメントの、最上階がヤツの部屋だった。
ワンルームといえばワンルームだが、その部屋だけで日本でいう十数畳以上あり、キッチンやバスルームやクローゼットなども一通り揃ってはいる。
窓からの景観は自然が多く良好で、内装は落ち着いたシックなトーンに統一されていた。
ヤツの成金趣味丸出しの持ち家より、ずっとこの部屋の方がセンスが良いように思えたのだが。
唯一の問題は、大量に床に詰まれた児童向けコミックだろうか。そしてそのキャラクターのウサギのぬいぐるみや、ポスターや文具やらといった、あらゆるグッズの一面の散乱。
「折角の好物件が、まるでオタク部屋じゃないか。あんたみたいなイイ大人が、こんな」
「私の熱はあなたには負けますよ。ねえ海馬ボーイ」
「いや、オレの場合インテリアと趣味を厳密に切り離しているからこそ、あくまで仕事上で…」
弁解している間にも、ペガサスがあまりに柔和な顔で楽しそうに笑うので、オレもすっかり毒気を抜かれ一緒に笑うしかなくなってしまった。
「子供の純粋な心を失わない事が、クリエイターとしての重要な核の一部をなしている。
その意味で、あなたと私はよく似ていると思いますよ。海馬ボーイ」
「まずそのボーイというのはやめろ。…反発したい気持ちはなくはないが。
確かにあんたの言う事には一理あるな。ありがたく心に留めておくとしよう」
オレはスーツの上着を脱ぐと、さっきまでぬいぐるみが座っていたソファに腰を下ろした。
ペガサスは窓際のチェアに腰かけ、束ねていた髪をほどいた。
「それで…、この部屋で『自分探し』は完遂できそうなのか?」
「支障はありませんが順調とまでは言えませんし、完遂…となると。
そこに完全に至る人間が、果たしてこの世界に1人でもいたのか…」
「まあな」
子供じみたひねくれた質問だと自分でも思った。
先ほどのクリエイター論と、自分探しの完遂とは、ともすれば矛盾する要素をふんだんに持ち合わせている。
それでいて『自分探し』が終わらないと絵を描けないというのだから、こういった人種は難しいものだ。
だからこそオレは期待していた。期待は膨らむ一方だ。
こうして一緒にいればいるほど、どんどんこの男に興味が湧いてくる。
ヤツが適当につけた夕方のテレビ番組をBGMにしながら、しばし世間話をした。
オレが自分の仕事の事を話し、ヤツはそれを聞いている場面が多かった。
M&Wの生みの親であるヤツにとって、オレの仕事はその意匠を継いだようなものでもある。未だに高い関心を持たれている事は、素直に嬉しかった。
当時は激しい対立も何度も経験したが、今となっては…。
今も決して、この男はオレの全てを認めてはいないだろうし、どこかには不満や軽蔑、嫌悪・敵意やといった感情も混在しているはずだ。オレがこの男に抱く思いがそうであるのと、恐らく同じように。
しかしそれらの否定的な側面を含めても、俺たちの関係は実に面白いものだと思うのだ。
オレはなかなか自らの事を語らないペガサスに対し、不躾な質問を続けた。相当悪質な客に違いない。
「なあ、その椅子じゃ疲れないか?あんたもソファに来ればいいんだ」
「え、ええ……」
ヤツから引き出した話によると、今は本当に毎日街をブラブラし、夜は部屋で漫画やアニメを見て、気ままに暮らしているそうだ。…部屋のあり様からそれも容易に頷ける。
一緒に出掛けるような友人や恋人は持たず、ネットにもあまり触れないそうだ。
「確かにそういう時期も、必要だとは思うがな。オレとしては勿体ない気がしてな」
画材らしきものはどこにも見当たらない。スケッチブックの一冊も。
「本当に何も描いていないんだな。腕がなまらないか?」
「そうですね。腕はなまりますね。なるべく『目』だけは落とさないように、街へ出て、様々な作品を見てはいるのですが」
「なら、オレを描け」
「すみません、心の準備が…」
「このノートとペンでいい。練習だと思って描いてくれ」
オレは自分のカバンから、持参したノートとペンを取り出し、ペガサスに差し出した。
ペガサスは一応それを受け取ったものの、膝の上に乗せたまま、じっと俯いてしまう。
「あなたは、どうしてそんなに私に描いて欲しいのですか?」
「さあ?…それが分からないから、お前に描いてもらえば分かるかと思ったんだ」
「あなたにしては随分とザックリとした理由ですね」
「そういうあんたこそ、何故そう頑なに描く事を拒むんだ」
「分かりません…」
それが分かるくらいなら苦労はしません、と。控えめな声ながら、どこか投げやりな調子で言う、ペガサス。
傍から見ればあまりに不毛な会話だろう。だが、オレはこのやり取りを楽しんでいた。
オレがこの男に描いて欲しい願望の中には、こうした段階とやり取りも含まれていたのだろうと、今この時に初めてそう思った。
「絵が描けるヤツは、見える世界も違うのかな」
「どうでしょう。でもあなたは充分すぎるほど、人と違う世界を見ていると思いますが」
「パンチの効いたジョークだ。だがオレは、もしオレに絵の才能があったら、あんたを描いてみたいと思う。…図面ならば書けるんだがなあ」
「私の図面や数式でもいいんじゃないですか。モデルになりましょうか」
「モデルなどは要らん作業なんだが…。そうだな、モデルになってくれるならいいか」
隣に座ったペガサスの長い銀髪を、指先で後ろにサラサラと撫で梳いた。
左目には痛々しい眼帯。端正な顔はわずかに曇った表情を見せ、ブラウンの右目は、訝しげにオレの様子を窺っている。
少し腰が引けたヤツの肩に、オレはそのまま手を乗せた。そして距離を詰める。
いつの間にか日は暮れ、夕空と同じ暗いオレンジ色の中に、この部屋の景色の輪郭もゆるくおぼろに溶け始めていた。
虚しく一人しゃべり続けるテレビだけが、チカチカと尖った光をオレたちに浴びせている。
「怒っているのか。あんまり茶化すなよ」
「そんなつもりはないのですが…」
「あんた、オレが嫌いなんだろう?」
「そういう簡単な言葉でまとめられる感情ではありません」
「それはどんな感情だ?あんたにはオレがどう見えている?」
昔のコイツだったら、すぐにオレを引きはがし、更に嫌味の1つ2つでも浴びせてくるだろう。
しかしコイツは動かず、まるで聞き分けのない子供に手を焼くとでも言いたげな、そんな苦笑いを浮かべて見せるだけだった。
痺れを切らしたオレは、もう一方の手をヤツの膝の上…ノートの上に置かれたヤツの手に重ねると、耳元に熱っぽく囁いた。
「あんたにオレがどう見えているか知りたい。だからオレを描いて欲しい。
…あるいは、オレが『どう見えていたか』。あんたがあの眼を失う前、オレは一体──」
どんな醜い悪魔の姿をしていたのか?
オレがそこまで言うと、男は急に立ち上がった。
「…分かりました。やってみましょう。ただし、報酬は1ドルも要りません。
あなたに描いた絵をお渡しできる約束もできませんが、それでもよければ」
ペガサスの表情はよく見えなかったが、口元だけは笑みを軽く刷いていたと思う。
オレは興奮していた。当初の希望にはほど遠い条件だが、ここまでこぎ着ければ及第点だ。
買ってきた食材が料理に変わる事はなかった。
ヤツが冷食をつまんでいる間、オレは眼下の通りの灯りと、行き交う人々を眺めていた。
カーテンを閉めた後は、テレビを消して音楽をかけた。ありきたりなクラシックだ。
ヤツは本当にあのノートとペンだけでオレを描くようだった。
「なるべく醜く描いてくれよ」
オレはそう念を押し、ネクタイを軽く緩めた。
■
例の大量のキャラクターグッズは、部屋の反対側にまとめて移動させた。
特にポーズの指定もないため、案内されたベッドの上に適当に座っていた。
ずっと素描を繰り返しているらしい。先程までと打って変わって、会話はほとんどない。
最初は緩慢だった筆の音が、次第に軽快にリズムを刻み始めたのを感じた。
オレを見るヤツの目が、鋭さを増していく。オレはこういう目をしたヤツが好きだ。
好きであるからこそ、駆け引きを楽しんだり、叩き潰したくもなる。
デュエリストの目。絵描きの目。オレにどう挑み、何を暴いてくれるだろう。
かなりのハイペースで素描が描かれていく。オレは一度ベッドから降り、ヤツの手元を覗いた。
「へえ、さすがに上手いじゃないか」
「このくらいは。でもこれはただの基礎の確認ですから…」
「これがお前に見えているオレ、か?」
「いえ…まだ全くその域には及んでいません」
「そういうものかな」
オレがわざとらしく笑みを投げかけると、ペガサスは狼狽の色を露わにした。
それから少しずつポーズの指定がなされるようになる。
オレはあくまで従順に、その指示に従う。まるで「こういうプレイ」のようだ。
時々真剣なヤツの表情を盗み見るのや、視線がぶつかった時に、ヤツの目が明らかに戸惑い、揺れ動くのを見るのもまた格別で、堪らなかった。
対するペガサスは…、だがそれでもペンが紙を掠る音は、やまない。
不思議な力がこの部屋を支配している。
「なあ、上、脱いでもいいかな」
オレがそう問いかけると、どこか心ここにあらずといった風に、ペガサスはそれを二つ返事で了承した。
オレの身体には、義父によってつけられた幾筋もの鞭の痕が、おぞましく残っている。
何ら事情を知らぬ者が一目見ても、誰もがこの痕を醜いと思うだろう。
しかしこの男は、全てを知っている。事の成り行きも。
オレの知らないオレ自身の心の内ですら、かつてのヤツのあの『眼』には、全てが見通されていたはずなのだ。
「あんたには説明なんて何も必要ないな」
シャツを脱ぎ捨てたオレは、再びベッドの上に身を投げ出し、無言で次の指示を待った。
ペガサスもまたしばし押し黙ったのち、しかしオレの問いや傷痕には一切触れず。淡々とポーズの指示、それからスケッチを再開した。
退屈なクラシックをBGMに、忙しない筆遣いが続く。
そしてまたオレは盗み見る。オレを見るヤツの目を。
迷いが晴れるどころか、より深い苦悩に苛まれているような、そんな目だ。
それでも筆は驚くほど進んでいるのだから、ヤツの迷いとは、一体何だったのだろう。
きっと本人にも理解できてきないに違いない。やはりオレと眼差しが交差するたび、ヤツはまるで怯えたように、ノートにそっと視線を落とした。
「今でもオレが悪魔や…怪物に見えるか?」
「私はただ、目の前にある、そのものしか見えていません」
「オレを見るあんたを、オレも見ている。…興奮するよ」
「それは良かった。忙しいあなたには退屈かと心配していたので」
「退屈?馬鹿言え。…お前が穴の中の怪物を覗き込むとき、怪物もまたお前を見ているんだ」
「……………」
一層筆遣いが粗くなる。今のオレにはどんな言葉よりも、その音が明白な答えであり、また最高に刺激的だ。
「よく描けてるじゃないか。オレの言った通り、いいリハビリになっただろう」
「ええ、おかげ様でね。本当に久々です」
「オレの醜さがよく表れている。さすが本職は違うな」
「そうですか?私は、ただ見たままのあなたをスケッチしただけですから」
「見たままのオレ、とは?」
「アジア系の人は年齢より幼く見えますね。あなたのような人の場合は、肩書を取り除けば余計に」
「…それだけか?」
「ええ。何かご不満ですか?」
ペガサスは薄い唇の端に笑みを刻む。その言葉に嘘はないのだろうが、絵心のないオレには確証が持てない。
それよりオレは、ヤツの一見柔和な瞳の奥や、口調の端々に、挑戦的なものを感じ取った。
既に昂っていたオレの欲望は、そんなきっかけで簡単に弾ける。
「もっとオレの内側まで、醜く描いてくれ」
ヤツの座る椅子の座面に膝を滑り込ませ、腕を強引に取って、オレの肩に回させた。
もう片方の、ペンを持った手をぐいと掴むと、ペンは床に転がり落ちた。
抵抗する素振りがないので、そのままオレはヤツの胸元に体重を預けて、顔を埋めた。
微かなフレグランスの香り。薄手のニット地越しに伝わる温もりに、頭の奥が痺れる。
「…抱いて欲しいという意味ですか?あなたの『描いて欲しい』というのは」
「あんたにその趣味がないのは分かっている。そこまでの意味はない…」
「なら、安心しました。よくいるんですよね…古いイメージを持った人たちが。
画家は絵を描くためにモデルを抱くとかね。そういうのは私の美学に反しますので」
「だろうな。あんたにはそんなやり方は似合わないし、必要ないに決まってる」
交わされる言葉とは裏腹に、ペガサスがオレを拒む様子は一向になかった。
オレは少しずつ角度を変えながら、素肌を晒したままの身体を、ヤツの身体に密着させていった。
直に鼓動と息衝きを感じる。快・不快を超えた衝動がオレを動かしている。
あの夏の熱さ、激しさ…というワードが、霞む意識の向こう側でずっとチラついていた。
その熱さと激しさを生んだ最初のきっかけは、オレと、他ならぬこの男だ。
「オレたちには、何一つ説明など要らないんだ」
ペンを落としたヤツの手に、オレは執拗に唇を這わせた。
すらりとした綺麗な指をしているが、案外…特に掌などには、しっかりとした筋肉の厚みと張りを感じる。
「お前に、何を迷う必要があるんだ…。確かに…迷っているお前を見るのも一興だが…」
ほとんど譫言だった。オレ自身、明確な自分の意思を認識していない。
オレは夢中でヤツの指先から手首まで、まんべんなくキスを落としていく。
舌は使わない。軽く吸ったり、上下の唇でやわやわと挟んだり、そのまま滑らせてみた。
いつの間にかオレの頭にはヤツのもう一方の手が乗せられており。
「こうしていると悪魔に見えなくもない」
と、美しい詩でも吟じるような低音の囁きが、上から降ってきた。
オレはそれを何かの聞き違いかも知れないと思いながらも、更に高められる衝動は抑えようがなかった。
ヤツの言葉をもっと聞きたいのに、どんどんオレの理性は吹き飛んでいく。
こんなオレの姿を今すぐ描いて欲しい。しかし男の右手の自由を奪っているのは、オレだ。
どうしていいか分からない。
「あの『眼』が見たあなたは、救いを求める子供でもあり、罪深い悪魔でもあった」
「はあ……、はあ……」
「私がエジプトを訪れた時、セト神と出会う事は出来なかった。後の世にその遺物の多くが破壊されたからだそうだ。 だからセトのカードは、この世に存在していない。
…ヨーロッパに伝わり、サタンの原型となったも言われる、悪神セト。また別の解釈では、アダムとイヴに知恵の実を与えたあの蛇の、眷属であるとされる事もある。
つまり、全ての悪の根源とも呼ぶべき存在だ。オレをそんな悪に準えてくれるなんて、なんと身に余る光栄だろうか。
オレは堪らなくなって、ヤツのもう空っぽの眼孔に当てられた布に、精一杯うやうやしく口づけた。ヤツの右手の指には、自分の指を、それこそ蛇のように…絡めたままで。
「もっと、言ってくれ……」
男の言葉も意思も、ろくに理解できないほど浮かされた頭で、オレは求めた。求める事しかできなかったのだ。
「私は確かに、あなたの中に悪魔を見た。遂に探し求めたセトに出会えたかと思った。それは夢の実現であり歓喜であり、恐怖でもあったが…」
「はあ…っ、はあ……」
「でも同時にあなたは、救いを求める子供の顔もしていた。いつか裏切られるのを知りながら、それでも与えなければいけないような…。そんな限りない慈悲が、あなたを見る私の中に見えた。
私の中に一瞬見えたその心は、悪魔への恐怖よりもはるかに恐ろしく、その相反する2つの恐怖が、やがて私自身を──」
オレはそこに続く言葉をじっと待ったが、結局その先が語られる事はなかった。
力の抜けたオレの手の戒めを、するりと抜け出していたヤツの両腕が、気付いた時にはオレの身体をしっかりと抱き締めていたからだ。
「あの『眼』を失くした今の私には、あなたは悪魔や怪物には見えません。
その時私が見たものも、どこまでが真でありどこからが虚なのか。今となっては全てが曖昧な、つまるに過去の残影でしかないのです」
子供にするように、髪を撫でられた。額にキスをされたが、何だかはぐらかされたようで、オレはそれがかえって不服だった。
「オレは、悪魔にも怪物にも見えない…?」
「ええ。私にとっては、憎くて可愛い後輩。ただし類まれな才能を持った、一人の『ボーイ』です。
悪魔『的』であるとは思いますよ。あなたがただのいい子だったとは、少なくとも全然思えませんからね」
「ふっ…」
行き場のない熱を体中に持て余しながら、オレはペガサスの腕から滑り落ち、そのまま絨毯の上に崩れるように座り込んだ。
「あんたはそう言うが、あんたの描いたそのノートのオレは、充分醜悪だったぞ」
まさに魔物か怪物か。そのくらい醜いとオレ自身は思ったのだ。
「その感じでいいんだよ。欲をかかなければ、その感じで満足だ。だから」
オレのせいで少し乱れた、ペガサスの服と髪。しかしそんな事がほとんど意味をなさない程に、達観したような静かな眼差しと穏やかな笑みを、ヤツはオレにまっすぐに向けていた。
かたやオレは、一体どれほど無節操なのだろう。
こんな目で見られる事も、またこれはこれで快感だと思った。
そしてオレは、おもむろにベルトに手をかけていた。
上手くベルトの金具も外れないままに性急に立ち上がると、オレはヤツにこう頼んだ。
懇願した。
「なら、今ここに見えるオレを『描いてくれ』…」
■
目覚めた時にはもう朝だった。気を遣ってくれたのかカーテンは閉められたままだが、差し込む光で分かる。
見慣れぬ天井をしばらく見上げていたが、自分が衣服を何も身に着けていない事に気付き、ハッとする。そしてその裸体の上に、毛布がかけられていた事にも。
周りを見回すと、ウサギのキャラクターグッズの山が部屋の反対側を埋め尽くしていた。
思考が現実に引き戻される途中で、不意打ちのようにあの男の声が聞こえた。
「おはようございます、海馬ボーイ」
男はガウン姿のままソファにゆったりともたれて、モーニングコーヒーを味わっていたようだ。
コーヒーの芳醇な香りが、鼻腔を抜けて胃の奥まで染みていく。オレはゆうべから何も口にしていない事を思い出した。
「シャワー、自由に使っていいですよ。その後で朝食にしましょう」
「ああ、すまない。オレは……」
昨夜オレはヤツに絵を『描いて』もらったのだ。ありったけに醜い絵を。
そんな自らの醜態を一つ一つ思い返す度、ただでさえ空腹でむかつく胃がぎゅっと絞り込まれるようで、吐き気まで込み上げてくる。
しかしその苦い記憶も、途中からはどうも不明瞭になり。そしてそのまま境目もハッキリしないままに、後の事は全てがぽっかりと空白に抜け落ちていた。
…これには、思い当たる理由があった。
「すまない。最近どうも調子が悪いんだ。予測できないタイミングで勝手に眠っている事が、たまにある」
疲れのせいだろうと初めはタカをくくっていたが、近いうちに専門医への受診を考えていた。
とはいえ、それはここにいる男とは関係のない話だ。オレはオレ自身の知らない空白の時間の出来事に、いささか不安を抱いたが、
「あなたの可愛い寝顔もスケッチさせて頂きました。よろしければ後でノートをご覧になって下さい」
男があまりにあっけらかんとそう答えるので、これ以上無駄に重く考えるのはやめておいた。
「なに、寝顔だと」
「そうです、可愛いですよ。ご自分ではなかなか見る機会もないでしょう」
その代わりに、別の不安感を覚える羽目になる。
このまま朝からペースを乱されるのは御免だ。オレは先にシャワーを済ませ、ヤツと共に遅めの朝食を摂った。もっとも、ヤツにとっては遅くも何ともないいつもの時間だそうなのだが。
時計は午前9時過ぎを指している。
カーテンを開けまず目に飛び込んだのは、昨日とはまた違う、白い朝の光に照らされた、日本より目覚めの遅いレンガ造りの街並み。その向こうに、公園や小高い丘の木々の緑が鮮やかだ。
この部屋にしても、あんな事があったのと同じ空間とはとても思えないほど、まるで「別人」のような風情で清廉そうに澄ました顔をしている。
オレはそんな新しい朝の時間の中で決して置いていかれまいと、平静を装って朝食を口にした。
シリアルにミルク、ハムエッグ、サラダにスムージー。この上なくシンプルな朝食だが、空腹のオレには至福だった。平静を無理に装うつもりなどすぐに忘れ、オレは出された食事を無心に頬張っていた。
そんなオレ以上に上機嫌だったのが、ペガサスだ。長らくここで一人で暮らしていたという事情を鑑みずとも、やはりこんな男にも人恋しいという感情は当たり前にあるのかも知れない。
男は染みついた習慣のようにごく自然な動作で、さして見もしないテレビのスイッチをONにする。今度は朝の番組の騒がしいトークを、環境音として食卓に流していた。
時折はニュースにコメントしたりもするが、交わされる大半は他愛無い日常の会話だ。
そんな中やや唐突な印象で、けれど確実に上がるのがこの話題だった。
「あなたは今日帰られるんですね」
「ああ。飛行機のチケットは手配してあるし、仕事がな」
当然見送りは要らないと断った。
しかし、この部屋を出る前に、必ず触れなくてはいけない事がある。
元々、それが目的でオレは強引にここに上がり込んだというのに、全くおかしな話だ。
それほどゆうべのオレは自分を見失っていたし、その事を忘れておくのに、この朝の空気が、あまりに心地良すぎてしまったのだ。
「ありがとうございました」
急に気持ち悪いほどかしこまって、男はオレにあのノートとペンを手渡してきた。
「ペンは、あんたにやるよ。安物だし…でもそろそろインクもなくなるか」
だが、ノートはどうする。確かコイツは昨日、オレに絵を渡すかどうかは約束できないと宣っていたはずだ。
「とにかく、まず中を見て下さい」
至極当然の事を促され、それでもオレはかなりの覚悟でもって、そのページを開いた。
まだ初めのラフの段階でさえ、あんなに醜悪だったこのオレの絵。
その後の混沌とした出来事と、その出来事の後もコイツがなおも筆を走らせていた事実を知ってしまった以上、オレにとってそのノートは──、
少なくとも、今この場で見られるような代物ではないはずだったのだ。
なのに、一体どういう事だろう。
まるで魔法だった。
確かにこのノートには、あの時見たのと同じままのオレのスケッチが、描かれている。
なのに、どの絵を見ていっても、そこに描かれたオレがどんなポーズを取っていても、
あの混沌と空白の間に描かれたであろう、ひどく乱れたオレであっても。ヤツが可愛いと嬉々として言う、だらしなく寝崩れたオレであっても。
どのオレもただの「オレ」でしかなく、あの時のような魔物や怪物などには、少しも見えなかったのである。
オレは混乱した。
しかしそれが、ただのいつもの、世にゴマンと氾濫する「オレ」の上っ面のコピーかと言うと、そうではなかった。
オレには幼い頃に亡くなった実の両親がいる。写真の1枚すら残っていない、両親。
2人の姿は、生涯オレの記憶の中だけに留めておくつもりだった。
しかしヤツの描いたオレの姿を見て、…それも、あんなに醜悪だったはずのオレだ。
そんなオレの絵を見て、(ああ、そういえば母はこんな目元をしていた)と、忘れられていたはずの過去に、自然とオレは再び想いを寄せたのだ。その絵を「美しい」とさえ思えてしまったのだ。
こんな魔法みたいな事が、果たして現実に起こりうるものなのだろうか?
「どうでしたか?」
そうにこやかにペガサスに訊かれ、オレは動揺を禁じえなかった。
「…あんたはさすがにオレの見込んだ男だ」
すぐにノートを閉じた。オレの動揺は、簡単に見透かされているだろう。
「私はあなたを醜いとは思いませんが、とにかく見えるものありのままを描いたつもりです。
まだ本調子ではありませんが。あなたの叱咤激励のお陰で、ようやく第一歩を踏み出せました」
「そうか」
「どうでしょうか。お気に入り頂けましたか?」
たった一晩で評価を180度変えるなど、さすがにあんな事の後とはいえ…オレのプライドが許さなかった。
いや、自分自身がまずこの状態を把握していないのだ。上手く説明などできない。
「このノート、オレはどうすれば」
「差し上げますよ。あなたがお受け取り下さるなら。ああ、勿論1ドルも要りません」
「絵だけじゃない、部屋や食事の世話にもなった」
「それ以上の素晴らしい体験を私はあなたから頂きましたから。むしろ私のほうこそお礼をしたいくらいなんです」
ペガサスは今朝からずっと上機嫌のままで、その挙動はあたかも戯曲の一場面を演じているかのようだ。
ぬいぐるみの中に埋まりかけていたオレのカバンを、ヤツが掘り返して、オレに渡す。
オレはノートを手早くカバンにしまったが、次にこのノートを開く日が果たして来るのかどうか、少しも見当がつかなかった。
次にまたこのノートを開いた時、そこに描かれたオレが、どんな姿で、このオレの目に映るのか。
もしかしたらもう二度と、オレはノートを開かないかも知れない。
反対に、そう遠くない日に、再び何らかの誘惑に憑りつかれたオレがノートに手を伸ばし、そしてあの恐ろしい魔法のようなページを、怖いもの見たさで覗いてしまうかも知れない…。
「あなたの望むあなたを、描いてあげられたでしょうか」
スーツの上着を受け取った時、男のフレグランスが微かに香った。
身支度を整えるオレを、男は夢見心地のように眺めている。オレはちょうど夢と現実の狭間にいるくらいの気分で、その男を脇目に見ていた。
「…オレには、絵はやはり分からないようだ」
捨て台詞めかして吐いたはずの言葉だったが、男は一層喜色満面の様子で、その言葉を拾った。
「絵は、不思議なものですよね。私にも正直分かっていません。
意図した通りに描けなかった気に入らない絵のほうが、その絵自身がまるで勝手に命を得たかのように、この私に向かってイキイキと勝手な何かを訴えてきたり、ね」
「オレは芸術家ではないからな。そういった感性は尚更分からない」
「そうですか?あなたが見たあなた自身の絵は、あなたに何か自己主張をしてきませんでしたか?」
「……………」
「我々が絵を見る時、絵もまた我々を見ているのかも知れませんね。
もしその絵が自分自身を映したものだとしたら、そこにいるのはつまり……」
下らんロマンティシズムだ、とオレはそれ以上取り合わなかった。
■
玄関先まで見送りにきた男は、まだガウン姿だった。
昨夜はほとんど眠っていないとの事で、これから改めて好きなだけ寝直すらしい。
さすがは貴族だな、とオレが皮肉を言うも、ヤツは意外な事を語り始めた。
「これから少しずつ本格的に描き始めようと思います」
「ああ、それは良かった。楽しみにしている」
「この部屋から、近いうちに引っ越すつもりです。ここでは画業に向きませんからね」
「随分急に思い立ったな。それも喜ばしい事だが」
「全て、あなたのお陰ですよ。感謝しています」
「オレのほうこそ…」
またオレの方が目を反らしてしまった。どうも調子が狂いっぱなしだ。
しかし確かに、思い返せば、昔からオレはコイツに振り回されてばかりいた気もする。
ある意味で自然な形に戻ったようで、これはこれで妙に肌に馴染む感覚もあった。
「次の住所に落ち着いたら、あなたにご連絡するようにしますので」
「ああ、待っている」
「またあなたを描いてみたいと思います。あなたさえ良ければ」
「考えておこう…」
動き出した週末の街を、1人で歩く。
帰路というのは、いつも何かしらの抒情を持っていると感じる。
昨日アイツと登ってきた坂道は、今日には下り坂だ。緩やかに伸びる長い坂の向こうには、白く輝くビル群がそびえていた。
オレの心の奥には、まだ昨夜の空気が滞留している。オレのカバンに収められたあのノートのページの奥にも、きっと。
それでも何の遠慮もなしに、新しい1日と涼しく乾いた街の風が、オレの髪やスーツの裾をいたずらに遊ばせて、そして通り抜けていくのだ。
オレはただその風に身を晒し、そのうちに流れていく景色や雑踏の騒がしさにも特段の感慨はなくなり、
そのまま当たり前のように、自分の日常の時間の中へと戻っていった。
オレがノートを次に開くのと、ヤツがオレに次の連絡を寄越すのと、どちらが先になるだろうと、意識の片隅ではぼんやりと考えながら。
ただその考え事すら、地下鉄を降りた頃には自然とどこかへ消えてしまっていた。
END
・・・あー恥ずかしい。 何度か直すと思いますホントすいません。
なんかもう今さ、腐女子ウケしない文体があえて好きっていうのもあるし、
直接的なカラミってそもそも必要なのかっていう、根本的な事も揺らいでるしw
どんどん需要のない方向へ驀進していってる感モリモリなんすけど、
でも… この憧れの先に、あの作品があるんですよね…★
いつかたどり着きたいあの領域…。
80歳を過ぎても文章を書く能力は伸びるという説に期待を託し、キダは進んでいきますw
ではw