薄い壁の向こうから、酔っ払いの喧嘩や女たちの甲高い声が響く。
カーテンのない窓から、下品な色のネオンがチカチカと明滅する。
クラクションとサイレンは、やかましく一晩中鳴り続けた。
「あの頃」過ごした夜を思い出す男とは対照的に、まるで少年は部屋の外の事など、何も気にしてはいないようだった。
「寒いな」
「そうですか?」
「チッ。全室一括で空調が設定されているのか」
「管理人に設定温度を直させましょうか」
「別に、いい…」
今回の旅は多少リスキーなものゆえ、仕事に関するものはほとんど置いてきた。
代わりに持ち込んだのは、市場で見つけた中古のジャンク品のゲームソフトだ。
少年は日頃の多忙を忘れて、ゲームに夢中になっている。
備え付けのテレビは画質音質ともに荒く、乱れた画面がノイズとともに激しくフラッシュする。
これでは外の様子に関心など生じないだろうと、男は妙に納得した。
そして、大人びて見える少年があくまでまだ年相応の子供だという事も、同時に思った。
男の胸の奥を、乾いて焼け焦げた空気が吹き抜ける。
少しそうして懐かしい感覚に浸っていようと、男は部屋の隅の暗闇に佇んでいた。
そのまま一晩立っているつもりだった。あくまで己の職責を全うするつもりで。
ところが少年は、気まぐれに男を呼びつける。
それから、こうゾンザイに言い放つのだった。
「オレがこうして休んでいるんだ。お前だけ生真面目だとリラックスできない」
「お言葉ながら、私の役目はあくまで厳重な警護です」
「そんなもの、外の連中に任せておけばいい」
「では、失礼して…」
「タバコを吸ってもよろしいですか?」
面倒くさそうに、少年は横顔で小さく頷くだけ。
内心にさざめく感情を、すっかり身に沁みついた平身低頭な態度で見事に隠して。
男はいそいそと、取り出したタバコに火をつけた。
タールを多く含んだ黒い煙を深く吸い込んで、吐き出す。
これでまた、冷静な感情を取り戻せるだろうと男は思った。
(毎日、暑く不快な夜だった)
(俺だけじゃない。あの街にいた人間はみな、誰よりも生きていたようにも、死んでいたようでも、ある…)
それにしても。
そんなにこの部屋は寒いだろうか?
男は首筋にまとわりつく汗をぬぐいながら、ふと疑問を抱いた。
「どうにも寒いな」
少年の声が、ゲーム音に交じって狭い室内に響く。
「ではやはり、管理人に…」
「いやいい。それよりお前、こっちへ来い」
少年によって散らかされたベッドに歩み寄ると、だらしなく寝転がった彼は、もうゲームには飽き始めているようだった。
突然伸びてきた細く白い腕が、男の日焼けした太い腕に巻きつく。
「ソレ、オレも吸ってみていいかな」
「駄目ですよ、未成年でしょう」
「はは。よく言う。ありったけ法を破ってきたくせに」
「…当時は戦時下で、無政府状態でしたから」
「無政府状態…か。悪くない言葉だ」
そんな事より、いいだろう?と。少年が火のついたタバコに手を伸ばそうとするのを、男はやんわりと制止する。
すると少年はわざとらしく、拗ねたような表情を一瞬作って見せた。
「ああ、つまらない」
「日本の快適なマイホームのようなわけにはいきませんよ」
「ゲームもクソゲーばかりだし」
「私には違いが分かりませんが…」
「だけどどうも眠る気になれないんだ」
「環境の変化か、光の刺激のせいのでは…?」
少年に奪われないようにして、男はまたタバコを、手早く一吸いした。
昔から。戦地にいた頃から、ずっとその銘柄だけを愛用している。
馴染みのニオイで肺を満たす度に、冷静さを取り戻せているつもりでいた。
が、…しかし実際はそうではなかったようだ。
「寒い」
「ですから、冷房を弱めてもらえば…」
「このベッドも良くない」
「すみません。次はしっかり調査させます…」
「この枕も良くない。だから眠れないのかも知れない」
「…申し訳ありません」
ずっとゲームをしていて寝ようとすらしていなかったのに、などと反論する気も起こらない。
「オレの世話は貴様の仕事だぞ?ちゃんと見ていたか?
枕の具合が悪いから、タオルを重ねてみたり、ずっと涙ぐましい努力をしていたのだ。
そんな事を、このオレにさせるな!」
「はい…申し訳ありませんでした」
恭しく頭を垂れた。サングラス越しに上目遣いで少年を見る男の目は、その実は決して誰にも知られる事はないわけだが…、
その瞳は、熱した鉄のような鈍い光を、じっと湛えていた。
本当は、冷静などではなかったのだ。
今、男の胸に吹くのは、ガレキだらけの焼け焦げた荒野を吹く風ではない。
脳裏に繰り返し繰り返し立ち上ってくる、蒸し暑い夜の記憶。
どれほどの娼婦を抱いてきたかなど、男は数えてもいないが。
彼女たちに共通した独特の影のようなものを、無意識に少年に重ねていた。
どうしても、重なって見えて仕方がなかったのだ。
少年は幼いが、男が生涯仕えると決めた絶対的主である。
傑出した才能と野心とエネルギーに溢れ、高潔で、高慢で。見た事もないほど純粋な人間。
たまに腹の内で皮肉を言おうとも、男は心の底から少年を尊敬していた。
少年の過去にまつわる良からぬ噂を耳にした事はあっても、自分自身がそうした目で彼を見る事はないと、自信をもって確信していた。
それがどうだ。
今、男は確かに、「そうした目」で少年を見ている。
一体何故なのか? …答えは簡単だった。
少年自身が意図して、そのように見せているのだ。
誘われている。
「本当にひどいんだ、この枕。工場で余った緩衝材じゃないのか」
「さすがにそんな事はないと思いますが…」
「オレは様々な枕を試したから、質が分かるんだ。…くく」
子供じみた我儘のアンバランスのせいで、自嘲めいた笑いの意味に気付くのに、少し遅れてしまった。
そこには不思議と卑屈さはなく、諦めを通り越したような… 沼のように深い何かがあった。
誘われている。
そう理解した男は、吸い残しのタバコをさっと床に捨て、靴底で踏みつけた。
「あなたと張り合いたいところですが、私は…よく考えると枕のない場所も多かったですね」
「ふん、…野人め」
少年は随分と嬉しそうにはしゃいだ。
「ほら、枕シロウトのお前でもコイツがダメだってのは分かるだろう?」
「ええ…。はい、そんな気もします…」
「試してみろ。 …ああ、ものが邪魔だな。なんだってこんなに狭いんだ」
ベッドに散らかったゲームソフトや衣服やお菓子や飲み物や、例の涙ぐましいタオルとやらを、乱暴に床に投げ捨てる、少年。
子供っぽいそうした所作も喋り方も、彼は全て計算して行っている。
男は全て理解した。それでも少しも冷静さなど取り戻せなかったし、既に取り戻すつもりもなくなっていた。
「確かに変な質感ですね…。ちゃんと洗濯されているのかどうか…」
「だろう?お前のせいだ。お前が前もって調べないのが悪い」
「今度は必ず、もっとちゃんとしたホテルを取るように」
「お前が…悪いんだ。お前がもっとちゃんと…してくれないと…」
少年の腕が男の身体にするりと絡みつき、そのまま滑り込むように、滑らかな肌が密着してくる。
胸にすっぽり収まってしまう華奢な体は、触れると少しヒンヤリとしていた。
寒いと言っていたのは本当だったのかと思い、男は少年にひどい事をしたと、より強い罪悪感に襲われた。胸が痛んだ。
「は あ… いい。こっちの方が…」
男の耳元で、ぞっとするほど艶めかしい少年の囁きが漏れる。
「なあ野人。オレにも教えてくれよ。オレの知らないお前のこと…無政府状態?ってやつを」
ずっとつまらないんだ。
寒いんだ。心が。
眠れないし、ベッドも枕も合わない。
本当にこの世界は退屈でつまらない。
だけどお前は、きっと違う。…
「ああ…すごく熱い…。 気持ちいい…」
その後は、もう止まれるはずもなかった。
…堕ちる直前、最後に男はカーテンのない窓ガラスを見た。
せせこましい真似をする自分にわずかに抵抗はあったが、過酷な戦地の昼と夜を生き抜いてきた知恵と自負も、同時にそこにはあった。
やかましいネオン街の虚空に、密かに抱き合う2人の姿がうっすら映っている。
きっとこの少年は、欲しいものを得られた満足感で、悪魔のようにいやらしく笑っているだろう、と。男はそう思っていた。それを見てやろうというつもりでいた。
しかし男が窓ガラスの中に見たのは、全く予想と異なるものだったのだ。
既にもう頭がどうにかなってしまっていた可能性も、否定できないのの…。
男の肩口に静かに頬を寄せた少年の顔は、まるで親鳥の庇護を求めるヒナのようで。
今にも泣き出しそうにさえ見えた。儚く切なげな風情に、長い睫毛がそっと伏せられていた。
これもまた彼の計算だろうか?それとも…計算ではないのだろうか?…
少しだけ考えてはみたが、結局のところ、どちらでも一向に構わないのだ。
既に男の心は、少年に完全に捕らえられてしまったからだ。
テレビを消したせいで、外の騒ぎが相変わらずうるさい。
最後まで男の耳の奥にこびりつく、サイレン音。
ほとんど寝ぬうちに、黄色い太陽がビルの向こうを照らし始めた。
男にとっては昨日までとは違う、新しい朝の訪れでもあった。
そして一方の少年は、また新たな「奴隷」を得た。
最も新しく、最も優れた、彼が一番欲しがっていた奴隷だった。
これはひどい。