最近は読書すると目が疲れるため、大活字本シリーズ「間宮 林蔵」(吉村昭 著)を姶良市中央図書館から借て、10月25日に読み終わったので一部を紹介します。
この本の主人公、「間宮 林蔵」は江戸末期に樺太に渡り、樺太が島であることを確認して、間宮海峡を発見したことはよく知られています。
しかし今回読み終わってみて、「間宮林蔵」の時代はロシアが交易を求めても幕府が応じないため、いやがらせに日本を攻撃した事件、イギリスが日本の周辺で捕鯨するため、水・燃料(薪)・食料などを日本に求めたが要求に応じないので上陸した事件、シーボルトによる日本地図等の持ち出し事件など国際問題が多発した時代でもありました。
間宮林蔵は安永九年(1780)常陸国(茨城県)の農家の子として生まれたが、利発であったので、地理調査の役人の下僕として働くことになり、林蔵は地理調査を手伝う間に測量の手ほどきをうける。役人は江戸に戻り、蝦夷地(北海道)の地理調査を命じられ林蔵も同行して測量を手伝う。・・・測量ができるようになった林蔵は幕府の雇として蝦夷地で仕事を続け、寒冷地に適応するため、アイヌ人の生活習慣を取り入れて過酷な環境に耐えられるようになる。・・
樺太南部は日本の影響下にあったが、北部は未知の世界であったので、幕府の要請で、林蔵は同僚と二人でアイヌ人を雇って樺太北部を探検するが、天候が悪くなり、樺太が島であることを確認できず引き返す。・・林蔵は心残りであったので、二回目は一人でアイヌ人を雇って北部を目指すが、雇ったアイヌ人が途中から怖がって帰ることになり、林蔵はアイヌ人の酋長の家で仕事をしながら時を待つ・・
酋長の話によると、樺太北部は清国人(中国)の影響下にあり、清国領東韃靼へ毎年貢物を上納するため行くことになっていることを知る。・・林蔵は国禁を犯してもその旅の同行することを決め、酋長も同意する。・・旅は過酷を極めるが無事に到着して、清国の役人との面接も果たし、帰りはルートを変えて、樺太北部まで行き、樺太が島であることを確認する。・・
蝦夷に戻った林蔵は、樺太北部の様子と清国領東韃靼の出先機関の様子、生活習慣などを文書と地図にまとめて、幕府に提出。その後、幕府の要請で江戸まで行って説明する。・・その功績が認められ、役人に昇進して幕府から蝦夷地や外国との交渉の相談等を受けるようになる。・・
林蔵は測量技術の未熟さを痛感し、日本全国を測量している伊能忠敬に教えを請い、測量技術をマスターして、蝦夷地で伊能忠敬が測量していない地区の測量を行って、幕府へ提出し、伊能忠敬には写しを渡して地図の完成に貢献する。・・
林蔵は幕府の役人として外国との交渉の相談を受けると共に、幕府の隠密として各地を旅して、その情報を幕府に報告する役目を果たすが、病に倒れ65歳で亡くなる。・・
間宮林蔵の生涯の中で最も大きな出来事は清国領東韃靼までの旅での中で命の危険に何回も会いながら、無事に帰り、当時の樺太北部の様子を報告したことであるが、それを可能にしたのは、間宮林蔵のあくなき好奇心と強い精神力、アイヌ人との生活で学んだ寒冷地に耐える体力ではないかと思われる。
参考のため表紙と地図をスキャンして添付します。写真をクリックすると拡大し2回クリックすると更に拡大します。左上の←をクリックすると戻ります。