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「天地人 ㊦人の巻」(火坂雅志著)を読んで・・・姶良市加治木町

2020-09-30 11:14:24 | 日記

最近は読書すると目が疲れるので、あまり読書しなくなっていましたが、大活字本は目が疲れにくいので9月30日姶良市中央図書館から借りた「天地人 ㊦人の巻」(火坂雅志著)を読み終わったので一部を紹介します。

(あらすじ)・・慶長の大地震の翌日,破損した伏見城に代わり新伏見城を築くことを秀吉が指示する。また地震後の2か月後に明国との講話交渉が決裂し、秀吉は再度唐入り(慶長の役)を決定する。兼続は海の向こうの戦況を気にしながら伏見城の普請を続けている。・・上杉家は越後から会津へ国替えを命ぜられ、兼続は会津若松で石田三成と会い引継ぎを行い、会津での新たな暮らしの陣頭指揮に当たる。・

太閤秀吉の死に伴い、徳川家康と石田三成との対立が起こり、前田利家の死で三成は後ろ盾を失い、蟄居させられる。・・家康が実権を握り、上杉家は謀反の疑いで徳川を中心として遠征軍を迎え撃つことになる。・・家康が上杉討伐に遠征している間に三成は毛利を中心とする西軍を組織して、上杉討伐から引き返してきた東軍と関ヶ原で天下分け目の戦いをするが西軍が敗北する。

兼続は上杉家の執政として家康との交渉に当たり、120万石から30万石に減らされ米澤に移り上杉家は存続することになる。・・兼続は徳川から疑いをもたれないように徳川の家臣の次男を婿に迎え恭順の意を表すと共に、万一の備えも怠らない。・

家康は豊臣秀頼を滅ぼすことを決意して大阪夏の陣では和睦して外堀を埋めたて冬の陣で豊臣家は滅亡する。・・真田幸村「義」を貫き夏の陣では真田丸で活躍し、冬の陣では家康に肉薄するが力尽きて死に至る。・・

兼続の嫡男が病死した後、兼続は養子をとらなかった。それは上杉家の苦しい財政事情が少しでも改善されればとの考えのようでる。・・直江兼続は大坂の陣から4年後に江戸桜田の屋敷で60年の波乱に富んだ生涯を終えた。・・

直江兼続は謙信から「義」の教えを受け継ぎ、上杉家の執政として、上杉家のため誠心誠意努力した武将であった。また真田幸村に「義」の教えを伝えたことが、大阪の陣での活躍に活かされているのではないか思われる。

兼続は「愛」の文字をいれた兜を愛用していたが、「愛」は上杉謙信直伝の、「仁愛の心をもって国を治める」の「愛」であったと考えられている。

表紙と目次などをスキャンして添付します。・・写真をクリックすると拡大し2回クリックすると更に拡大します。左上の←をクリックすると戻ります。

   

 

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