生きるとは、「その場に居切る」事だ。
何度も書いてきた。
私のように、あっちへ行ってみたり、こっちへ戻ったりする生き方ではない。
自分の生き方とは、言い変えれば 「他人との差別化」 だろう。
今の私、何をやってみても、今ひとつ物足りない。
これは、ちょっと違う。
もっと、何かないのか?
俺様の生き方としては、今一・・・・。
それは、逆に、こちらの実力不足でもあるだろう・・・。
人にはそれぞれ容量がある。
いつしか、そう思うようになった。
とは言え、私自身にどれだけの容量があるのか、それが分からない。
確かに自分としては、容量いっぱいに動き、かつ、考えているつもりだ。
しかし、定量に周囲を取り入れた分(取り入れざるを得ない)、当然の結果、
自分自身がはみ出していく。
周囲を気にするあまり、知らず知らずに自分を抑えてしまっている。
そんな気がする。
一個人が、他人を完全に無視して生きていくことは不可能なのかも知れない。
ならば、どこまで、どれだけ周囲を受け入れていくべきか?
家でパソコンに向かっていても、駅前広場のベンチに腰を掛けていても、
常に考えている。
ここではない。
本来、私の生きる場所はここではあり得ない。
私の居場所は、もっと別の場所であるべきだ。
今日もまた、独り・・・彷徨い続ける。
そして、駅前広場のベンチに腰を掛け、ただ、ただ思い続ける。
私の居場所はどこだ・・・?!
何度も書いてきた。
私のように、あっちへ行ってみたり、こっちへ戻ったりする生き方ではない。
自分の生き方とは、言い変えれば 「他人との差別化」 だろう。
今の私、何をやってみても、今ひとつ物足りない。
これは、ちょっと違う。
もっと、何かないのか?
俺様の生き方としては、今一・・・・。
それは、逆に、こちらの実力不足でもあるだろう・・・。
人にはそれぞれ容量がある。
いつしか、そう思うようになった。
とは言え、私自身にどれだけの容量があるのか、それが分からない。
確かに自分としては、容量いっぱいに動き、かつ、考えているつもりだ。
しかし、定量に周囲を取り入れた分(取り入れざるを得ない)、当然の結果、
自分自身がはみ出していく。
周囲を気にするあまり、知らず知らずに自分を抑えてしまっている。
そんな気がする。
一個人が、他人を完全に無視して生きていくことは不可能なのかも知れない。
ならば、どこまで、どれだけ周囲を受け入れていくべきか?
家でパソコンに向かっていても、駅前広場のベンチに腰を掛けていても、
常に考えている。
ここではない。
本来、私の生きる場所はここではあり得ない。
私の居場所は、もっと別の場所であるべきだ。
今日もまた、独り・・・彷徨い続ける。
そして、駅前広場のベンチに腰を掛け、ただ、ただ思い続ける。
私の居場所はどこだ・・・?!