塚本邦雄(つかもとくにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。作家塚本史は長男。
滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業[1]。1941年、呉海軍工廠に徴用されたときに友人の影響で作歌を始める。1943年、「木槿」に入会。1947年、「日本歌人」に入会し前川佐美雄に師事。長らく無所属を貫いていたが、1986年に短歌結社『玲瓏』を創刊、以後主宰をつとめる。
戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー。第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。聖書をこよなく愛読したが、無神論者であったという。
門下には荻原裕幸、江畑實、林和清、魚村晋太郎、尾崎まゆみ、楠見朋彦など。近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。
1959年、『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞受賞。
1987年、『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞受賞。
1989年、『不變律』で第23回迢空賞受賞。
1990年、紫綬褒章を受章。
1992年、『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞。
1993年、『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞。
水葬物語
装飾楽句
日本人霊歌
水銀伝説
緑色研究
感幻楽
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変
透明文法
『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』
(撰著 愛蔵版・冨山房、新書版・冨山房百科文庫35 各1983年)
『現代俳句のパノラマ』(立風書房 夏石番矢・斎藤慎爾・安田安正編)
霹靂(へきれき)と墨書して四肢おとろふる
曼珠沙華かなしみは縦横無盡
さしぐみて翔(た)つ洪水の兜虫
ほととぎす迷宮の扉(と)の開けつぱなし
朝顔や變心の父亂心の母
極道の脛うつくしき二月かな
008年11月29日
俳句九十九折(14)俳人ファイル(6)宮入聖・・・冨田拓也
■俳句九十九折(14)
俳人ファイル Ⅵ 宮入聖 ・・・冨田拓也
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/11/blog-post_29.html
B 短歌も含め塚本邦雄の詩歌における知識の広さについてはいうまでもないところなのですが、塚本邦雄には短歌、俳句についての著作だけでなく現代詩に関する著作までもが存在しました。さらに、古典(和歌や俳諧など)、文学、漢詩、聖書、仏典、川柳、音楽、映画、絵画、書にまでその造詣の深さは及んでいました。私は、幾度この塚本邦雄の博覧強記に絶望させられたかわかりません。
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/11/blog-post_29.html
吻合はす鳩や石階に影かぎろひ 石田波郷
鳩ら鳩舎の奥に嘴あはせをり外の炎天に死のにほひ満ち 塚本邦雄
賑やかな骨牌の裏面のさみしい繪 富澤赤黄男
骨牌の赤き王と侍童は瞠きてうらがへりたり裏の繪昏き 塚本邦雄
むらさきになりゆく墓に詣るのみ 中村草田男
勿忘草わかものの墓標ばかりなり 石田波郷
戦死者ばかり革命の死者一人も無し 七月、艾色の墓群 塚本邦雄
冬天を降り来て鉄の椅子にあり 西東三鬼
紅き林檎高度千米の天に噛む 西東三鬼
高度千米の空より来て卵食ひをり鋼色の飛行士 塚本邦雄
寒の夕焼架線工夫に翼なし 西東三鬼
炎天に架線夫は垂れ神あらぬ空にするどく言葉をかはす 本邦雄
算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼
まづ脛より青年となる少年の眞夏、流水算ひややかに 塚本邦雄
木琴に日が射しをりて敲くなり 林田紀音夫
神いづくにか咳きたまふ否無為の父が湿りし木琴叩く 塚本邦雄
熱の身の露に泛びてただよふや 齋藤空華
熱の中にわれはただよひ沖遠く素裸で螢烏賊獲る漁夫ら 塚本邦雄
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり 富澤赤黄男
鶏頭のごときその手を撃ちし刹那わがたましひの夏は死せり 塚本邦雄
瞳に古典紺々とふる牡丹雪 富澤赤黄男
散文の文字や目に零る黒霞いつの日雨の近江に果てむ 塚本邦雄
朝の裸泉のごとし青年立つ 島津亮
男は遠き泉のごとし瑠璃懸巣あはれ図鑑にかがやきみてり 塚本邦雄
春蘭や男は不意に遺さるる 飯島晴子
春蘭のみどりのにごり男とは或る日突然ひとりになる 塚本邦雄
B あと、本邦雄にとっては本歌取りだけでなく、俳句における「取り合わせ」の手法もその短歌作品には大きく取り込まれていました。
A そうですね。塚本邦雄には〈私は歌人として、実におびただしい俳句からの恩恵を受けた。〉という言葉があります。また、『夕暮の諧調』所収の「きみはきのふ 現代俳句試論」という評論には〈俳句は、私にとつて、まかりまちがへば、終生の伴侶に選んでゐたかも知れぬ、愛する詩型の一つである。愛は惜しみなく短歌に奪われたが、俳句からは奪つてきたし、こののちにも奪ふだらう。〉という記述もあります。
滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業[1]。1941年、呉海軍工廠に徴用されたときに友人の影響で作歌を始める。1943年、「木槿」に入会。1947年、「日本歌人」に入会し前川佐美雄に師事。長らく無所属を貫いていたが、1986年に短歌結社『玲瓏』を創刊、以後主宰をつとめる。
戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー。第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。聖書をこよなく愛読したが、無神論者であったという。
門下には荻原裕幸、江畑實、林和清、魚村晋太郎、尾崎まゆみ、楠見朋彦など。近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。
1959年、『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞受賞。
1987年、『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞受賞。
1989年、『不變律』で第23回迢空賞受賞。
1990年、紫綬褒章を受章。
1992年、『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞。
1993年、『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞。
水葬物語
装飾楽句
日本人霊歌
水銀伝説
緑色研究
感幻楽
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変
透明文法
『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』
(撰著 愛蔵版・冨山房、新書版・冨山房百科文庫35 各1983年)
『現代俳句のパノラマ』(立風書房 夏石番矢・斎藤慎爾・安田安正編)
霹靂(へきれき)と墨書して四肢おとろふる
曼珠沙華かなしみは縦横無盡
さしぐみて翔(た)つ洪水の兜虫
ほととぎす迷宮の扉(と)の開けつぱなし
朝顔や變心の父亂心の母
極道の脛うつくしき二月かな
008年11月29日
俳句九十九折(14)俳人ファイル(6)宮入聖・・・冨田拓也
■俳句九十九折(14)
俳人ファイル Ⅵ 宮入聖 ・・・冨田拓也
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B 短歌も含め塚本邦雄の詩歌における知識の広さについてはいうまでもないところなのですが、塚本邦雄には短歌、俳句についての著作だけでなく現代詩に関する著作までもが存在しました。さらに、古典(和歌や俳諧など)、文学、漢詩、聖書、仏典、川柳、音楽、映画、絵画、書にまでその造詣の深さは及んでいました。私は、幾度この塚本邦雄の博覧強記に絶望させられたかわかりません。
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/11/blog-post_29.html
吻合はす鳩や石階に影かぎろひ 石田波郷
鳩ら鳩舎の奥に嘴あはせをり外の炎天に死のにほひ満ち 塚本邦雄
賑やかな骨牌の裏面のさみしい繪 富澤赤黄男
骨牌の赤き王と侍童は瞠きてうらがへりたり裏の繪昏き 塚本邦雄
むらさきになりゆく墓に詣るのみ 中村草田男
勿忘草わかものの墓標ばかりなり 石田波郷
戦死者ばかり革命の死者一人も無し 七月、艾色の墓群 塚本邦雄
冬天を降り来て鉄の椅子にあり 西東三鬼
紅き林檎高度千米の天に噛む 西東三鬼
高度千米の空より来て卵食ひをり鋼色の飛行士 塚本邦雄
寒の夕焼架線工夫に翼なし 西東三鬼
炎天に架線夫は垂れ神あらぬ空にするどく言葉をかはす 本邦雄
算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼
まづ脛より青年となる少年の眞夏、流水算ひややかに 塚本邦雄
木琴に日が射しをりて敲くなり 林田紀音夫
神いづくにか咳きたまふ否無為の父が湿りし木琴叩く 塚本邦雄
熱の身の露に泛びてただよふや 齋藤空華
熱の中にわれはただよひ沖遠く素裸で螢烏賊獲る漁夫ら 塚本邦雄
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり 富澤赤黄男
鶏頭のごときその手を撃ちし刹那わがたましひの夏は死せり 塚本邦雄
瞳に古典紺々とふる牡丹雪 富澤赤黄男
散文の文字や目に零る黒霞いつの日雨の近江に果てむ 塚本邦雄
朝の裸泉のごとし青年立つ 島津亮
男は遠き泉のごとし瑠璃懸巣あはれ図鑑にかがやきみてり 塚本邦雄
春蘭や男は不意に遺さるる 飯島晴子
春蘭のみどりのにごり男とは或る日突然ひとりになる 塚本邦雄
B あと、本邦雄にとっては本歌取りだけでなく、俳句における「取り合わせ」の手法もその短歌作品には大きく取り込まれていました。
A そうですね。塚本邦雄には〈私は歌人として、実におびただしい俳句からの恩恵を受けた。〉という言葉があります。また、『夕暮の諧調』所収の「きみはきのふ 現代俳句試論」という評論には〈俳句は、私にとつて、まかりまちがへば、終生の伴侶に選んでゐたかも知れぬ、愛する詩型の一つである。愛は惜しみなく短歌に奪われたが、俳句からは奪つてきたし、こののちにも奪ふだらう。〉という記述もあります。