草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

南京虐殺を信じようとする日本人いるんだ。

2008-03-04 22:45:58 | Weblog
質問状
三河実行委員会 実行委員 天野義裕殿

「南京虐殺事件」を、あったことを前提にする演劇会を開催する貴殿に対し、以下の質問をいたします。
なぜに蒋介石、毛沢東は生前一度も南京事件に触れなかったのか
 南京入場に際して中国政府は三十万以上の虐殺があったと主張しておりますが、当時の安全区において確保されていたのは二十万人。後には二十五万人まで増えてきているとされ、また安全区国際委員会のラーべ委員長は公文書第一号(十二月十四日付け)にて「貴軍(日本軍)の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げる」と書いている。そこにおいて三十万の虐殺があったとはとても考えられない。その安全区に逃げ込んだ一万に近き兵士が便衣兵であるがその摘発で三・四千名の処罰をしたと判断されるが、戦時のこと、充分な調査がされたか否かは不明なるも、戦時法に違反するものではない。
 中国軍司令官の逃走後の無秩序な同士討ちの結果多くの中国人兵士の死者が出たのもまた戦闘行為にて軍人が多く亡くなったなどの悲惨な結果には胸迫るものがあります。しかし日本軍が虐殺をしたとの指摘は決して当たらない。
 蒋介石毛沢東とも生前は南京虐殺に一度も触れていず、また南京入場後九年もたって突然東京裁判にて事件がだされた感がある。さきの衆院内閣委員会で質問に立った戸井田とおる議員による南京事件質問にて、きわめて重要な事実が明らかにされた。それは国際連盟第十八回総会(昭和十二年八月十三日から十月六日まで)にて南京広東に対する《日本の空爆を非難する案》を中国が提訴し、委員会総会で採決されている。翌十三年一月二十六日から第百回期国際連盟理事会が開かれ「支那を支援する決議案」が採択されていた。しかし、にもかかわらず、支那代表顧維きんによる南京事件提訴さえなされなかったとの説があったのでしたが、今回の資料開示の結果わかったこと、それは実際には、中国代表はこのとき国連の行動要請をしていた事実。しかるにあまりの荒唐無稽のプロパガンダに理事会ですら、さすがに一笑に付し無視した事実であります。
 演説の中で中国は「南京における旧日本兵による無差別殺戮女性への暴行市民殺害がなされ米国教授の報告や書簡にもとづく数として二万人が虐殺され数千の女性が暴行された」と主張。それに対して同理事会は、申し入れを拒絶。当時、日本の軍事行動を「非難決議」として採択した親中的理事会すら、中国が訴える「南京虐殺」を、政治宣伝と見抜き、却下。対日非難決議にもその文言は入らなかった。これらの事実に基づき考えられるのは「南京虐殺論」は中国の政治的プロパガンダに過ぎないと考えるべきではないのではないでしょうか。それを反日に傾いていた国際連盟ですら一笑に付した。なぜなら南京には当時何百人もの全世界からのマスコミが入っており、虐殺に当たる事実はないからと判断するのが妥当ではないでしょうか。もし万を越す虐殺がほんとになされたとしたならば、蒋介石が言わぬわけはないと思うが如何。見解を求めます。
何百人のマスコミが入っていたのに写真一つない矛盾をどう解釈するのですか。
 フィルム撮影をしたマギー牧師も東京裁判にて残虐行為を証言していますが「私が見たのは一人だけ」と証言。揚子江岸の下関で死体を見たとあるが何万ではなく三百から五百と言っています。それがいかなる理由でなくなったか(戦闘での死か他の理由か)。死体があったからといってまさか虐殺と言えるわけもありますまい。
 貴殿発行のチラシ中の「告白」文中の殺された中国人の「生首」を己の誉れの為にもって笑っている軍人の写真を中国で見せられた旨の文がありますが、証拠とされた写真のほとんど全てが中国政府によって作られたものとの実証がされているのをご存知でしょうか。この渡辺さんという方も見破ることができなかったと考えられます。専門的な知識なく罪悪感で見ていくと誰もが驚きのなかで冷静なる眼を失わされますので。それだけ中国の戦略に乗せられ易いものです。東中野氏の詳細な写真分析をご覧になりましたか。それでも中国の作為を読み取られないとしたらその理由をお示しください。
 とりあえずの疑問点に誠意あるご回答を必ず約束通り開催期日までにお示しください。
                               
再質問状
 十月十一日になって電話にてご回答くださいましたが、内容に付き、全く承知できませんので改めて再度質問をいたします。
 電話にての回答の件は一については「中国は内乱状態であり、国内統一の混乱の中で忙しく対日批判まで手が回らなかったと思われる」とのご見解でありました。三十万を越す虐殺の主張をしている現中国政府が政権奪取した後も毛沢東が南京に触れず、蒋介石も触れない理由にはならないと電話にて申し上げたとおりです。とても納得できる説明となっておりません。再度納得できる研究成果をお示しください。荒唐無稽な虐殺論はまだ構築できず、日本軍の不法行為がなかったことを責任者として当然知っていたからと判断すべきではないのですか。
第二項について。マギー氏のフイルムを見て死体がのっていた。虐殺を記録にとどめる資料も発見されている。証言者の話もある。よって虐殺は会ったと私は考える。との電話回答。しかし残念ながらマギー氏のフイルムには三十九の光景を映し出しながら、虐殺を示すものは何も映し出されていません。病院の様子や数体の死体の情景もありますが、死体があるから虐殺だと言う貴殿の論はまったく理論になりません。戦闘にてなくなった兵士が虐殺であるといえるはずもないでしょう。そもそもマギー師は東京裁判にフイルムを証拠に提出していませんね。これを最初に虐殺論に利用したのが国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者でしたね。字幕説明を加えて作り変え加工編修しなおしたのですから貴殿が見られてその雰囲気に呑まれたのは残念ですが、ふ通に見てみれば、証拠になりえないのは明らかでしょう。裁判での反対尋問で、永く南京にて日本の不法行為に目を光らせていたマギー師が実際目にした殺害は一人だけと証言。中国政府の言う数十万の虐殺の主張はどうなのでしょう。ティンバーリは国民党宣伝部が工作員として使っていた人物であることはご存知でしょう。べイツ師もフィッチ師もティンバーリ師とともに「宣伝本」を書いた人ですね。ドイツ大使館の公文書綴りが発見されたといわれるが、そのジョン・ラーべなるジーメンス社南京支社長の「三万の死体」説も伝聞記事であり、南京特務機関丸山進氏によれば埋葬遺体は一万四・五千。戦闘での死体であるという。貴殿の言われる虐殺証拠とはなりえないものです。電話にてご説明したとおり他誌掲載写真も東中野教授はじめ、研究者に
虐殺があったと主張されるならば、納得できる根拠を提示すべきです。
 「虐殺はむごたらしい殺し方でもある。数もそうである。千人以上は虐待死させている」との見解をとり、虐殺があったといわれましたが、それは推測であり証拠ではありません。マギー師証言やフィルムを根拠にしてみえましたが、一人の殺害現場をしか見ていなかったといっており、その殺害理由も明らかでない。安全地帯に逃げ込んだ逃亡兵は数千から万とされる。彼らは「捕虜」でもなければ市民でもない。便衣兵であり、戦闘員の資格四条件を悉く踏みにじっているため、いかなる権利も有しない不法戦闘員。とらえられても国際法上の保護は得られないのは自明。捕虜になりえないのである。東京裁判においてすら捕虜処刑を明言する欧米人は誰もいなかった。日本が残敵掃蕩の際の処刑について世界の誰も非難していない。不法でも残虐行為でもない。銃殺等が残虐な殺害方法だと言う意味で虐殺と言われるなら、論外であり、犯罪者の死刑廃止論でも論じられておられればよい。南京事件とは無関係である。     
 中国政府は三十万を越す人間を日本軍が殺したとキャンペーンを張っております。その人数には意図的重大な過ちがあることを貴会もお認めになっていると判断してよろしいでしょうか。中国のためにする論を批判する立場に立たれると解釈してよいのでしょうか。そうでないといわれるのならば虐殺があったと主張されるその規模についても、さらにその推測を裏付ける根拠を示さなければ無責任極まりなきことです。
 一週間以内に文書でご回答ください。

なおとりあえず南京事件について私の見解を申し述べます。(再度提出前回同文)
 南京事件の発端は第二次上海事件。十二年七月七日には盧溝橋事件が起こり、これが当時北支といわれた中国北部に拡大し、さらに中部に飛び火し、上海での戦闘に発展。渦中を根拠地にする蒋介石としては北まで直轄軍を遠征するのは不利であり上海に派兵。五年前の第一次上海事件後、日中間で停戦協定が結ばれ、非武装地帯が造られたが、この地に中国はドイツ人の軍事顧問団をいれトーチカ陣地を築いた。ここには日本は海軍の陸戦隊が数千程度しかいない。中国兵ははじめ二十万後八十万。そして八月十三日日本の陸戦隊の本部に攻撃がかけられたのだった。わが国は在留邦人を保護するため応急動員をかけ第十一師団と第三師団の二個師団を八月末から上海に送り込んだ。しかし上海の防備は堅固にして被害続出。第九第百一第十三師団の増派となる。逐次投入の不利な戦略により被害続出。十一月になって十六師団を投入。背後を突き日本から新たに杭州湾に三個師団を投入。敵の退路を断った。結果中国軍は総崩れとなり、首都ナンキンに向けて退却を始めた。日本軍は当初南京を攻める予定はなかったのでしたが、中途半端な停戦では禍根を残す。決定的な勝利を収むべしとの国内世論に押されて最後には参謀本部も押し切られて南京攻略が決定される。予定された行動でないため弾薬はかろうじてあっても食料がない。糧を現地で調達する。略奪するなど悲しむべき状態となる。方や蒋介石軍は南京包囲を恐れ南京放棄論と抗戦論が戦わされたが、唐生智の抗戦論を採用。彼を司令長官として残し、蒋介石は十二月7日に南京脱出。南京は攻防戦の目標地となった。逃げられない人たちは城内に残る。難民も流れ込んでくる。外国宣教師たちの手により、安全区が設定された。南京市長馬超瞬は残留市民二十万人に対し国際安全区に移住すベしと命じた。日本軍は認めなかったものの、これを尊重し、攻撃一つしなかった。このことはラーベ委員長より感謝の書簡が出されていることでも明白である。南京市民は安全が確保されたのである。十二月十日頃から本格的な南京を巡る攻防戦が始まったのであった。十二月12日には激戦の末、日本がほぼ南京城を包囲できた。その際中国側は南京郊外に火をつけ農家などを燃やし撤退した地域を徹底して破壊した。この焦土作戦遂行は日本軍でなく中国軍であることに注意したい。
 司令官の唐生智は十二日夕方には真っ先かけて長江をわたり逃げてしまったので指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けた。逃げる味方兵を城門の上から機関銃で撃つと言う大変な同士討ちが起きた。は江門付近は死体の山だったと言う。これを「大虐殺」の証拠とされてしまっているが、その批判は全くあたらない。
 揚子江を筏で逃げる中国兵は途中筏がばらばらにない溺死。逃げ遅れた何千人の兵は安全区に逃げ込み便衣兵となる。国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)と認定されてつかまる。本来はこの便衣兵は安全区の管理者が武装解除させ、戦争が終わるまで置いておくか、捕虜として引渡しの義務があるのであるが、人数や能力からそれができないのみならず、敗残兵をかくまりたい、保護したいとの思いがある。日本との間にトラブルが起こり、反目が起こり、日本軍に不利な報告をすることとなる。結果敗残兵の掃討に強引さが出て、かなり杜撰な餞別となってしまったと考えられる。兵と誤認されたケースも出たであろう。便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと推測される。しかしこれはあくまで戦闘行為。虐殺には当たらない。手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし反攻のうわさで持ちきりであったため、戦闘目的であると解釈されても致し方なきこと。公開にて処刑したことが「虐殺」の宣伝文句に利用されてしまうのである。捕虜として扱うにはハーグ条約その他で一定の資格があるとされている。投降し、かつ受け入れ側が捕虜と認め捕虜収容所に連行して初めて捕虜の扱いを受ける。
 逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに逃げ遅れ幕府山の山麓に吹き溜まりのように集まっていた。捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。しかし一万四千七百七十七人の武装した敗残兵を捕虜とできるわけがない。自軍より十倍ほど多い捕虜を扱えるわけがない。殺戮すべきを、偲びず、十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に逃がそうと連行する途中捕虜暴動が起こりそのうちの相当数を殺してしまったのであったが、明らかに故意の殺戮でなく突発事故である。これらはしかし虐殺では断じてない。戦闘行為である。
 南京市内の不法行為はほとんどない。ラーべ委員会の詳細な記録によれば、南京市における殺害事件は四十九件。暴行事件四十四件となっておりそのうち一件は明らかに合法とされている。
 無論日本も勝つか負けるかの決死の戦闘の真っ最中のこと。犠牲者も数万を数える悲惨なものであった。しかし断じて何万もの不法虐殺をしたなどとあらぬキャンペーンを許してはならないのは明らかである。
 以上の考察の結果、南京での不法行為はきわめて少なく、両国にとって不幸な歴史ではあるが虐殺などと非難されるものではなく通常の戦闘行動の結果とみなされるものである。ちなみに入場に関わられた方のご意見は軍の名誉にかけて虐殺とされる好意はなかったとされるものであります。
 貴殿が真面目に政治的意図を離れて実証的に南京を語る方であってほしいと願うものであります。無責任な発言にならなきことを強くねがいたい。間違っても中国政府の戦略に毒されなきことを強く要望します。日本人の感性をお持ちいただきたいとは申しません。しかし貴団体は戦前にて事実追求の必要性を痛感したならば、今こそ客観的に資料を検証し、その上で判断されないと戦前の間違いを繰り返すことになることを老婆心ながらご忠告申し上げます。

参考に
松井石根(いわね)
    陸軍大将・上海派遣軍司令官
 松井石根は日露戦争に中隊長で参戦した後、陸軍大学に進み主席で卒業。通例では欧米駐在武官になるところだが、松井は根っからの日中友好論者で、自ら中国を希望した。
 軍内部の「下克上」の風潮が強まる中、軍機粛清を唱え、軍内部の派閥抗争や、軍人の政治関与を戒める松井は、一世代下の青年将校からは古臭いおやじとして嫌われ、敬遠された。派閥抗争の激化は遂に永田少将刺殺事件まで引き起こし、松井は軍長老として責任を取って一旦現役を退く。
 だが支那事変の勃発で松井は現役に戻され、上海派遣軍司令官となり上海・南京を陥落させた。南京戦の戦死者慰霊祭では日中の戦死者を共に慰霊しようと提言したが、実現できなかった。そこで帰国後、中日の戦死者を共に祀る「興亜観音」を建立。近くに庵を建てて住み、毎朝観音経をあげて菩提を弔い、隠棲生活を続けた。
 そんな老将軍が「A級戦犯」として逮捕された。その罪状の名は「南京暴虐事件」俗に言う「南京大虐殺」である。
 現在中国は犠牲者数を三十万人と主張するが、日本でこの数字を信じている人はまずいない。三十万人といえば原爆二個分である。しかも当時の南京の人口は二十万人だったのだ。
 では、実情はどうだったのか。真相に迫るには東京裁判でどのような立証がされたか検証すればよい。出廷した証人九名、宣誓供述書や陳述書による証言一七名、その他の文書十一通、以上合計三十七の証言・文書が、検察が提出した全証拠である。
ところがこれらの「証拠」は怪しいものばかりである。証言は裏付けの無い伝聞が多数。体験談も、数万規模の虐殺が行われたはずなのに、同一現場からの複数の証言が一組もなく、なぜかほとんどの殺戮事件で、常にたった一人の人間だけが、妙に似たような方法で生き残り、証言している。
 だが東京裁判では証言の真偽に関する検証は一切行われていない。そもそも東京裁判には「偽証罪」がなかった。中世の魔女狩り裁判と同じだったのである。
 検察は冒頭陳述で「組織的・計画的犯行」と主張したが、その証拠は遂に提出できなかった。つまり仮に南京で虐殺があったとしても、それはアウシュビッツや広島・長崎とは全く性格が違う、個人的暴発的反抗にとどまるのである。
 とにかく検察は物的証拠を一点も提出していない。写真一枚すらない。裏図家の取れない証言と、作成者のわからない資料、それが証拠の全てだった。つまり、南京で虐殺があったと確かに立証しうる証拠は何も提示されていないのだ。
 ところが、松井は南京の暴行事件を完全には否定せず、「興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行ったものがあったらしく」と、一部を認めた。ただしそれは何処の占領地でも起こる軍規違反の犯罪のことであり検察が主張する「大虐殺」までは決して認めていなかった.それでも松井が認めた少数の「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の区別はよく伝わらず、反証が弱いと言う印象を与えてしまった。
 判決は弁護側の証拠をほとんど却下し、検察側証拠はほぼ全てを採用し、指揮官の松井に虐殺を止める友好な対策を講じなかった「不作為責任」があるとし、死刑を言い渡した。
 松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する「人道に対する罪」をきせられたとは思っておらず、ただ、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として、僅かな軍規の弛みも許しがたく、痛恨の一大事と認識していたのだ。だがその潔癖さがかえって誤解を生み、「大虐殺」を認めたかのように思われてしまった。
 松井は生涯を日中友好の為に尽くした人物でありその礎石となるべく、従容として死についた。それなのにその御霊が靖国神社に祀られている事を中国が日本攻撃の道具に使うとは、何たる無情、何たる皮肉であろう。

この質問状は共同主催の九条の会にも出したが全く回答なく、だんまりを決め込んだままである。
 岡崎に95歳になられる太田様は南京入場の際部隊を代表して参加された方、「誰がこんな作り話を言っているのかと憤慨して見えますよ.かくしゃくとしてみえます。真面目な研究者なら話を伺うべきでしょうに。ちなみに九条の会の関係者と思われる岡崎市会議員の情宣カーに9条が印刷してありますが、恥ずかしくも9条の条文が間違っているまま。ようは読んでもいないし、覚えてもいないのですね。ばからしくて忠告もしていませんがこんな共産党だからばかにされるんでしょう。情宣カーの周りに活動家が一杯いても誰一人9条を知らない証拠です。もう私が発見して以来半年以上たつのにね。九条改正するんだなあといつか使ってみたくなりますよ、この事実。