ボボ・ステンソンの音楽は言葉にできない。
ということは分かっているけれど、自分の魂が求め続けるボボ・ステンソンの音楽を聴いて感じたことを言葉として書き留めておこうと思う。
ここ数ヶ月、SHIKIORIでの生活の中で宮古島の民謡とボボ・ステンソンの関わった作品をほぼ交互に聞いている。
友人にボボの音楽を聴かせると、「聴きやすい」「きれい」、「キース」みたいという感想の言葉を聞く。
1944年生まれのボボ・ステンソンと1945年生まれのキース・ジャレット、
youtubeも無い時代に違う大陸に住む二人が、どちらかがどちらかの演奏に大きく影響を受けるというのはあまり考えにくい。
チャールズ・ロイドやヤン・ガルバレクなど共通の仲間との演奏をしていることから、二人とも似たものを追い求めていたのかなと想像する。
二人の年表にしてみたらもっと面白いかもしれない。
僕は「聴きやすい」という言葉はボボのピアノからは出てこない。
ボボのCDをかけると一音で意識が全て、そっちに持って行かれるので、
仕事にならなくなる、全然「聴きやすく」ない。
基本的に僕はBGMは嫌いだ、
自分のCDを「BGMにぴったり!」と笑顔で言われて、かなり凹んだ事がある。
最近の世の中にはBGMにぴったりな音楽が増えていて、残念に思う。
ボボの音は年代によって違う、というか常に色んなことに挑戦して、試行錯誤し、考え続けているような印象を受ける。
ソニー・ロリンズと一緒に演奏している映像を観ていると、とてもマイペースな雰囲気な人のように感じる。(この点は、あと約2週間後に確認出来る)
カッコ良い。
僕ら世代のミュージシャンがまだ人生経験もあまりない状態で出している、
「聴きやすい」とは明確に違う。
喩えていえば、(喩えてみようと、もがいてみれば)一人の料理人が丁寧に下ごしらえした食材を何時間も煮込み、灰汁をとり、絶妙なバランスから生み出されるスープの旨味と化学調味料から生まれる旨味との違いのようなものかもしれない。
「音楽はその人のLife History(人生の歴史)であるべきだ」という知人の作曲家の言葉を思い出す。
人それぞれの人生があるように、
それぞれ一生懸命に生きている人生に良いも悪いもないように、本物の音楽には良いも悪いもない。
ボボ・ステンソンのピアノを聴いていると、
人生の価値、人が生きることの価値を証明しているように思う。
2015年8月24日(月)
松永誠剛 台風を待つ、古民家SHIKIORIにて
BGM・・・・あり得ない。
車を運転中に「Bobo」の音楽を聴いていると、目的地がどこだったのか?一瞬わからなくなり、同時に道もまちがえ、通り過ぎてしまうし・・その曲が終わらないと、車から降りる事ができません。
音楽は別の時間軸、というか次元を生み出してくれますね。
ボボ・ステンソン、とってもマイペースな人でした。