古山菖蒲池【市場寺】は、国の宝がいっぱい

2020-06-30 01:00:47 | つれづれ思うまま
「凄くいい仏像がたくさんあるよ、見に来る??」との嬉しいお誘い、
何を拒むことがあろうか…喜んで伺ったのは、2020年5月25日のこと。
古山地区は、ほんと宝の山だなぁ…

勇んで行ったものの、難しいんです、仏様の撮影は…しかも「旧国宝」ですよ、お相手は。
ワタシよりはるかに撮影の上手い知人を連れ再度伺うことにしました。(再訪問日:6/27)

 正面から

阿弥陀如来様は「※定印」されています

(※阿弥陀如来が瞑想している時の印相のことを言うそうです)
穏やかな仏様です…

 「榊 莫山書」

「四天王」の面々
※生前の釈迦の教えを聞いていた四天王は、釈迦が亡くなった後に仏法を守護するように託された精鋭の用心棒
 
阿弥陀如来様を見守る四天王たち(本来の並び順です、仏様に向かって右が「持国天」、左が「増長天」)


増長天の後ろは「広目天」
(四天王の中で唯一武器を持っていません! 武器を持っていないがゆえのこのやさしい指の動き、何とも言えません)

持国天の後ろは「多聞天」
 
ざっと「お宝」☟を書けば、こんな感じですが、なかなかの見ごたえある作品ばかりなんです。
≪廃長福寺の遺像といわれる平安後期作の仏像を安置(⇒本堂ではなく、コンクリート製の重文収蔵庫)
木造阿弥陀如来坐像」と「木造四天王立像」は国指定重要文化財、
石造五輪塔」は伊賀市指定文化財≫です。

市場寺を訪問すると、本堂が二つあるように見えますが、
これは、重要文化財の木造阿弥陀如来坐像と木造四天王立像を安置するための※収蔵庫で、防犯設備はバッチリ!!
 ※昭和28年建築

 「重文仏像説明書」

芭蕉とその弟子の句碑
 

もう一つ、公民館と共用の建物(いわゆる「市場寺・本堂」)があります。
重要文化財の仏像は、普段は公開されていないのでお世話役の方に依頼する方法がベスト
拝観料、もちろん必要。
今回、この仏像を見せていただくチャンスをくれた友人と地区の世話役の方々に感謝です

せっかくなので、もう少しアップで見ていただきたい、、、
 阿弥陀如来坐像(平安後期・行基作)

市場寺の四天王さんたちは、コワモテ系の顔で目線は下向き、なので迫力重文違う十分!
 

  多聞天

 
増長天の法衣の模様、獅子噛みといわれる装飾、木目もうっすら見えます…


広目天とその邪鬼

ワタシは鬼町の人間なので「四天王の怖さ」は十分知っているつもり
(鬼行列を見に来た子どもたちが先ず泣くのは「四天王」で泣きますから(笑))
「上野天神祭」の四天王組とその他  ちょっとおまけ写真でした…

大人が感じるのは、怖さより威厳でしょうか…
ここでこの仏像を見た人たちの感想を読んでいると、「奈良の南都七大寺で安置されていても、誰も違和感を感じないすばらしさ」と評する方もいらっしゃいます。
これら市場寺四天王像の作者は、あの有名な【定朝】と言われています。

参考までに
≪四天王の見分け方としては、いずれも甲胄を身に付け武装していて、悪の象徴である邪鬼を踏みつけて立っています。
手にするものは持国天と増長天は武器、広目天は巻物と筆、多聞天は宝塔を持つ場合がほとんどです。
四尊は向かって右手前から時計回りに持国天、増長天、広目天、多聞天という順番で安置されることが基本
(持・増・広・多=ジゾウコウタと覚えるのがベターかも)≫とのこと。

見どころいっぱいの「市場寺」でした、、、


平成7年の過激台風により倒された杉の木の根元に、新しい木が育っています、、、

最後、見送ってくれたのは この子
 
人懐っこい子でした

本日(6/30)二度目の投稿
まだまだ伝えきれていないところも多く、目覚めてから気になること多々
以前5/25に伺った時のことを写真で少々ご紹介
「重文収蔵庫」の隣にあるのが「安養山・市場寺」の本堂になります。
  

屋根には「龍虎瓦」 

地区の公民館との併用ですが、驚くなかれこのお堂の中にも立派な仏様たち

「薬師三尊・薬師如来と日光月光」

 「不動明王」

 「文殊菩薩」

 「地蔵菩薩」

 「役行者」

すごいでしょ、小さいながらも地域の人たちに敬れつつ残っている仏様たちの数々です。

外に出れば(先にも書いた)台風で折れた大杉の直径がわかる…この時はまだ紫陽花は咲いていなかったのです(笑)。


最後に、「安養山・市場寺」の説明書です。

一部読みづらいところがあるかもしれませんので、
「市場寺の由来」を転書しておきます。
≪当寺の創建年代は定かではないが、古く鎌倉期にさかのぼるとおもわれる。「伊水温故」(1687)によれば「市場寺長福寺」
と配され、三国地誌では「安養山市場寺」となっている。これは現在地の東300mのところにあった長福寺(鎌倉期の
布目瓦出土)が天正の兵乱に焼失したので、焼失をまぬがれた仏像を移し、長福寺所在の地名をとって市場寺と名付けたと
想定される。旧寺址には市場寺の坊官であった、法橋宥敦道慶の墓石等があり「庵の本」と呼ばれている。
天正の兵乱後建立した長福寺(現在の市場寺)は再び明治9年伊勢暴動(農民一揆)により焼失したので、猪田にあった
大庄屋(森田氏)宅を現在地に移築したのが現在の建物であり、中央に巾1間の中廊下をとり2本の大柱に支えられた
重厚な柱組は一見に値するものである。なお寺宗は真言宗の寺院で、京嵯峨大覚寺派上野愛宕大福寺末(江戸中期)で
あったが現在は豊山派となっている。なお国重文である 阿弥陀如来、四天王は昭和28年収蔵庫が作られ、この中に
収められている。≫




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