恭仁京跡へ行きたいなと書いたのは、2024/7/10のこと。
しかもコスモスの頃がいいかも、なんて勝手に書いてましたが、
和束迄来た勢いで、帰り道に寄ることにし、少しだけ西方面へ。
163号線に出て、ここら辺りを通るたびに大きな案内版が目につきます。
「海住山寺」(カイジュウセンジ)と。
しかも、知人のFBを見ていたら傾斜が半端ないらしく、激急坂に挑む感じなんだろうか。
その勾配のキツさを実感して参りました💦
助手席に乗っていても思わず手を握りしめる感じ、
助手席のワタシはわぁ~素晴らしい眺めだとかなんとか言ってますが、
きっと運転手は必死だったかと(ゴメン、一人騒いで💦)、
こんなところへ行きたいとかなんとか言ってゴメン(口だけだったらなんぼでも言えるわなぁ)…
まぁそんなこんなの激坂の前に、ちょっと気になる看板を見つけたので、そちらを
「ふるさとの用水路大井手(オオイデ)」説明版です。
鎌倉時代中期に灌漑用として造られた水路のようです。
いつぞやの「美旗新田水路」よりなお古い。
古のころから大きな泉川(現木津川)が流れているにもかかわらず、
農業水利に恵まれていなかったこの瓶原(ミカノハラ)郷の生命線となっている水路です。
総延長6,755mとか。
広々と見えるこの田園地帯は、「大井手用水路」のおかげさまだったんですね。
さて、そこからほんの少し先に「海住山寺」の案内がありました。
では挑みます!(道中あまりの厳しさに写真など撮っておりません、あしからず)
「大井手用水路」説明版から約8分、境内横の駐車場に着きました。
【補陀落山 海住山寺】
補陀落山とありますね、そういえばこんな記事を思い出しました。↓
『補陀落』って、過去記事より「南海浄土へ帰らぬ船出」(日経新聞より)
時間も遅かったので今回は下見っぽく、境内のお散歩って感じで…
境内に輝くように建つ「五重塔」。
なんだかこればかり見ていたような、相輪から雲が出てるように見えたり、
不思議な面持ちで、また紅葉も素晴らしく似合うんだろうなぁと。
まだ青もみじですが、これもなかなか素晴らしい景色です。
本堂と山門(雲が…)
山門から額縁のように。
※ご参考に「海住山寺に五色椿とヤマモモ」。
では山を下りますが、道中少しだけ写真が撮れました、
前後に車が来なかったおかげです。
向こうの景色には加茂駅とその近くのマンションであったり、
奈良側の景色がこんな感じで見渡せます。
なかなかの景色でしょ、でも道はヘアピンカーブ付き急勾配でした💦💦
本日(訪問日は2024/8/18)、最後の訪問地。
ここは【国史跡 恭仁京跡】(クニキョウアト/山城国分寺跡舊恭仁京跡とも)
場所を変えると「史跡 山城国分寺跡」の碑と共に「恭仁京大極殿跡」。
広い敷地の中、未完でありながらも大極殿などが建っていたのかと思うと、
またまた歴史ロマンを感じます。
≪平城京の大極殿が解体されて移築されたとされており、
都が去ってからは、国分寺の金堂として二次利用された≫とかで、
なかなかややこしい経緯を辿っている恭仁京跡のようです。
またどうしてもここを訪れたかったもう一つの思い、
それは仲間内で教えてもらった「みかの原」という地名。
仲間内の新聞に投稿してもらったその一部をここで借りることにします。
「『伊賀が源流』が嬉しい!
真宗大谷派の官長だった俳人の大谷句仏(もちろん俳号)の「落ち合うて 川の名変はる 紅葉かな」。
これは伊賀を源流とする木津川が、京都で宇治川、桂川と合流して淀川で落ち合うた際、紅葉同士
お互いに 「お前、どこから来たんや」 「俺、木津川や」 などと話しているような擬人化の名句。
百人一首27番「みかの原 わきて流るる泉川 いつみきとけか 恋しかるらむ」。
この泉川が今の木津川、みかの原は聖武天皇の都があった恭仁京(現京都府木津川市)のこと。
そしてこの作者は中納言兼輔こと藤原兼輔で今年の大河ドラマの主役紫式部のひい爺さん。」
へぇ~そうなんだ、こんなことを教えていただき何がなんでもこの地を訪れたかった。
そんなワタシの思いが叶った記念の日、でもあるわけです。
深緑色の木津川の流れを見るたびにきっと思い出す「みかの原と恭仁京」哉。
京都府立山城郷土資料館では、
京都府ミュージアムフォーラム合同展覧会連携展として
<聖武天皇即位1300年にあたる今年、50年にわたる発掘調査で
聖武天皇の恭仁宮跡がどこまでわかったのかのパネル展示>があるそうです。
但し9/8(日)まで。
ここは、閉館時間(~16:30)が迫っていたので残念ながら訪問せず💦
※ご参考に『未完の都/奈良時代最大のミステリー』
※同じく「時空を感じる恭仁京跡」
※ご参考「『小倉百人一首』あらかるた/【151】みかの原はどこにある」
※同じく『小倉百人一首』あらかるた【61】心は闇にあらねども」【(長岡京/小倉山荘より)
最後に「恭仁京跡」の草むらで
見えるんですよね、こんな小さなセセリチョウが・・・
(完)。
しかもコスモスの頃がいいかも、なんて勝手に書いてましたが、
和束迄来た勢いで、帰り道に寄ることにし、少しだけ西方面へ。
163号線に出て、ここら辺りを通るたびに大きな案内版が目につきます。
「海住山寺」(カイジュウセンジ)と。
しかも、知人のFBを見ていたら傾斜が半端ないらしく、激急坂に挑む感じなんだろうか。
その勾配のキツさを実感して参りました💦
助手席に乗っていても思わず手を握りしめる感じ、
助手席のワタシはわぁ~素晴らしい眺めだとかなんとか言ってますが、
きっと運転手は必死だったかと(ゴメン、一人騒いで💦)、
こんなところへ行きたいとかなんとか言ってゴメン(口だけだったらなんぼでも言えるわなぁ)…
まぁそんなこんなの激坂の前に、ちょっと気になる看板を見つけたので、そちらを
「ふるさとの用水路大井手(オオイデ)」説明版です。
鎌倉時代中期に灌漑用として造られた水路のようです。
いつぞやの「美旗新田水路」よりなお古い。
古のころから大きな泉川(現木津川)が流れているにもかかわらず、
農業水利に恵まれていなかったこの瓶原(ミカノハラ)郷の生命線となっている水路です。
総延長6,755mとか。
広々と見えるこの田園地帯は、「大井手用水路」のおかげさまだったんですね。
さて、そこからほんの少し先に「海住山寺」の案内がありました。
では挑みます!(道中あまりの厳しさに写真など撮っておりません、あしからず)
「大井手用水路」説明版から約8分、境内横の駐車場に着きました。
【補陀落山 海住山寺】
補陀落山とありますね、そういえばこんな記事を思い出しました。↓
『補陀落』って、過去記事より「南海浄土へ帰らぬ船出」(日経新聞より)
時間も遅かったので今回は下見っぽく、境内のお散歩って感じで…
境内に輝くように建つ「五重塔」。
なんだかこればかり見ていたような、相輪から雲が出てるように見えたり、
不思議な面持ちで、また紅葉も素晴らしく似合うんだろうなぁと。
まだ青もみじですが、これもなかなか素晴らしい景色です。
本堂と山門(雲が…)
山門から額縁のように。
※ご参考に「海住山寺に五色椿とヤマモモ」。
では山を下りますが、道中少しだけ写真が撮れました、
前後に車が来なかったおかげです。
向こうの景色には加茂駅とその近くのマンションであったり、
奈良側の景色がこんな感じで見渡せます。
なかなかの景色でしょ、でも道はヘアピンカーブ付き急勾配でした💦💦
本日(訪問日は2024/8/18)、最後の訪問地。
ここは【国史跡 恭仁京跡】(クニキョウアト/山城国分寺跡舊恭仁京跡とも)
場所を変えると「史跡 山城国分寺跡」の碑と共に「恭仁京大極殿跡」。
広い敷地の中、未完でありながらも大極殿などが建っていたのかと思うと、
またまた歴史ロマンを感じます。
≪平城京の大極殿が解体されて移築されたとされており、
都が去ってからは、国分寺の金堂として二次利用された≫とかで、
なかなかややこしい経緯を辿っている恭仁京跡のようです。
またどうしてもここを訪れたかったもう一つの思い、
それは仲間内で教えてもらった「みかの原」という地名。
仲間内の新聞に投稿してもらったその一部をここで借りることにします。
「『伊賀が源流』が嬉しい!
真宗大谷派の官長だった俳人の大谷句仏(もちろん俳号)の「落ち合うて 川の名変はる 紅葉かな」。
これは伊賀を源流とする木津川が、京都で宇治川、桂川と合流して淀川で落ち合うた際、紅葉同士
お互いに 「お前、どこから来たんや」 「俺、木津川や」 などと話しているような擬人化の名句。
百人一首27番「みかの原 わきて流るる泉川 いつみきとけか 恋しかるらむ」。
この泉川が今の木津川、みかの原は聖武天皇の都があった恭仁京(現京都府木津川市)のこと。
そしてこの作者は中納言兼輔こと藤原兼輔で今年の大河ドラマの主役紫式部のひい爺さん。」
へぇ~そうなんだ、こんなことを教えていただき何がなんでもこの地を訪れたかった。
そんなワタシの思いが叶った記念の日、でもあるわけです。
深緑色の木津川の流れを見るたびにきっと思い出す「みかの原と恭仁京」哉。
京都府立山城郷土資料館では、
京都府ミュージアムフォーラム合同展覧会連携展として
<聖武天皇即位1300年にあたる今年、50年にわたる発掘調査で
聖武天皇の恭仁宮跡がどこまでわかったのかのパネル展示>があるそうです。
但し9/8(日)まで。
ここは、閉館時間(~16:30)が迫っていたので残念ながら訪問せず💦
※ご参考に『未完の都/奈良時代最大のミステリー』
※同じく「時空を感じる恭仁京跡」
※ご参考「『小倉百人一首』あらかるた/【151】みかの原はどこにある」
※同じく『小倉百人一首』あらかるた【61】心は闇にあらねども」【(長岡京/小倉山荘より)
最後に「恭仁京跡」の草むらで
見えるんですよね、こんな小さなセセリチョウが・・・
(完)。
記憶と印象に残る「かいじゅうせんじ」の読みは、あの国道163号の、ふりがなを振った看板のお陰ではと思います。
「かいじゅうさんじ」では?なので、山を「せん」と読むようになったのではと思い、由来をネットで調査したところ、
吉野の金峯山寺を「きんぷせんじ」、大山を「だいせん」、中山道を「なかせんどう」と読むのと同様に「せん」は、
音読みの一つの呉音になるそうです。漢音読みの「さん」や、訓読み(やまと言葉)の「やま」は、知られた通りです。
P.S. 爆音がすると思ったら、コンバインでした。これで、お店での品薄や高値が一気に解消。に期待したく思います。
>鉄道唱歌で... への返信
お忙しの様子、毎日どこかでせっせとコンバインが稼働中、良かったなぁ。
でも新米もかなりお高くなっているようで、この暑さにあの仕事をしてくれてるのですから感謝の上乗せは必要かと…
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/9e/e5c211a25e279843a8b7d1dc0aff152b.jpg
確かに、これを見て右折しました✋
そして、
八 京都の道に名を得たる
驛は玉水宇治木幡
佐々木四郎の先陣に
知られし川もわたるなり
九 共仁の都の跡と聞く
加茂を出づれば左には
木津川しろく流れたり
晒せる布の如くにて
一〇 川のあなたにながめゆく
笠置の山は元弘の
宮居の跡と聞くからに
ふるは涙か村雨か
一一 水をはなれて六丈の
高さをわたる鐵の橋
すぐればこゝぞ大河原
河原の岩のけしきよさ
一二 上野は伊賀の都會の地
春はこゝより汽車おりて
影もおぼろの月が瀬に
梅みる人の數おほし
一三 月は姥捨須磨明石
花はみよしの嵐山
天下一つの梅林と
きこえし名所は此山ぞ
一四 伊賀燒いづる佐那具の地
芭蕉うまれし柘植の驛
線路左にわかるれば
迷はぬ道は草津まで
うん、読んでいるだけで情景が浮かんできます。
moni5187様、ご教示ありがとうございます。
本日午前中、酷暑日、案内の下勉強に旧小田小・開化寺・鍵屋の辻・幸坂の坂・崇広堂・明治校舎など仲間と歩いておりました。
汗をかきかき、目に入る汗水の痛いこと、これもボランティア哉、(笑)。よく頑張りました…