緋野晴子の部屋

「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」「青い鳥のロンド」「時鳥たちの宴」のご紹介と、小説書きの独り言を綴っています。

「へヴン」を再考する

2010-02-26 21:28:24 | 文学逍遥
前回の記事を書いた後、どうも釈然としないものが残っていたので、もう一度考えてみた。

考え直してみると、読めば読むほど、作者には始めから終わりまで「虐め」に対してどうしたらいいか? といったような視点は何も無かったような気がする。
だから読者がこの凄まじい虐めを目の当たりにして、僕やコジマ(弱者)は罪悪感をまったく持たない百瀬たち(強者)に対してどうしたらいいのだろう?という思いで読んでいくと、僕の無力さやコジマの宗教的な在り方、百瀬の論理について考え込んでしまうばかりだろう。

そして手術後、斜視だったことについて「僕は忘れるんですか」と言い、初めて見た世界の向こう側(へヴン)の美しさを前にして「その美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった」「しかしそれはただの美しさだった」と言うラストは、非常に腑に落ちないものになると思う。
これらの表現が醸し出すものは、喪失感・無力感・虚しさになってしまっている。だからこのラストは読む者(特に虐めの渦中のある者)には多様な、必ずしもプラスでないメッセージを発することにもなると思う。

作者にとって「虐め」はおそらく単なる素材に過ぎなかったのだ。ここに描かれているのは「善と悪」とは何かとか、「強者と弱者」の対峙する世界についてではない。
作者がほんとうに描こうとしたのは、人間の存在の根源についてだったのだと思う。

僕はやはり最後まで何も分かってはいない。百瀬が正しいのかコジマが正しいのか、大人の言葉に従ったことが良かったのか。だから、目の前に突然開けた涙の出るような美しい世界にも、立っているような気がしなかったのだと思う。世界は、自分がそれをどう考えるかによっても、肉体を手術で変えるといった単純なことだけでも一変してしまう。作者はそうした人間存在の不確かさと、誰と一緒であることもできない人間本来の孤独をラストに描こうとしたように思う。
だから、作品の論理からするとこのラストはこれでいいのだという気がしてきた。

しかし、あれだけの凄まじい虐め場面を見せられて、そういう哲学的テーマとしてのみクールに眺められる読者がどれだけいるだろう? 作者が意図したこととは別に、この作品はやはり「虐め」への現実的メッセージを求められるだろう。そういう読まれ方をされざるを得ないのだ。
なぜなら、この作品が実際に最も強く発しているものは、「人間の存在とは不確かなものだ」ということではなく、「強者の都合に飲み込まれるしかない弱者の悲惨」になってしまっているからだ。そういう意味で、作者の意図したテーマに対して「虐め」という素材は強烈すぎ、またそれをリアルに十二分に表現できすぎたと思う。

私はやはり、どうしても無意識に、私ならこの素材をどう書くか?という視点で読んでしまうようだ。
私がラストに不満を感じたのは、私ならこういう形で終わらせたくないという思いがあったからだろう。
「人間とは・・・なものだ」と開いて見せるだけの小説が不満で、その中に立つ人間のサンプルをこそ描きたいという強い思いがあるからだと思う。

この作品が「人間の存在の不確かさや孤独」を描くことに留まっていることが、私にはやはり物足りなく感じられる。この作品によって、そういうものに初めて気づいたという人にとっては意味のある作品かもしれない。だが、多くの人にとっては大人になるまでの間にどこかですでに気づいていることではないだろうか?
本当に読みたいのはその先のことだ。僕は百瀬の世界観をどう乗り越え、コジマの正しさのしるしとどう距離をとって自身のへヴンに立つのか? 私なら、そこをこそ描こうとするだろう。

 
*「たった一つの抱擁」「読者さんレヴュー」記事もご覧ください。

今年二つめの掘り出しもの・・・川上未映子さんの「へヴン」

2010-02-17 16:18:18 | 文学逍遥
川上未映子の「へヴン」を読み始めて嬉しくなった。近年読んだ小説の中で一番いい。
読み進めながら、そうそう、そうこなくっちゃ。これ、これ、これが小説だ、と思った。
小説のタイプにもDNAがあるとするなら、この小説のDNAは私のものとかなり似ている。
久々に満足感の持てる小説に出会ったと思った。
人物設定も、構成も、展開のしかたも、掘り下げも、描写もテンポも、煩わしい仕掛けや無駄がなく、痒い所に手の届くような気持ちよさだ。

これは単なる学校の虐めの話ではない。強者がいつでも弱者を叩いているこの人間世界の話である。

コジマは、すべてのことには意味がある。弱者の苦しみ悲しみにも意味がある。虐めをする者たちは何も分かっていない。彼らは私の上にしたことを見ることで、自分のしたことの意味(罪)を知らなければならないのだと考える。そして、彼らに従うのではなく、受け入れる。徹底的に受け入れる。
これはキリスト的な在り方だ。このように在れる人間は実際にはまずいない。

一方、苛める側に立つ百瀬は罪悪感など持たない。すべてのことはたまたまで意味など無い。正しいも間違ってるもない。誰でも自分の都合でものを考えて自分に都合よくふるまっているだけ。それがすでに十全に機能しているこの世界のシステムだ、と。
これは一面の真実だ。現状分析としてあながち間違ってはいないと思う。そしてこの論理に立つかぎり、人は苛められないためには強者になるしかないのだ。
しかし、こうしたニヒルに徹することのできる人間も、そうそういるものではない。

しかし、主人公の僕は、二宮のように自分の都合の中に他人を圧倒的に有無を言わさず引きずり込み傷つけるようなことは出来ない、したくない。と言って、コジマが弱さの中に溜めこんでいく強さからは締め出されていくように感じる。どう考えていいか分からず、圧倒的な無力感に陥る。
これが普通の、大多数の人間だと思う。

コジマや百瀬のような両極端に典型化された人間の配置はリアルとは言えないかもしれない。しかし、人間のある時期、思春期のような時期に、そのような極端な在り方に立つことが人にはあるかもしれない。ありそうだと思わせるような筆力がこの作家にはある。次々に展開される虐め場面の描写には迫力(リアリティ)があるし、心理の展開には説得力がある。
このタイプの小説というと、やはり芥川賞作品の「土の中の子供」が思い浮かぶが、あの場合は主人公の内面を必死に表現しようと言葉を尽くしながらも言葉がどこか観念的で表現しきれず、読む側にずしっと伝わり納得させるものがなかった。それに比べると、これは実に言葉の浪費が少なく具体的かつ雄弁だ。
さすがは芥川賞作家だと思わせる。
「乳と卵」の時、始めのほうを読みかけて文の読みにくさに呆れて投げ出したが、この人はこんなふうにも書けるんだと正直感嘆した。「乳と卵」の時点でこの作家の力量を見抜いていたとすると、芥川賞の選考委員もやはりたいしたものだと見直さずにはいられない。

しかし、しかしである。他の多くの小説同様、私にはやっぱり不満が残った。
この終わり方だ。作者のメッセージがどこにあるのか? なぜこんな曖昧な終わり方をするのか?

僕は、ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかったという事実に打ちのめされ涙にくれた後で、虐めが大人たちに露見したことと、斜視を手術で治したこととで、不意にいとも簡単にこれまでいた世界の向こう側に抜け出した。最後まで明かされることはなかったが、この向こう側の世界がタイトルになっているへヴンだと私は思う。コジマはへヴンとは天国のことじゃないと言っていた。ここ以外にないと思われる世界の向こう側に実はある世界のことだと思う。コジマのへヴンは僕のへヴンとは違っていただろう。だが、とにかく、
僕は僕のへヴンを見た。目の前に現れた世界は現れながら何度でも生まれ続けているような、なにもかもが美しい世界だった。この世界で僕は虐めから解放されて生きるだろう。しかし、そこに立ちつくす僕を包むのは深い喪失感・無力感でしかなかった。

作者の考えは現実的には母や医者に近いものではないかと思う。
「そんなことに付きあってやる必要ないから。いい方法を考えよう」
「斜視であれば斜視でない目になってみたいと思うのはべつに悪いことじゃない」
「目なんてただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ」
という彼らの言葉に背中を押されて僕は二宮たちから物理的に離れ、コジマから、君を君たらしめている君の正しさのしるしであり仲間のしるしであると言われた斜視を治し、新しい世界に出る。
だが、そこに僕自身の真の納得が描かれているか? 僕は依然としてどう考えていいかわからないまま、大人の助けによって向こう側へ出てしまったに過ぎないではないか。どうしてそんな無責任な描き方をするのか?
どうして百瀬にあれほど雄弁にしつこく語らせたままにしておくのか? 
百瀬の言うことは当たっている。当たっているが人間の目ざす方向として間違っている。作者はなぜ僕に、それでも人を傷つけるのは悪なのだと最後に言わせなかったのか? 作者自身が百瀬の論理に引きずられて結論を出せずにいるのではないかという印象さえ受ける。実際そうかもしれない。
こいう小説は多い。いろいろ穿るだけ穿り出して曖昧な終わり方をして、結論は読者に丸投げ。

小説にメッセージなど要らないという人もいる。しかし小説というものは作者が明確なメッセージを描いていない場合でも、勝手に何らかのメッセージを発するもののように私は思う。だから、小説のむこうにいる読者を想像し、小説が発するメッセージを意識することは、書く人間に課せられた責務だと思う。
この小説を誰が読むだろう? 虐めの渦中にいない大人が読む場合は、善と悪という命題を考える材料として、これはこれでいいかもしれない。しかし、現在進行中の虐めに関わる青少年に対してこの小説はどんなメッセージを発するだろう?

ここには二つの命題がオーバーラップされている。一つは、「へヴンはあるか」。それについては、虐めに捕らえられて行き場を無くしている弱者に対して「へヴン」はあると明確に答えている。しかも、大人に話すとか、虐めのきっかけになっているものを取り除くといったごく単純なことで、向こう側の世界は開けるのだと。
しかし、ここにもう一つの命題「この世界に善とか悪とか言えるものがあるのか」という百瀬によって提示された命題がある。ここが解決しなければ真に虐めが解決されたとは言えないが、しかしここは未解決のままで終わっている。コジマの在り方はどうなのか? この命題は読者に任されたままだ。
それぞれの命題がそういう終わり方をしているために、この小説は複雑なメッセージを発することになってしまった。
しかも百瀬は雄弁に過ぎたと思うし、僕は百瀬に揺さぶられ過ぎた。だから、虐めの残酷さと僕の苦悩がリアルな描写で繰り返されているところに虐めを否定する作者の気持ちは汲み取れるものの、ひょっとして虐めをしている少年には百瀬の論理は虐めを正当化するメッセージになってしまうこともあるのではないかという危惧を覚える。
文学は、書きたい人間がいて読みたい人間がいて売れればそれでいいといったような、需要と供給の関係で成立するただの読み物であってはならない。文学とは、人間を明日に向かって、たとえ1ミリでも1ミクロンでも押し上げるものでなければならないと私は思う。
この世界はすべて偶然でもともと意味などない。私はある意味それに賛成する。しかし善と悪はある。それは人間が作った人間にとっての意味だ。だから人間にとって悪なことは悪なのだ。人間を害することが悪なのであり、益することが善なのだ。この押さえを外したら人間の世界は崩壊する。百瀬も二ノ宮も実はそういう人間界の意味によって守られているのだ。ひと言でいい。僕に「これが悪でないはずがない!」と強く言わせてほしかった。

ともあれ、読み応えのある小説だったことは確かだ。感情も思考も十分に揺さぶってくれる。あるきっかけで読むことになったものだが、これは掘り出し物だったと言える。
何でもない情景描写にも作者が只者ではないことが窺える。印象に残ったいくつかの描写を挙げておく。

・電車は立ちならぶ家すれすれを走ったり、畑をいくつも横ぎって、できあがったばかりの夏の真んなかをまっすぐにゆくのだった。

・七月の青空は見事に夏を吸収して、僕たちの頭上でぴくりとも動かなかった。

・空ははるか彼方から惜しみなくその青さを人々に降りそそいでいた。

・窓からは色んなものが見えたけれど、・・・そこにある巨大な夏も、僕とおなじようにまだ一歩も動いていないように見えた。

・上空からゆっくりと夜にむかう青さが降りてくるのが目に見えるような夕方だった。

・ゆっくりと時間をかけて色んなものを濡らしてゆく雨の音がした。それは知らない生き物の鳴き声のようにふるえ、暗くひろがる空と街のどこかずっと底のほうからきこえてくるようだった。



二月の光

2010-02-14 20:16:21 | 空蝉
今年は近年には珍しいほど寒い冬だった。立春を過ぎた今もなお、各地から雪や寒波の便りが届く。
それでもオリオン座は西に移動し、北斗七星が姿を現した。雪雲の切れ間から差し込む光はまばゆく、冬枯れた沙羅やハナミズキの枝先には、ちゃんと芽吹いてその時を待っている者たちがいる。
秋に埋めておいたヒアシンスとチューリップの球根もかわいい芽を出した。
風は冷たいが、春はもうすぐだ。

二月。この月は一年のうちで最も微妙な気分になる。
三月生まれだから私の中では冬の終わりが一年の区切りになっていて、だから二月は最後の月ということになるのだが、実際、進級や卒業、受験、部署の移動や転勤などを控えていて、それまでの歩みの締めくくりの時でもあり、新しい一歩に備えて待つ時期でもあった。別れの季節でもあった。
思い出が多くて、振り返るといろんな感情が次々に甦ってきて整理し難い。
新しい春を待つそわそわ感の中で、「まだまだ締めくくれていないの。もうちょっと待って。時よ、もっとゆっくり流れて」と、そんな気持ちにもなる。

きのう、ふっと川上小学校のことを思い出した。
同級生13名、全校生徒56名、二つの学年が一つの教室を使う複式学級で、先生は全校で4.5人(音楽の先生は他校と掛け持ち)という小さな楽しい学校だった。
私が三年生の二月、体育の授業はマラソンだった。学校から山道ばかり走り続けて一軒家のI君の家まで行って戻るのだが、もちろんI君は毎日そこを通って通学していたわけだが、その距離の遠かったこと!
私はマラソンの苦手な子供だった。三月生まれで体も小さかったし、体力的にもひ弱で、食が細いので貧血だったのかもしれない。どうしてもみんなに付いて行けなくてマラソンが嫌でたまらなかった。

ある日、仲良しの K子が「なんだか熱がありそうだから走りたくない」と言った。
私はとっさに「私も。なんだか気持ちが悪くて」と言ってしまった。
M 先生は二人のおでこに手をやって、それから熱を計らせた。K子は微熱があったが、私は当然無かった。私はもう嘘をついたことを後悔していて、先生に何と叱られるだろうか、みんなに嘘つきと言われるだろうかと、ドキドキしていた。
でも M先生は少し訝しげな顔で私を見た後で、もう一度私のおでこに手をやると、「う~ん、これは熱がありそうだ」と微妙な笑顔で言って、二人を残して行ってしまわれた。
みんなが校門の外へ走り去って行く姿を見送りながら、私は激しい後悔で泣きたいような気持ちになった。自分はずるくて決していい子ではないし勇気もないと意識した最初の経験だった。そして、これからはもう、どんなに嫌なことでも二度と嘘をついてサボったりはすまいと決心したのだった。
その日の体育の時間は長くて長くて、みんなを待つ間はマラソンをしている間よりも辛いものだった。
校庭の所々の水溜りに薄く張った氷が、二月の明るい光を反射してキラキラ光っていた。それを惨めな気持ちで眺めていたのを覚えている。

それにしても、先生というものは偉いものだ。
あの時のことを思い返すたびに私は思う。先生はすべてを分かっていらしたのだ。分かっていて、ああされたのだと。先生があの場で私の嘘を暴き叱責されていたら、私はどのような心理になり、その後どのようなことになっただろうか? やはり、あれでよかったのだと思う。先生は私のことをすべてお見通しだったのだ。嘘を暴き、責め立てることが教育ではないと、規則どおりが必ずしも適切なことではないと、私は先生から学んだ。
先生というものは、太陽のように暖かくありがたいものだ。その後の学校生活でも何人もの先生に出会い何度もありがたいものだと思った。社会に出てからも、嫌なこと辛いことは多かったが、どこかにありがたい先輩がいてくれた。そういう人たちに見守られて人として育ってきたことを、幸せだったと思う。

川上小学校はその年を最後に閉校となり、もう少し町の小学校に合併した。M先生も一緒に異動となって、卒業までの四年間ずっと担任をしていただいた。マラソンのたびに、いつの間にか傍に来て「だいじょうぶか?」と声をかけてくださり、山登り遠足のたびに、途中から負ぶったり荷物を持ったりしてくださった。M先生からは他にもたくさんの貴重なことを学んだ。実に良い先生だった。

二月の明るい日差しに、忘れていた遠い日のことを思い出し、先生に会いたくなってしまった。

 
 *「たった一つの抱擁」記事もご覧ください。   

 

小説を読む人間と書く人間

2010-02-01 18:17:58 | 空蝉
「読書離れ」が言われて久しいですが、小説を読むのが大好き! という人たちは、まだけっこう根強くいます。ブログでも読書ブログがたくさんあって、驚くほどたくさん、常に読んでいるといった方たちをお見受けします。また、それほどではなくとも時には小説に手を伸ばすという人はけっこう多く、他の諸々のサブカルチャーに比べてみれば、音楽好きには負けるでしょうし漫画好きにも負けるかもしれませんが、小説好きは実はけっこう多いほうではないのかと思います。

私はこうした読書好きの人たちのことを思う時、この人たちが小説に求めているものは何なのだろう?と考えてしまいます。おそらく書く人間である私が小説に求めているものとは異なったもの、私よりもっとずっと幅広いものを求めているように思われます。
私よりずっとオープンマインドで好奇心が強く、他人の人生からも色々なものを吸収したり味わいを楽しんだりしようとする、あるいは疑似体験をしてみようとする、柔らかい海綿体のような心を持った人たちではなかろうかと思うのです。そしてその心根は概ね健康で共感性に富み、感受性が高く、幾ばくかの傷つき体験も持つ。そういう、心に余裕のある人たちを想像しているのですが、どうでしょう?

同じ「小説」というものに向かっていても、書く人間は、読む人間に似ているようで似ていないと私は思います。
私は自分自身が小説を書いていながら、他人の書いた小説には心酔するということがまず無いのです。
だいたいが、あまり読んではいません。大学の文学部に籍を置いていた都合上いくらかは読んでもみましたが・・・。 読んでみればそれぞれに、よくもまあ勝手勝手な視点で、勝手勝手なことを、勝手勝手な目的で、勝手勝手に表現するものだなあと思い、文学全集に入っているような作品には、概して何かしら心に触れるものや印象に残る部分があったように思います。
でも、次から次へと読んでみたくなるほどに私は他人の小説に惹かれることはありませんでした。
私が読んでみた小説のほとんど全ては、私に不満足な何かを残していました。その何かとは、私という人間の根っこにあって決して抜くことも解決することもできず、ただ持て余していた虚の世界に、光を当ててくれる何かでした。それが残念ながらどこにも見つかりませんでした。

多くの小説は人間や人生の一面を切り取って見せてくれます。でもそれだけでは、どうも私には不満足なのです。人間であることや生きるということが、そうしたものだとか、そういうこともあるとか、感じるだけなら小説より実人生のほうがよほど重いのです。また、自分の経験外のことに関する興味は自分の抱えた現実の前には霞んでしまいます。
私は、そういう人間たちがそういう人生の中でどう在ることができるのか、どんな境涯に置かれても人として命を輝かせて生きる、そういう在り方が無いものかとずっと思っていましたので、そこが描かれたものが読みたかった。けれど、深沢七郎『楢山節考』一冊を除いては、私が満足できるものはありませんでした。特に、非情な現実を撫でるばかりで本当の光の少しも感じられない小説を読むと何か苛々して、書く人間にとっては書く意味があったのでしょうが、私にとっては読む価値も無いと感じられました。
もっと丹念に虱潰しに読書して行けば、あるいは見つかったのかもしれませんが、私にはそこまでの小説読書熱が湧いてきませんでした。

では、そんな私が何故、小説を書くようになったのでしょうか?
私は他人の小説に惚れることはありませんでしたが、「小説」というものにはカツモク(漢字が出せない!)しました。自分の内部世界や、個人と世界との関わりを、こういう形で具現することができるのだということに。そして、いつかきっと機が熟した時には、小説を書くことになるだろうと予感していました。自分の読みたかった小説を私は自分で書くのです。

私は基本的に、他人の小説をどんどん読もうと思うほどには他人に対して関心がないのだと思います。
目が向いている方向はいつも自分。つまりは自己中なわけです。自分の虚の世界を描き、発信することにばかり夢中になっているのです。
そしてこれは私の勝手な憶測に過ぎませんが、書く人間というのは、おおかた私に近い人間であるような気がしています。私にしつこく拘るものがあるように、それぞれ何かに拘っていて、他人の小説なんかたいしていいと思っちゃいません。これはちょっと、かなり、語弊のある言い方で、もちろん他の人の小説に学ぼうとか、優れた所を認めたり、逆に自分の作品の未熟さも心得てはいるわけですが、それは小説としての表現の仕方に関わることであって、・・・自分がいいと思うのはこういう小説、書きたいのはこういう小説・・・ という部分では、頑固に自分であるような気がします。
それが無いと、たぶん書けないでしょう。

そういうことを考えてみるに、私だけではなく、小説を書く人間というのは意外にあまり他人の小説は読まない人間なのかもしれないと思います。あるいは読んだとしても、小説好きの人たちが読む場合とは読み方が違っているのではないでしょうか?
書く人より読む人のほうがずっと多く読み、小説というものの魅力を広く受容し、味わうことに長けているような気がします。そしてこういう、広く読むことを愛する人たちがいてくれるお陰で、いろいろな拘りの小説が細々ながらも生き続けているのかもしれません。

だから何、ということでもありませんが、読書家さんたちのブログを読んでいて、つらつらこんなことを考えてみたわけです。

  
  *「たった一つの抱擁」カテゴリーもご覧ください。