前回の記事を書いた後、どうも釈然としないものが残っていたので、もう一度考えてみた。
考え直してみると、読めば読むほど、作者には始めから終わりまで「虐め」に対してどうしたらいいか? といったような視点は何も無かったような気がする。
だから読者がこの凄まじい虐めを目の当たりにして、僕やコジマ(弱者)は罪悪感をまったく持たない百瀬たち(強者)に対してどうしたらいいのだろう?という思いで読んでいくと、僕の無力さやコジマの宗教的な在り方、百瀬の論理について考え込んでしまうばかりだろう。
そして手術後、斜視だったことについて「僕は忘れるんですか」と言い、初めて見た世界の向こう側(へヴン)の美しさを前にして「その美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった」「しかしそれはただの美しさだった」と言うラストは、非常に腑に落ちないものになると思う。
これらの表現が醸し出すものは、喪失感・無力感・虚しさになってしまっている。だからこのラストは読む者(特に虐めの渦中のある者)には多様な、必ずしもプラスでないメッセージを発することにもなると思う。
作者にとって「虐め」はおそらく単なる素材に過ぎなかったのだ。ここに描かれているのは「善と悪」とは何かとか、「強者と弱者」の対峙する世界についてではない。
作者がほんとうに描こうとしたのは、人間の存在の根源についてだったのだと思う。
僕はやはり最後まで何も分かってはいない。百瀬が正しいのかコジマが正しいのか、大人の言葉に従ったことが良かったのか。だから、目の前に突然開けた涙の出るような美しい世界にも、立っているような気がしなかったのだと思う。世界は、自分がそれをどう考えるかによっても、肉体を手術で変えるといった単純なことだけでも一変してしまう。作者はそうした人間存在の不確かさと、誰と一緒であることもできない人間本来の孤独をラストに描こうとしたように思う。
だから、作品の論理からするとこのラストはこれでいいのだという気がしてきた。
しかし、あれだけの凄まじい虐め場面を見せられて、そういう哲学的テーマとしてのみクールに眺められる読者がどれだけいるだろう? 作者が意図したこととは別に、この作品はやはり「虐め」への現実的メッセージを求められるだろう。そういう読まれ方をされざるを得ないのだ。
なぜなら、この作品が実際に最も強く発しているものは、「人間の存在とは不確かなものだ」ということではなく、「強者の都合に飲み込まれるしかない弱者の悲惨」になってしまっているからだ。そういう意味で、作者の意図したテーマに対して「虐め」という素材は強烈すぎ、またそれをリアルに十二分に表現できすぎたと思う。
私はやはり、どうしても無意識に、私ならこの素材をどう書くか?という視点で読んでしまうようだ。
私がラストに不満を感じたのは、私ならこういう形で終わらせたくないという思いがあったからだろう。
「人間とは・・・なものだ」と開いて見せるだけの小説が不満で、その中に立つ人間のサンプルをこそ描きたいという強い思いがあるからだと思う。
この作品が「人間の存在の不確かさや孤独」を描くことに留まっていることが、私にはやはり物足りなく感じられる。この作品によって、そういうものに初めて気づいたという人にとっては意味のある作品かもしれない。だが、多くの人にとっては大人になるまでの間にどこかですでに気づいていることではないだろうか?
本当に読みたいのはその先のことだ。僕は百瀬の世界観をどう乗り越え、コジマの正しさのしるしとどう距離をとって自身のへヴンに立つのか? 私なら、そこをこそ描こうとするだろう。
*「たった一つの抱擁」「読者さんレヴュー」記事もご覧ください。
考え直してみると、読めば読むほど、作者には始めから終わりまで「虐め」に対してどうしたらいいか? といったような視点は何も無かったような気がする。
だから読者がこの凄まじい虐めを目の当たりにして、僕やコジマ(弱者)は罪悪感をまったく持たない百瀬たち(強者)に対してどうしたらいいのだろう?という思いで読んでいくと、僕の無力さやコジマの宗教的な在り方、百瀬の論理について考え込んでしまうばかりだろう。
そして手術後、斜視だったことについて「僕は忘れるんですか」と言い、初めて見た世界の向こう側(へヴン)の美しさを前にして「その美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった」「しかしそれはただの美しさだった」と言うラストは、非常に腑に落ちないものになると思う。
これらの表現が醸し出すものは、喪失感・無力感・虚しさになってしまっている。だからこのラストは読む者(特に虐めの渦中のある者)には多様な、必ずしもプラスでないメッセージを発することにもなると思う。
作者にとって「虐め」はおそらく単なる素材に過ぎなかったのだ。ここに描かれているのは「善と悪」とは何かとか、「強者と弱者」の対峙する世界についてではない。
作者がほんとうに描こうとしたのは、人間の存在の根源についてだったのだと思う。
僕はやはり最後まで何も分かってはいない。百瀬が正しいのかコジマが正しいのか、大人の言葉に従ったことが良かったのか。だから、目の前に突然開けた涙の出るような美しい世界にも、立っているような気がしなかったのだと思う。世界は、自分がそれをどう考えるかによっても、肉体を手術で変えるといった単純なことだけでも一変してしまう。作者はそうした人間存在の不確かさと、誰と一緒であることもできない人間本来の孤独をラストに描こうとしたように思う。
だから、作品の論理からするとこのラストはこれでいいのだという気がしてきた。
しかし、あれだけの凄まじい虐め場面を見せられて、そういう哲学的テーマとしてのみクールに眺められる読者がどれだけいるだろう? 作者が意図したこととは別に、この作品はやはり「虐め」への現実的メッセージを求められるだろう。そういう読まれ方をされざるを得ないのだ。
なぜなら、この作品が実際に最も強く発しているものは、「人間の存在とは不確かなものだ」ということではなく、「強者の都合に飲み込まれるしかない弱者の悲惨」になってしまっているからだ。そういう意味で、作者の意図したテーマに対して「虐め」という素材は強烈すぎ、またそれをリアルに十二分に表現できすぎたと思う。
私はやはり、どうしても無意識に、私ならこの素材をどう書くか?という視点で読んでしまうようだ。
私がラストに不満を感じたのは、私ならこういう形で終わらせたくないという思いがあったからだろう。
「人間とは・・・なものだ」と開いて見せるだけの小説が不満で、その中に立つ人間のサンプルをこそ描きたいという強い思いがあるからだと思う。
この作品が「人間の存在の不確かさや孤独」を描くことに留まっていることが、私にはやはり物足りなく感じられる。この作品によって、そういうものに初めて気づいたという人にとっては意味のある作品かもしれない。だが、多くの人にとっては大人になるまでの間にどこかですでに気づいていることではないだろうか?
本当に読みたいのはその先のことだ。僕は百瀬の世界観をどう乗り越え、コジマの正しさのしるしとどう距離をとって自身のへヴンに立つのか? 私なら、そこをこそ描こうとするだろう。
*「たった一つの抱擁」「読者さんレヴュー」記事もご覧ください。