緋野晴子の部屋

「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」「青い鳥のロンド」「時鳥たちの宴」のご紹介と、小説書きの独り言を綴っています。

どうやら復活

2014-10-23 11:33:38 | 空蝉
先週の水曜日から病気をしていました。

子育ての間は子どもが病気になるたびに、よくもらい病気をしましたが、夫婦ふたり生活に

なってからは全くと言っていいほど健康でした。久しぶりに病んでみると・・・ああ、きつ

い。これが病気だったのね~、という感じです。



風邪のウイルスがお腹に入ったのか、ノロウイルスというものだったのか、何が原因かは分か

りません。だって、もうフラフラで、とても病院なんかに行ける状態じゃなかったんですも

の。それに、行ったとしても、診断はつくかもしれませんが、処方はビオフェルミンくらいの

ものでしょう。それなら家にあります。

脱水しないようポカリスエットで水分をとり、腸内のウイルスを流し出して、梅のエキスで殺

菌し、善玉菌(ビオフェルミン)を投入する。そして眠って体力の消耗を防ぎ、ひたすら耐え

る。それしかありません。

1日めは絶食で、2日めからお粥と牛乳少し、3日めからはそこに野菜ジュースが加わりまし

たが、3日間ほとんど水様のものばかりで、まともに立って歩けないほど体がへしょへしょに

なってしまいました。おまけに、初めてのことですけど、目まで一気に(一時的現象?)悪く

なり、テレビ画面が霞むのを見て驚きました。



人間って、ほんの三日でも食べなければ、一気に死に近づくんですね。体は食べ物でできてい

るんですね。そんな当たり前のことに改めて気づいて、しみじみ感じるところがありました。

戦争中、食べ物のないジャングルを下痢に苦しみながら彷徨った兵士たちのことが、感覚とし

てやっといくらか理解できたような気がしました。



きょうで8日め、やや栄養不足状態ですが、やっと復活宣言です。美味しいものをいっぱい食

べて、これから順調に太る予定。

健康って、ほんと、ありがたいものですね。 皆様もお体を大切に。

『移人称小説論』 買ってしまいました

2014-10-10 10:39:00 | 千里の道
しばらく前のツイッターで、「新潮」10月号に 『今日の純粋小説』 と題した 渡部直己さんの移人称小説論が

載っていることを知りました。 内容はもちろん読んでみなければ分かりませんが、ずいぶん話題になっている

優れもののようです。


『移人称小説』 という言葉を目にしたとたんに、私はぱっと反応してしまいました。 なぜなら、書きかけて

いた次の作品が移人称小説の一種ではないかと思われたからです。 小説における人称の取扱いはほんとう

に大事なものです。人称の問題はつまり視点の問題で、誰の視点から書くかは、誰の心情を詳細に描くかと

いうことであり、一つの小説を仕上げる場合、主人公の視点からのみ書けば十分というものでもないのです。

一人称小説においては、主人公以外の複数の登場人物の心情を主に動作や表情よって描きますが、より詳

細に描く必要のある時は、会話文・日記・手紙・電話などを使います。 それでも、300枚ほどの小説を

一人称で、重くならず、くどくならず、単線的にならないように書き上げるのは難しいものです。

「たった一つの抱擁」では、読まれた方はご存じのとおり、一人称小説のこの弊害をカバーするために、日記

そのものの形を使い、出来事や心情を日替わりに並べて変化をつけました。(十分成功したかどうかは、分か

りま せんが)。 「青い鳥のロンド」 でも、この一人称小説の難しさを改めて体感させられました。

「沙羅と明日香の夏」 は三人称小説でしたが、章ごとに沙羅と明日香の間で視点移動していますし、一部で

は 回想場面として修ちゃんにも移動しました。 視点移動させやすいのが三人称小説の便利な点ですが、と

言って、やたらに誰に視点が移ってもいいというものではありませんし、第三者(作者)的視線による解説

臭が臭ってもならず、三人称でありながらもその人物が、「私は~」 と語っているかのように読者に感じ

させ、読者の感情移入を誘わなければなりませんので、これはこれでかなり難しいものです。

これまでの三作の経験から、一人称小説にも、三人称小説にも、いくらかの不都合を感じた私は、次の作品

を、 一人称と三人称を移動しながら描いてみようと画策していました。 それが渡部直己さんの言われる

『移人称小説』 に当たるものかどうかは分かりませんが、先頃は二人称小説という変わったスタイルで芥川

賞を取られた方もおられることですし、人称とその移動には強い関心がありました。 ですから読んでみたい

わけです。


ところが、アマゾンで調べてみますと、一冊980円。 う~ん、高い。 その部分が読みたいだけなのに980円

も払えましょうか。 では、中古は? と見ると、1483円、さらに高い! 中古のほうが高いということは、新刊

が売り切れたあとに欲しい人が必ずでてくるという見込みがあるからでしょうね。 となると、これはやはり読ん

でおくべきもののような気がしてきます。

高い! でも気になる! う~ん、う~ん、と一か月近くも迷って、きのうアマゾンを見ると、980円の新刊は

ラスト一冊になってしまっていました。 これを逃して、田舎人の私はまた文学の潮流に立ち遅れてしまうのか。

そう思ったらたまらなくなり、思い切って買ってしまいました! その本がきょう届く予定です♪

何が書いてあるのか、ほんと~に、楽しみ。980円に値する内容だといいなぁ。 ワクワク。


秋の夜なべと美味しそうな話

2014-10-02 17:58:19 | 空蝉
素敵ないただきもののために、ここ三晩ばかり夜なべをしました。


一つは新生姜。この時期の生姜はやわらかくて、とっても風味がいいんです。 さっそく生のまま八丁味噌

(これもしばらく前のいただき物) をつけてご飯にのせていただきました。 う~ん、美味しい~~~!

でも、それだけでは食べきれないほどの量ですので、残りの半分はスライスして赤紫蘇に漬け、紅生姜に。

これ、焼きそばやラーメンやチャーハンに入れると美味しいんですよね。

あとの半分はすりおろしてビンに詰め、炒めものやスープ類に使います。


二つめは栗です。 我が家の栗はもう何年も前からお猿さんたちの食糧として消費され、家人の口には一粒

も入らないという悲しい状況になっていましたので、たいへんありがたいプレゼントでした。

ただ、剥くのがですね、これ、たいへん面倒な仕事なんですね。 市販の栗って高いでしょう? 当然です。

この作業を考えたら、安くちゃやってられませんよ。私はひたすら美味しい栗ご飯のために頑張りました。

まず外皮をやわらかくするために3~5分ほど茹で、それから一つずつ栗剥き鋏で剥いていきます。 それ

だけではまだ渋皮が残っていますので、また熱湯に2分くらい浸けて、こんどは包丁で剥ぐように渋皮を

取ります。二升の栗すべてを剥くのに二晩かかりました。根性のある人なら一晩で全部できるかもしれま

せんが、もう手が痛くって、へたれな私には無理、無理。 二晩でもよくやったと、自分を褒めたいくらい

です。

そのおかげで、今年は栗ご飯と栗おこわ、二回ずつ焚いて、両親の口にも十分入れてあげられそうなくら

いの剥き栗ストックができました。


もくもくと夜なべ仕事をしていると、外の虫の声が自然に耳に入ってきます。 ほとんどはコオロギの声。

その間にスズムシとクツワムシが少し、あ、カネタタキもいる。 カネタタキという呼び名はaven さんが

教えてくれたのでしたっけ。 「チ、チリリン」 という、あれは何の虫だろう? マツムシかな?

そういえば私、マツムシの形って今だに知らないんだなあ。 ・・・・・ などと、とりとめもなく思っ

たりしながら、ひたすら栗を剥きます。

静かな静かな秋の夜。 手は疲れるけれども、何だかとても豊かな時間。

国の借金はかさみ、庶民の生活は苦しくなる一方で、自然災害が次々と起こり、熱帯性のウイルスもじわ

じわ侵攻し、世の中は日増しに厳しくなって人々の悲しみは増大しているけれど、申し訳ないのですけれ

ど、こんな静かな秋の夜だけは、せめてひと時の平安に浸りましょう。 人はみなまな板の上の鯉。 明日

我が身に何が起こるか誰にも分からないのですから、私は今ある幸せを味わうのです。


三つめのいただきものは、・・・・・ ジャ、ジャ~ン! 鮎です! それも、小ぶりのニジマスほども

ある巨大な鮎! これはもちろん、塩焼でいただきます。

今週末のディナーのメニューは、栗ご飯に鮎の塩焼、(マツタケはないから)マイタケとにんじん・桜エ

ビのお吸い物に千切り茗荷 (実家からのもらい物) を少々入れて、お豆腐の生姜載せに柚子ポンかけ、

秋ナスの天婦羅と、甘酢漬けのらっきょう (これもいただきものだった) で~す。 いいでしょう?

あ、そうそう。 息子にもらったワインもあった。 あれも開けよう。 (どんだけ、もらい物!)


皆様は、秋の夜長をどのようにお過ごしでしょうか? 豊かな時間をお楽しみくださいね。



                         ( ほとんど、いただき物で生きている  緋野 )