緋野晴子の部屋

「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」「青い鳥のロンド」「時鳥たちの宴」のご紹介と、小説書きの独り言を綴っています。

「たった一つの抱擁」ご紹介

2008-12-31 22:27:13 | 「たった一つの抱擁」
緋野晴子著「たった一つの抱擁」(文芸書房)をご紹介します。
 
平成19年の9月に文芸書房から共同出版された私の小説です。
いくつかの雑誌(文学界・群像・すばる・オール読物)に紹介されましたが、本屋さんの店頭には置かれていません。
本屋さんの店頭に並ぶのは、著名作家や有名人や大手出版社の本、あるいは新聞などで大きく宣伝された本ばかりです。
無名の人の作品を売るのは非常に困難だと、出版社の方はおっしゃいましたが、世間のみなさまに本を手に取っていただく機会がないのでは、無理からぬことです。 読んでいただきたくて書きましたので、ここで紹介させていただきます。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。  

これは、いつの間にか乖離してゆく夫婦の愛と性を、妻の側から見つめた作品です。
壊れかけた夫婦関係を立て直し、失われた抱擁を取り戻したいと苦悶する、妻の心の葛藤を描いています。
浮気や不倫といった特別な行動に飛び出すわけではない、ごく普通の夫婦のうちの一組ですが、この妻はいくつかの奇跡を起こします。 
妻の心理にリアルに迫るため、日記の文体をとりました。
女とはどういうものか? 男とはどういうものか? 夫婦が愛し合い続けるとは、どういうことか?
・・・・そして妻は、ついに、女であることの切なくも輝かしい意味を、その手に握り締めることになるのです。

一見すると、可愛い恋愛物のような表紙に仕上がっていますが、夫と妻の愛と性の真実を描いたシリアスな作品です。
妻であるあなたにも、夫であるあなたにも、読んでいただけたらと思います。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 

では、冒頭部分をご紹介します。

あっと言う間に四十九日が過ぎていた。狐につままれたみたいに、どこかぼうっとしたままの父を促して、そろそろ母の遺品を整理しようと思ってやって来た。
ついでに、それを口実にして二~三日この家に泊まっていくつもりでもあった。
些細なことですれ違ってから気まずい空気が流れ始め、意地の張り合いが始まると更に複雑化して、この頃、夫との間はいつもぎくしゃくしていた。
息苦しくなってきた私は避難場所を捜していたのだ。
 実家は母が生きていた時と何も変わってはいなかった。家具も小物もカーテンも、何もかもそのままで、ただ、散らかっていることだけが、母の不在を物語っていた。
父が一階の事務所で仕事をしている間に部屋を綺麗に掃除すると、何もかも元どおりになった。
今にもその辺から母がにこにこと顔を出して、「明日香ちゃん、おかえり。」と呼びかけてくれそうな気がした。
母はいつもたいていキッチンにいた。
母がよく座って家計簿をつけていた、造り付けの小さな家事机の前に座ってみた。
窓から外の景色がよく見える。母が毎日のように眺めていた風景。
でも、こうして母のいた場所から見ると、私にはどこか見慣れない風景だった。
同じ家から見たのでも、私が毎日自分の部屋から見ていたのとは違う。
窓を開けてみる。春らしくなった風がふんわりと流れ込んできた。母の匂いがするようだった。
引き出しを開ける。ここも、生前のまま。
 その時、ふと、一冊の古い大学ノートが目に止まった。
「何だろう?」
綺麗に洗って畳まれたエプロンの下に、隠されるようにしまわれていたノート。
開いてみると、それは母の日記だった。
 何気なく読んでしまった最初の一ページで私の目は釘付けになり、心臓がドキドキして、次々とページを繰らずにはいられなくなってしまった。
そこには、私のまったく知らなかった母がいた。

   五月二十九日

 私は、きょうもベランダに立って、無意識のうちに空を眺めていた。夏の気配が広がる五月の末の空。
きのうも、おとといも、同じ場所に立って待っていた。風が吹いてくるのを。
どんな風でもいい。私の五感を揺さぶってくれる風でさえあれば。
 ベランダの下に見える小さな畑と、それに続く果樹園の間から、かすかに青葉の匂いを含んだ風が柔らかく吹いてきた。
干したばかりの洗濯物を揺らし、べランダに置いた鉢植えのサフィニアを震わせた。
 でも、それはやっぱり、私の体の底に潜む苛立ちを吹き浚ってくれる風ではなかった。
私は失望し、空を仰いだまま、小さな溜め息をついた。
 遥か上空から吹き降りて来る見知らぬ風に肌を吹きさらし、清涼な空気を体一杯に吸い込んで、鳥のように舞い上がりたい。
やがて、私の体は透き通り、重力から解き放たれて宙を漂う。どこまでも、ずっと・・・・・。
ばかげた空想。そして、狂おしいほどの願望。
 けれど、風はいっこうに吹いては来ない。
もう何日も、何ヶ月も、何年も、私はこうして風を待ち続けている。

   六月十八日

 今年になって夫と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
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「三十一文字」 文学 (3)

2008-12-20 09:01:58 | 空蝉
これまで、心情を描く「三十一文字 文学」として叙景・叙情という二つの形を見てきましたが、きょうは第三の形について眺めてみたいと思います。
この第三のタイプが現代ではもっとも多く見受けられます。

(3)つぶやきの歌・・・生活の中で出会った思いや気づきを率直に口にした歌

   父母が頭かきなで幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる    ( 防人  万葉集)

   銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも         (山上憶良 万葉集)   

たいへん分かりやすい歌ですね。人の子・人の親としての素直な思い、共感できます。
万葉集にはこうした素朴な歌がたくさん載っています。
その後、短歌が修辞的・美的になってゆくほどこのタイプは少なくなってゆきますが、まったく無いということでもないようです。

   世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる    (よみ人しらず 古今集)

新古今集においてさえ、別離の歌の中にはいくつか見つけることができます。

   別れては後もあひみんとおもへどもこれをいづれの時とかはしる (大江千里 新古今集)

   かへりこん程を契らんとおもへども老いぬる身こそ定めがたけれ (道因法師 新古今集)

しかし短歌というものが芸術として洗練されてゆくにつれ、こうしたつぶやき系歌は歌壇の隅っこに追いやられて行った感があります。
それが再び市民権を得たのは近世でしょう。小沢蘆庵の提唱した<ただこと歌>の主張により、つぶやきの歌は息を吹き返します。
<ただこと歌>の主張とは、「歌は清新な感情をその時代の言葉で自然に表現すべきである」とする主張で、前回見ました、叙情歌の花咲く古今集をこそ尊ぶべし、とする主張です。
しかし、この主張を受け継いだ香川景樹が「物にふれて発する真情が、おのずから歌の調べとなる」という<しらべの説>を唱えたことによってか、実際に作られた歌を見ると、「叙情の歌」より「つぶやきの歌」の方が多くなったのではないかという気がします。

   かにかくに疎くぞ人のなりにける貧しきばかり悲しきはなし   ( 木下幸文 )

   霞み立つ長き春日に子どもらと手まりつきつつけふも暮らしつ  (  良寛  )

   たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時  ( 橘 曙覧 )

近代になると、実体験をすなおに歌う自然主義の人たちによってこの流れは受け継がれます。

   いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ ( 石川啄木 )

   多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにも思ふ人のあれかし  ( 若山牧水 )

昭和以降はアララギ派に席巻されたかに見える歌壇ですが、会津八一のような存在もあります。

   あめつちにわれひとりいてたつごときこのさびしさをきみはほほえむ( 会津八一 )

夢殿の救世観音に接して作った一首ということですが、このつぶやきは心に沁みます。

では最後に現代庶民の歌。ある日の朝日歌壇に載っていたものです。

   誤りてクリックすればこほろぎの顔大写しわれにはホラー ( 末長純三 さん )

   母さんの達人じゃない私です強風来ればよろけもします  ( 大堂洋子 さん )

   継ぐ者のなき田に草の繁りおり世襲議員はどんどん増えて ( 中村麗子 さん )

   職を投げ笑みて花束貰いいる責任取るとはこういうことか ( 吉富憲治 さん )

   上りきった先には何があるかなど関係なく子が上る階段  ( 星田美紀 さん )

   
「ふうん、なるほど。」と思ったり、「確かに、うまいことを言うなあ。」と思ったり、「含みがあって気が利いているなあ。」と思ったりします。
でもやっぱり上にあげた先人達の歌とはどこかが大きく違っているようです。
心が作った歌と頭が作った歌の違いとでも言ったらいいでしょうか。先人たちの歌には(全部とは言いませんが)作者自身の息づかいが確かに感じられます。
消えずに残る歌とは、歌の中に作者の魂が生きている歌だということでしょうか。これは言うのは簡単ですが、難しいことですね。


さてさて、叙景と叙情とつぶやき、三つの形を見てきましたが、結局どの形が優れているというものでもないように思いました。どの形にも名歌はありうる。もちろん駄作にもなる。
じゃあ、分析した意味がなかったんじゃないの?と思われるかもしれませんが、そうでもありません。
こうして眺めてきたことで、「三十一文字 文学」というものの性格や可能性が多少なりとも掴めてきたような気がします。何よりやはり楽しかったですし。
死ぬまでには、叙景と叙情とつぶやきで一つずつ、合計三首、魂の三十一文字が残せたらいいなあ、と思います。
あ、そうそう。その前にまず、今取りかかっている小説でしたね。
まだ構想練り上げ40%、がんばらなくっちゃ。
                                    完

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「三十一文字」 文学 (2)

2008-12-15 08:49:28 | 空蝉
前回は 1)叙景の歌 について書きました。きょうは、
2)叙情の歌(情景も絡ませながら心情を中心に描く歌)について見てゆきたいと思います。
まず、万葉集です。

   秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞何処辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ (磐姫皇后)

   旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ                (高市黒人)

   淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば情(こころ)もしのに古思ほゆ      (柿本人麻呂)

いずれも心情を吐露することに主眼が置かれています。
また、手紙の役目をした相聞歌や死を悼む挽歌なども、寓意表現が多いですがやはり叙情歌の仲間に入れて良いかと思います。 
 
そして、心情と情景のコラボといえば最も得意だったのは古今集を始めとする三代集の時代でしょう。

   花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  (小野小町)

   久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ            (紀 友則)

   山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ       (壬生忠岑)

   月見ればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど    (大江千里)
 
など、よく知られている歌がたくさんあります。 
こうした叙情の歌がいつまで主流であったかは、不勉強なため定かではありませんが、
平安後期に勅撰された後拾遺集にはまだ確かに存在します。

   あらざらむこのよのほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな   (和泉式部)

   鳴けや鳴けよもぎがそまのきりぎりす過ぎ行く秋はげにぞかなしき  (曽根好忠)

いちだんとのびのびした感情の発露が見られますね。
それがその後三つの勅撰集を経て新古今の時代になると、なぜか芸術的叙景美の歌に首座を奪われてしまうのです。でもまあ、まったく無いということではありません。

   玉のをよ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする    (式子内親王)
 
 近代になってこの叙情歌の系統を受け継いだのは「明星」を中心とする浪漫主義の人たちです。

   われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子 (与謝野鉄幹)

   なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな         (与謝野晶子)

情熱的ですね。
感情の発露という点では同じでも、中世までの歌と違うのは強い自我の開放を感じさせるところでしょう。
 
短歌という三十一文字は心情描写にたいへん適した文字数だと思いますし、こうした叙情歌、私はとても好きですが日本人の心性には合わなかったのでしょうか、以後、晶子ほどの個性も現れず、前回の記事で書きましたアララギ派の台頭とともに、しだいに少なくなってゆきます。
残念なことです。
現代の巷ではこの種の歌はありそうで実はほとんど見かけません。
前回お話ししたように叙景の歌も少ないのです。真の写生の意味での叙景の歌はさらに少ない。
では何が?  
それが次回でお話しします第三の歌です。ということで、きょうはここまでにさせていただきます。

                                     つづく

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「三十一文字」 文学 (1)

2008-12-12 13:04:37 | 空蝉
小説の構想に詰まって少々疲れております。きょうは、小説のことはきっぱりと忘れ、韻文の方に目を向けて頭のストレッチをしたいと思います。

以前、「五・七・五 文学」について書いたことがありますが、これに 七・七 とたった14文字加わるだけで、描ける世界はずいぶん個性が違ってくるようです。
この三十一文字の世界をきょうは眺めてみようかと思います。

「五・七・五」ではその文字数の少なさから、点景というものが重要な意味を持っていましたが、「三十一」になると点景ではなく情景が描ける、というより情景のほうがこの長さには相応しいようです。
そして文字数の多い分だけゆとりがあって心情が描きやすく、いろいろな表現方法が模索されてきたように思います。

いずれにしても短歌の源は万葉集にあり、その後生まれてきた様々な流派も万葉集にその原型を見ることができます。
例によってセイラの独断と偏見に基づき、世間に承認されている歌風による分類法とはまったく別の、形による分類法によって大きく3タイプに分けてみました。

1)叙景の歌

 情景そのものの持つ趣を中心に描き、その風情を持って胸中を描く歌です。
   
   田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける (大伴旅人 万葉集)

   わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも      (大伴家持 万葉集)

 これが時代を下ると

   夕されば門田のいなばおとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く  (源 経信 金葉集)

   うづら鳴く真野の入り江のはま風に尾花波ちる秋の夕ぐれ  (源 俊頼 金葉集)

   夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里    (藤原俊成 千載集)

   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ   (西行  新古今集)

   にほの海や月の光のうつろへば浪の花にも秋は見えけり   (藤原家隆 新古今集)

   見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    (藤原定家 新古今集)

 のように、しだいに、より絵画的・音楽的に美しくなってゆき、新古今になると情趣が象徴的に描かれた美術品  のようになってゆきます。
 俊成は<幽玄の世界>・定家は<有心の世界>を確立したと言われていて、そのあたりのことは詳しく分かりま せんが、床の間に飾っておきたいような洗練された歌ばかりです。
 ところが、このあたりが文芸の妙だと思うのですが、
 完璧な美は、残念ながらその完璧さゆえに、よく言えば線が細く、悪く言えばどこかに作り物が匂い、人の心を わしづかみにして揺さぶる力が足りないという気がします。
 万葉集の2句のほうが、情景の中に血の通った作者の姿があると思いませんか?
 新古今的世界を見る時、私はつい芥川の小説を思い浮かべてしまいます。よくできています。よくできすぎてい ます。だからでしょうか。私は芥川の作品には心底感心するのですけれど、魂を揺さぶられることがないので  す。きっと作品の中に芥川さん自身の体温が感じられないからでしょう。

 ともあれ 叙景の歌 は中世(新古今の時代)までに様々な技法を駆使してさかんに作られ、芸術として一つの 高みに達したように思われます。
 
 その後、短歌の停滞期を経て、近代になると新古今的叙景美の世界は北原白秋ら耽美主義の歌人に引き継が れてゆきます。

   病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出 (北原白秋)
 
 なんだか童話の挿絵でも見ているような気分になりますね。
 
 そして新古今的美から離れ、万葉集に復古したところでも叙景歌は思わぬ発展を見せます。
 正岡子規の 写生 に始まるアララギ派の歌です。

   冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへばたび干せる見ゆ    (正岡子規) 
   
   のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳根の母は死にたまふなり(斉藤茂吉)
     
 これはもう、情景の趣などといったものではありません。心情を情景の実写のみで表現し、そこに生の真実を描 き出すという、ハイレベルな恐ろしい文学です。
 なぜ恐ろしいかというと、そこに捉えられている情景は、物も時も人も間合いものっぴきならない緊張関係にあ  って、そこに存在する生の真実を汲み取るには表現する側の力はもちろん、鑑賞する側の力も必要とする歌だ と思うからです。
 何かちょっとでも見落としたり勘違いしたりしたら、分からない歌になるのではないでしょうか。

 現代の短歌界のことは不勉強なためよく分かりませんが、この 叙景歌 の系統のものは案外少なくなってい  るような気がします。どんなものがよく目につくかというと、それは次回にお話ししたいと思います。
 
                                            つづく

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レヴュー 7 (女性)  

2008-12-09 08:46:39 | 読者さんレヴュー
ありがとうございます。 
ブロ友の お妙さん から、「たった一つの抱擁」に書評をいただきました。
お妙さんは、たいへん文学通の方で、自らも小説をお書きになります。にほんブログ村ランキンで、いつも高位を占めておられた方です。現在はブログ村を退き、ブログの刷新に取り組んでみえます。
お妙さんは、書く人間の立場からの書評を掲載してくださいました。
また、写真のアップや、その他細かいコメントなど、私の本の紹介に大いに力を貸してくださいました。ほんとうに有難いことです。

では、お妙さんの書評から少し拾わせていただきます。

お妙さんは、「たった一つの抱擁」を [現代版「蜻蛉日記」ともいえよう] と表現されました。
そのとおりです。
蜻蛉日記以上に、妻という名の女を余すところなく手に取るように生々しく描き出したい、というのが、作品の前提として第一に私の心にありました。
それも、特殊な状況下に置かれた特別な妻ではなく、最も多数派である普通の妻たちの共通項を・・・・と考えましたが、実際にはどんな夫のどんな妻であるかを一つに特定せねばならないわけで、どんな設定にするか、かなり迷いました。
この点については、お妙さんは [ 世間でも珍しくない設定だ ] とおっしゃり、夫がアダルトビデオにのめりこむことについても [ 現代男性は刺激的性に常に誘惑されているものなのだ ] と、概ね合格点をつけていただきました。
良かったです。ほっといたしました。
さらに男の性と女の性の本質をエロスとアガペーの対比として捉えていただきました。私の作品からこのように、読む側での読みを深めていただけると嬉しいです。
最後に [ 周到な準備の下に書かれているのだが、サラリと 細部に拘らず唯ゆったりと四季の描写、男女の葛藤に身を任せて読んでも決して間違いではないだろう。] とも評していただきました。
私としても、そのように読んでいただけましたら十分です。


このようにブロ友の皆様に次々と感想・書評をお寄せいただき、応援いただき、私は幸せ者だなあと思います。
お妙さん、多角的な視点からの書評、ほんとうにありがとうございました。
私が意識していなかったことにまで言及されており、なるほど、こういうふうにも関連づけられるなと、書評をおもしろく読ませていただきました。
これからも宜しくお願いいたします。

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レヴュー 6 (男性)  

2008-12-02 08:42:45 | 読者さんレヴュー
こんどは夢追い人さん(男性)が「たった一つの抱擁」を読んでくださいました。
ありがとうございます。

「感想ではないのですがこの本を読んで思いついたことを記します。」と言って次のような考え方を提示していただきました。

動物は私の知る限り、オスが見た目がきれいなものが多い、特に鳥類では孔雀をはじめダンスが上手な鳥や物真似でメスの気を引く等です。
ライオンもオスには立派な鬣がある。勿論見た目で区分できないようなものもあるけれど、少なくともメスがハッとするほど綺麗なものは思いつかない。
翻って人間はメスが美しさでオスをひきつけようとする。何で?妊娠し、出産し、子育てをするというメスにしかできないことだけでは不十分でその上さらに何で努力してオスを引きつけるようになっているんだろう。
かかとの高いハイヒールは外反母趾や歩行に不便だけど脚線美を見せる道具になる。体を露出するスカートは冷え性の一因になっているような気もする。着飾ること、化粧をすること、髪型に凝ること、皆見た目でアピールするための手段。いつから人間は動物と違う行動形態になったの?ということを思いついた。
それはもしかしたら人間には動物のように周期的な発情期がないので、そのスイッチを入れなければならないからなのかもしれない。でも男の立場で言わせてもらえれば、スイッチが入った途端にメスは本来のメスになって遠ざかっていく素振りを見せるように思える。何故かそんなことを思いついた。

というものです。

 ☆ 緋野のコメント ☆

そうですね。
狩りをする必要もないのに、筋肉をつけて体に自信が持てると男性は嬉しそうです。
女性が美しくありたいと思うのもそれといっしょで、男性にスイッチを入れるためではありません。(そういう職業の人は別でしょうが。)
男性にスイッチを入れるほど美しいor魅力的であれたことには満足するのですが、その後のことは頭にないのですよ。

 ☆ 夢追い人さんのコメント ☆

動物ではオスがやっていることとメスがやっていることの両方を人間の女はこなしている。では人間の男はどこにその存在感を求めるのか?です。
勿論男でも見た目で異性をひきつけようとする努力はありますが、女性には及ばないと思います。
別の部分で一緒にいることの意義を見つけられるかどうかな、ということです。極端かもしれませんが。

 ☆ 夢追い人さんのその後の記事 ☆

先に思いついたこととして男性にスイッチが入ると表現しました。それに緋野さんが応じて頂きました。
男性はその意味では通常スイッチがオフになっているのだと思います(ただ、いとも簡単にスイッチが入ってしまうのですが、又簡単に切れやすい)。
これに対し女性は常にオンになっている、何故なら一般に女性は受動態のケースが多いので、いつ、どこからお声がかかるかわからない。常に臨戦態勢でいないと思わぬ展開に巻き込まれてしまう。
でも意中の男性が見つかり、スイッチを全開にして愛する人が出来ると「この人には素顔をさらせられる。」と思いスイッチを切る。
つまり男性も女性もスイッチがオンの状態で結ばれる。女性はスイッチをオフにすることが愛情だと思う「24時間臨戦態勢は疲れるので。」。で相手はスイッチがオンになった男性だと思っていたのに男性もスイッチが入りやすい代わりに切れやすい。なので、気がつくと2人ともスイッチがオフになっている。
そこで「何でお前は」「そういう貴方こそ何よ」という状況を表現したかった本ではないかな、と思いました。
でも本当に愛情で結ばれた二人ならばある日そのことに気づく日がきっとある、ということも表現したかったのではないかな、とも思いました。


 ☆ 緋野の見解 ☆

私たちは案外、無意識のうちに生物としての本能に支配された行動をとっているものだと思います。
しかし、それだけでもないところが、人間の人間たる所以ですよね。
人間のオス・メスにとっては、夢さんのおっしゃる「別の部分で(生殖以外の部分と解釈させていただきましたが)一緒にいることの意義を見つけられるか」ということが、最も重要なのではないでしょうか?

美への執着も強さへの執着も、生物として本来的には種の保存のために備わっている本能かと思います。
ですが、種の保存を意識してそうしているわけではなく、また種の保存を意識して異性を愛する人もいないでしょう。同様に、生殖が終わったからor必要ないからといって愛するのを止められるものでもない。
私たち人類はなぜか種の保存の論理だけでは説明できない生物なのですね。

人間の女にとって人間の男の存在意義は生殖だけではありません。生殖という目的はすぐに達せられて終わるものですし、子どもはいらないという女性もいます。また現代では暮らしの支えでもありません。
でも、生殖抜きでも甲斐性抜きでも、やっぱり女性は男性を求めている。何を求めるのか?
愛と愛の発露としての抱擁、男性の温もり、それしかないと私は思います。
存在することの孤独や寒さや恐怖から女性を守ってくれるのは、男性の温かい愛の抱擁です。
夢さんは「では人間の男はどこにその存在感を求めるのか?」とおっしゃっていますが、たいへん良いご質問です。その存在感はまさにここにあります。
逆に言うと、その存在感を示せない男性は女性にとって価値がないということです。

私にとってよく分からないのは男性にとっての女性の存在意義です。生殖とご飯だけ提供すればそれでいいのでしょうか?
妻への生殖を果たすと後はご飯だけ求めて、別の生殖対象を物色しはじめる(実際行動に出るか出ないかは個体差がありますが)。それでも妻を愛しているという人は多いようですが、その愛の中身はどうなっているのでしょう?
女性の求める温もりのある愛とは大きく隔たっているように思います。男性は存在の寂しさを何で補っているのでしょうね?

愛に関しては女性より男性の方が本能に支配されている部分が大きいように思います。「別の部分で一緒にいることの意義を見つけ」られないのでしょうか?
夢さんは、男性は「いとも簡単にスイッチが入ってしまうのですが、又簡単に切れやすい。」ともおっしゃっています。とすると、男とはまことに困った種族ですね。迷惑なこと! けしからんです。


ともあれ、夢さんのおかげでいろいろ考えることができましたし、男性というものへの理解もまた少し進みました。夢さんの発想そのものが、いかにも男性のものという印象を受けました。(女性はこうは書かないでしょう。)
楽しませていただきました。ありがとうございました。 

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