緋野晴子の部屋

「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」「青い鳥のロンド」「時鳥たちの宴」のご紹介と、小説書きの独り言を綴っています。

ふ~む・・・車谷長吉さんの 「奇偏短編集」

2011-10-30 21:47:33 | 文学逍遥


奇編という形容のついた車谷さんの短編集。 実は 奇 には 偏部に 田 がつくのだけれど、そんな漢字は今ではまずお目にかかれない。PCで打とうとしても出てこない。 風変わりな作風を強調しようとした編集者の作戦と思われる。 芸が細かいなぁ。

これは、ひとことで言うならば、人間というものの哀れなほどの愚かしさを一枚一枚、写真を撮るように短編の中に写し取った作品群。 が、それらには幾らかの差異がある。

・「非ユークリッド的な蜘蛛」~「白骨の男」までと 「恐山」 「光の壺」 は、それらの写真におどろおどろしい脚色や
  仕掛けが施されていて妙に小説的な姿をしている。

・「人の足跡」 「奥山の六郎さん」 「温み」 「うちは口が軽い」 「貧乏な夫婦」 「ある田舎町の老妓」
  ・・・・これらはまさに写真そのもの。
  孤独・欺瞞・バカバカしさ・つつましい生活の中の小さな楽しみと優しさと悲惨・生きることの酷さ・・・を、何の
  脚色も加えず、咀嚼もせず、読者の前に、さあ何でも好き勝手に味わえ とばかりにポンと突き出している。

・ところが、味わおうにも味わいようのない作品群もある。
  「ちのつく言葉」 「佐助稲荷の空き家」 「蛇捨て」 以降の自画像的な作品群は、私の理解の範囲を超えてい
  る。まず、小説だとは思えない。 エッセイ? 回想録?・・・ そうだとしても、これらを書いたこと・読むこ
  との意義がまったく分からないのだ。 ふ~ん と言う以外に何も無い。 面白味があるとしたら、語り口のうま
  さだけだろうか。

これらの作品群には、この世を生きる 自我 というものが感じられない。 愚かなこの世にはまり込んで自分ももろ共に愚かに存在しているだけで、人間の愚かさや哀しさをただ呆然と眺めているだけで、そこから先には一歩たりとも歩を進めようとしていない。
ここでは、生きるとは無意味な馬鹿げたことであり、生を耐えて死を待つことであり、死は開放である。
それは確かに、生きることの一面の真理ではあると思う。
しかし、こういうものを読んでいると、私はどうしてもイライラしてくる。 「軟弱者!」と言いたくなってしまう。
私はこういうものは書かない。
この世に満ち満ちている愚かしさをただ穿り返したとて何になろう。
美しい蓮の花は泥の中から咲き出るではないか。
泥中には泥中の温みや気楽さやいくばくかの優しみもあろう。 それでもそこに埋没せず、光を求めて生きていく生き方だってあるのだ。
人間とはそういうものでもある。 泥の中にいても、光は見つけようという意思があれば見つかるものだ。

少し激してしまった。

表現はさすがに本職の作家さんだなと感心する。何の意味も無いような話が、意味ありげに面白く読める。
特に語り口がいい。
私の短歌コレクションの中に、2010年の朝日歌壇で見つけた大阪市の 山下晃 さんの歌がある。

    汚れたる聖書のごとく繰り返し車谷長吉読む是非もなく

車谷さんには、信者に近い熱烈な読者さんたちがいるようだ。
それは分かる。 徹底したリアルの中に、麻薬的な魅力がある。


(これは単なる読書記録です。たいへん失礼なもの言いをしてしまったかと思いますが、押しも押されぬ車谷さんです。緋野ごときの独り言は意にも介されないと信じてUPさせていただきました)
   

avene さんからいただいた 「沙羅と明日香の夏」 レヴュー

2011-10-23 21:02:32 | 読者さんレヴュー
Yahooブログの avene さんが 「沙羅と明日香の夏」を読んでコメントをくださいました。

レヴュー書庫に入れるにはどうかな? と思われるほどの短い言の葉でしたが、aveneさんの、この世界を透か

し見るかのような視線に心惹かれるものがあり、レヴュー書庫にとっておきたくなりました。 15番目のレヴュー

です。

                    ***************************************


緋野さんの新作読ませて頂きました。


後半はまるで修学旅行のようにときめきますね。


これは中・高生の課題図書とするべきだと思いました。


主人公二人とアルタイル、三人組、潔く別れてゆく・・・蜘蛛の子を散らすように。


若いって美しいと感慨に浸ってしまいました。


                    ****************************************

私が惹かれたのは最後の2行です。 

「蜘蛛の子を散らすように」「潔く別れてゆく」ことを、著者の私は 「若さ」 だと気づいてはいませんでした。

登場人物たちの姿を 、「蜘蛛の子を散らすように」「潔く別れてゆく」 というふうに捉え、 そして、そうした 「若さ」

を 「美しい」 ものとして見つめている・・・そこに avene さんの avene さんらしい視線を感じました。

「読み」 とはやはり 「その人」 だなぁと改めて感じました。

野草の美しさをこよなく愛する avene さん、素敵なご感想をありがとうございました。

avene さんのブログはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/avene945/  です。



「沙羅と明日香の夏」 緋野晴子著 (リトル・ガリヴァー社) 1,470円
                          
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愛知県では、次の書店の店頭に、たぶんまだ置かれていると思います。
 
 名古屋  星野書店 (近鉄パッセ)  三洋堂 (込中 本店)  
 豊  橋  豊川堂 (本店) (カルミア店) (アピタ向山店)
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「ちぎり文学奨励賞」をいただきました

2011-10-17 14:24:16 | 沙羅と明日香の夏
第21回「ちぎり文学賞」(東愛知新聞社主催、豊橋ちぎりライオンズクラブ共催)で、

「沙羅と明日香の夏」 に 「ちぎり文学奨励賞」 をいただきました。

「ちぎり文学賞」 は鈴木順子さんの川柳句集 「夜明け前」 でした。

中・高生の部では優秀賞4点、努力賞2点がそれぞれ決まりました。




新聞記事がとても縦長でしたので、「沙羅と明日香の夏」の選評までカメラにおさめきれませんでしたが、

「心に届く作品。今後の作品も楽しみ」 というお言葉をいただきました。 感謝。

「賞」 というものを一つもいただいていませんでしたので、とても嬉しいです。

また、1番の賞ではなく、2番の 「奨励賞」 だったことも私に相応しくてよかったなぁと思います。

奨励していただいたので、これを励みにまた地道な創作をしていこうと思います。


ただ・・・・

ただ・・・・

小説を書いていることも、本を出したことも、生活圏では内緒だったのに、新聞に載ったためにばれてしまい、

何かと騒がしいことになってしまいました。 静かに隠れ住んで、ただ作品だけを読んでいただくということは

できないものでしょうか? とかくにこの世は住みにくいものです。

10月29日に授賞式があるそうです。 こういうものも苦手で、気が重い・・・・

しかたありませんね。 みなさんに取り立てていただくことが、書店の棚、ひいては読者さんにつながるので

すから、耐えねば。
 
    

河童さんの 「たった一つの抱擁」 レヴュー

2011-10-13 21:48:30 | 読者さんレヴュー
久しぶり (1年2ヶ月ぶり) に 「たった一つの抱擁」 にレヴューをいただきました♪

ガーデニング と お米作り と 写真 と ツーリング が好きな 夢多き河童さん からです。

数回に分けて書いてくださったものを、ご本人の了解をいただいて一部編集し、繋げてご紹介したいと思います。

                *******************************************


たった一つの抱擁・・・昨晩読み切りました・・・

身に染みます・・・ 

最後の・・十月十六日から・・何か走り始めている?

もっとゆっくり・・変化? 病気の予兆? 詳しく書かれていた方がわかりやすいと思いました。

除夜の鐘が鳴り始めたとき・・一緒に初詣に出かけ・・・幸せを感じたのでしょうか・・

女性のエゴで終わらずに・・男はこうあるべきみたいな? メッセージが欲しいように思います。

十分に伝わりますがでも・・普通の男はエゴとしか? おもわないのかな・・そう感じました・・

包容力と抱擁力の違いは??・・・河童・・考える

これがテーマだったのでしょうか??

広い心で抱え・・・親愛の情をもって抱きかかえる・・・

この事が・・・女性への愛なのでしょうね・・・

いいえ!!

すべての事なのでしょう・・・

・・・河童は少し反省しました・・

河童嫁もそうも持っているのかもしれません・・・

少し・・優しくしてあげようと思いました・・・ありがとうセイラさん

だから・・もっと多くの人に読んでもらえば・・いいとおもいますよ

楽しい時間でしたよ♪

              ******************************************


河童さんはご自分のブログでも 「たった一つの抱擁」 を写真入りで紹介・宣伝してくださいました。
                     (http://blogs.yahoo.co.jp/pole10476/36242917.html)

緋野の「屈辱の10円玉」の記事(ほんとに悔しかったぁ・・・笑)を読んで、エールのお気持ちから読 んでくださ

ったようです。そして、作品に籠められたものを、しっかり読み解いてくださいました。

河童さんのご感想から、逆に私もいろいろ考えさせられました。

読者さんの声が聞けるというのは、ほん とうに貴重なことだなぁと思います。

河童さんのお蔭で、しばらく冬眠していた「たった一つの抱擁」が目覚めそうな予感がします。

残念ながら宣伝料はお出しできませんが(笑)、代わりに緋野の心からの感謝を捧げたいと思います。

ありがとうございました。     


        「たった一つの抱擁」 緋野晴子 (文藝書房) ¥1260
              

これは、いつの間にか乖離してゆく夫婦の愛と性を、妻の側から見つめた作品です。

壊れかけた夫婦関係を立て直し、失われた抱擁を取り戻したいと苦悶する、妻の心の葛藤を描いています。

浮気や不倫といった特別な行動に飛び出すわけではない、ごく普通の夫婦のうちの一組ですが、

この妻はいくつかの奇跡を起こします。 

妻の心理にリアルに迫るため、日記の文体をとりました。

女とはどういうものか? 男とはどういうものか? 夫婦が愛し合い続けるとは、どういうことか?

一見すると、可愛い恋愛物のような表紙に仕上がっていますが、夫と妻の愛と性の真実を描いたシリアスな作品です。

妻であるあなたにも、夫であるあなたにも、読んでいただけたらと思います。



*全国書店・ オンライン書店 7&Y ・boople ・本やタウン ・ bk1 ・ Jbook ・ e-hon ・
楽天 ・ アマゾン・ 紀伊国屋    等にございます。

芸術の世界におけるリアル (3-緋野の小説におけるリアル)

2011-10-10 17:43:36 | 空蝉
ファンタジーの世界ではなく、
リアル (事実) そのものを骨組みにした世界でもなく、
リアルな (現実的な) フィクションの世界を創りだすということ・・・・
それは、このリアルな世界のどこかに確かに存在していながら、煩雑な現象に取り紛れてしかとは見えないものを、作者の視線というフィルターで濾し取り、読者の前にはっきりと知覚されるように描きだすこと、です。

それはこの混沌の世界を見やすくすることであり、作者自身にとっては自身の生きる指標を探り出すことであり、読者にとっては、作者によって探り当てられた 「生の一つの貌」 に出会うことです。
私にとって「小説を書く」 「小説を読んでもらう」 とは、そういうことなのです。

ですから、そこで追求するリアリティは、ドキュメントか? 私小説か? と見紛うばかりのものがいいのではないかと私は思っていました。
読者さんが、ひょっとするとこれは作者自身の体験かもしれないと思って読めるようなものです。
「たった一つの抱擁」 も 「沙羅と明日香の夏」 も、そういうふうに書いたつもりです。
と言うより、自分の設定した人物にいつの間にかなりきって (憑依して) しまうと言ったほうがいいかもしれません。
ですから、綾子 や 明日香 や 沙羅 を緋野自身ではないかと思って読んでいただくのは、そういう意味で正解なのです。 私自身が読み返してみて、私に似てしまったなぁと思うのですから。
ただ、小説世界の設定やストーリーは違いますよ。 それは私がこの世界から掬い取ったり想像したりした様々な場面や現象を、意図的にデフォルメして組み立てたものですからね。 裏にはかなりの取材もあります。

ところが、「たった一つの抱擁」 で初めの一歩を踏み出した時、私はまた例の 「蝉の絵」 を思い出すことになってしまったのです。
私にとって二つの作品はそんなに違うものではありません。 「沙羅と明日香の夏」 は一般的な三人称小説の形で書き、「たった一つの抱擁」 は日記という主人公の肉声だけで小説の流れを作ったという違いがあるだけです。 それが、世間での扱われ方を見ると、ずいぶんな違いになっているように思われてなりません。
「たった一つの抱擁」 は、リアルに過ぎたのでしょうか?

平安時代にもいくつかの女流日記文学がありますね。 あれは小説としてテーマを持って意図的に構成されたものではありませんが、さりとて、単なる備忘録というものでもありません。
立派に自照の文学であり、人目に触れることを意識して書いているのではないかと思われるふしもあります。
そして、十分面白く読めます。
日々の日記を貫いて、筆者の一定の世界観・生き方のようなものが見えてきます。
それなら、その日々の日記を作為的に書くことによって小説世界が創れるのではないかと、私は考えたわけです。 日記のほうが心の襞を隈なく描き出せるという思いもありましたし、名も無き人間が本を出版するにはありきたりの小説ではだめで、インパクトのあるものにしなければ、という気持ちもありました。

が、はて、その試みはうまくいったのでしょうか?
実は、今まで誰にも言えませんでしたが、ひどくがっかりしていることがあります。
小説としての構成がうまくいっていなかったためでしょうか?
それとも、リアル感が強すぎたためでしょうか?
筆者の日記をそのまま書き写しただけだと誤解されたのでしょうか?
Amazon では、小説のジャンルに入れられていないのです。 なんと、<実用・スポーツ・ホビー>のジャンルにランキングされているんですよ。 あんまりじゃありませんか? どうしてそんなことになるんでしょう?

レヴューをくださった方たちの反応は、私に作品の未熟さを意識させてはくれましたが、私の期待を裏切るようなものではありませんでした。
それでも、「出版界では私の小説は理解されなかったのではないか?」 「小説という芸術分野に入れてもらえなかったのではないか?」 という無念な思いは拭えず、何がダメなのだろうと頭を悩ませました。
あの 「蝉の絵」 と、あの 「屈辱の10円玉」 http://blogs.yahoo.co.jp/sailoringalaxy/34878205.htmlのことが妙に頭をよぎりました。
先生の微妙な表情と、店主のにやにやした顔が、「これは小説(芸術)じゃないよ」と言っているような気がして・・・

けれど、今になって考えてみると、事実はもっと単純なことだったのかもしれません。
つまり、実際は書籍流通関係者の誰も、内容なんか読んでいやしないということです。
「小説はフィクションだから、フィクションの形をしているものだ」 というステレオタイプがあって、「たった一つの抱擁」 はそこに嵌らないほどリアルな姿をしていたということなのでしょう。
Amazonの誰かがあの店主のようにぺらぺらと見て、日記そのものの形をしているので、素人が自分のことを書いたのだろうと解釈したという、そんなところかもしれません。

Amazon の関係者さん、「たった一つの抱擁」 は実用本でもスポーツ本でもホビー本でもありません。
小説なんです。 出版社さんはちゃんと小説のバーコードをつけて送り出してくれたそうです。
もしこの記事を読んでくださっていたなら、小説のジャンルに入れ直してください。 お願いします。

芸術とリアルはけっして相性の悪いものではない。
フィクションはフィクションに見えるとは限らない。
小説に決まった形があるわけではない。
私はそう考えています。


  

芸術の世界におけるリアル (2-文学におけるリアル)

2011-10-07 21:07:06 | 空蝉
先日、せっかく書き上げた記事が消えてしまったことで意欲を無くしていましたが、書き始めた文章は書き終わらなくてはいけません。 気を取り直してやることにしましょう。

ファンタジーにおけるリアル

文学という芸術の世界にもリアルは必要です。
近頃人気の小説は、どうもファンタジー要素の強いものが多いようです。
・・・・平凡より非凡、現実より非現実、常識より非常識、実相より幻想、地味より壮大、平穏より刺激・・・・
どういう傾向のものが流行るかは時流というものもあり、それはそれでいいわけですが、
しかし、ファンタジーであってもやはり、その世界におけるリアルというものはあります。 もしその世界に存在しているとすれば、いかにもそのようであって、そう考え、そう言動するであろうと、読者を納得させるだけのその世界のリアリティがなければなりません。
すると読者はそれが本当のことであるかのように錯覚し、小説の世界にすっかり引き込まれて、登場人物とともにその世界を二次体験することになるのです。
ですからファンタジーの中にもリアルは大切な要素としてあるわけです。

ただ、ファンタジーの中で展開されるリアルは、この世界におけるリアルではありません。そのことは、どんなに感動して小説世界に酔わされた読者であっても、頭の隅には必ずあるはずです。 ですから、
(あの小説のA男のように、僕もこれからは勇気を持って生きよう)
という気持ちにさせられたとしても、
(その勇気がこの現実世界でも通用するかどうか? 現実はそんなに単純ではないな)
という気持ちが、心のどこかに必ずあるように思います。

ノンフィクション

ファンタジーの対極には、この世界のリアルそのものでできているノンフィクションという作品があります。
ちょっと待て。 ノンフィクションは小説ではない。 とおっしゃる方もきっとあるでしょう。 そうかもしれません。
そうかもしれないと言うのは、私にはちょっと 「小説ではない」 と言い切るには躊躇いがあるからです。
書かれている事柄はノンフィクションであっても、それは作者が選択的に拾い上げた事柄であり、作者によって意図的に構成されることで浮き彫りにされてくる意図的現実であって、混沌の現実そのものとは違います。
これはテレビのドキュメント番組やドキュメント映画にも通じるものです。
表現媒体が映像と文章という違いがあるだけで、その現実の選択・構成如何によって、描き出される世界も感動も大きく違ってきます。
優れたノンフィクション文学は、小説と呼べるかどうかは別として (可能性としてはありかもしれないという気がしていますが、未だ釈然としないものがあり、断言は避けておきますが)、現実という材料と文章の芸を駆使した立派な文学作品 (芸術) であると、私は確信しています。

そして、優れたノンフィクション作品が人の心を打つ力は、ファンタジーの比ではないとも思っています。
なぜなら、ノンフィクション作品のリアルは自分の存在する世界そのもののリアルだからです。
もっとも、ファンタジーとノンフィクションはもともと質が違うのですから、当然感動の質も違うわけで、単純に感動の強さ深さで両者を語るのはナンセンスなことではありますが。

ファンタジーとノンフィクションの間

では、ファンタジーとノンフィクションの間にある作品はどうでしょうか?
ここにはリアルの盛り込み方によって、いろいろな文学作品があるように思います。
一番ノンフィクションに近いのは、ノンフィクション的小説。
例えば、山崎豊子さんの作品群です。(「沈まぬ太陽」は面白かったぁ)
それから、名前は忘れましたが、中国人の作品で 「ワイルドスワン」 (これは小説に入れられるかどうか微妙ですが面白かった!) など。現実を材料にした圧倒的パワーのある作品でした。

次には私小説と呼ばれる作品。 作者自身の日常を描いたものです。
え? ノンフィクション的小説や私小説は、ノンフィクションとどう違うのかって?
嘘 (フィクション) を書かないのがノンフィクション。 嘘 (フィクション) が加わっているのが小説。 私はそう解釈しています。
個人の日常というものは、いくら事実を選択的に拾ったとしても、それだけで小説になりうるほどうまくできてはいません。 一つの纏まった小説世界を描き出すためには、必ずフィクションが加わらざるを得ないはずだと思います。まったく日常の事実そのものだけを時系列的に書いたとしたら、読むに耐えないものになるでしょう。
ですから、私小説はノンフィクションに近いけれども、フィクションだということです。

三番目は歴史小説でしょうか。
かなりフィクションによって補われはするものの、史実というリアルの上にある小説です。

そして第四が、前記事のたくきさんのコメントにあったように、私が書こうとしている小説です。
つまり、現実に有り得ることがらだけで構成されたフィクションの世界です。
この種の小説は今ではかなり読者数が減ったように思いますが、明治以来の小説の主流で、一部の小説好きには根強い人気がある (はずだ) と私は思っています。
こういう小説においては、読者は自分自身の存在する世界の延長線上にあるものとして小説世界を読むことができます。 そして、そこが大事なところです。
読者は読むことで自分自身の現実から一歩出て、他人の現実の中に登場人物とともに生きてみることができるわけです。 そしてそれが、読者の明日へ、どのような形であれ現実的につながっていくと私は信じています。
ですからそこでのリアリティはノンフィクションに近いほどのものがいいと、私は思っていました。

さて、そこで前記事とのつながりです。
もうお分かりでしょうが、「芸術とリアルは相性が悪いのだ」 という、「蝉の絵事件」から生まれた私の考えは、その後すっかり変わりました。 けれど、世間ではどうなのでしょうか?

はい。 長くなりましたので、本日はここまでといたします。

 

芸術の世界におけるリアル (1-蝉の絵ショック)

2011-10-05 09:34:02 | 空蝉
小学校の低学年の頃でした。
夏休みの宿題で、私はアブラゼミの絵を描きました。 蝉の形というのは見れば見るほど面白く、兜を被ったような頭、つるんと艶のある丸石のような目、めちゃくちゃに入り組んでいながらどこか規則性を感じる羽の模様・・・・
一つ一つ細部まで精密に、ご飯に呼ばれても気がつかないほど夢中になって一日がかりで描きあげました。
家族に見せると、まるで本物のように上手に描けたと褒められ、自分でもたいへん満足したものです。

さて、夏休みが明けて、私は自信満々の蝉の絵を学校に持って行きました。 するとたくさんの級友たちが群がってきて、そして口々に言ったのです。
「すげえ! ほんとに自分で描いたのか?」
「親に手伝ってもらったにきまってるじゃん」
「ずる~い」
私は自分一人で描いたのだと言いましたがほとんどの子が信用してくれず、とても悔しい思いをいました。
けれど、そこまでならまだ良かったのです。 大人に手伝ってもらったのではないかと疑われるほど上手に描けたのだという自負が持てたからです。
ところがこの後で、私はさらに大きなショックを受けることになったのです。

それは、先生の評価が非常に低かったことでした。
二つの理由が考えられました。
① 先生もみんなと同じように、親に手伝ってもらったのかもしれないと思った
② リアルなだけで面白くない (子どもらしくない) 絵だと思った
先生の微妙な表情を今でもよく覚えています。 私は評価の理由について先生に尋ねることはしませんでしたが、先生は婉曲に②を思わせるようなことを言ったような気がします。 おそらく、①②の両方ではなかったでしょうか。

①は明らかな誤解ですが、②は考えさせられるところがあります。
当時の絵の評価には、決まって 「子どもらしく、のびのびした、型にはまらない」 といった修飾語がついていたように思います。
では、私の絵は子どもらしくなかったのでしょうか? そうは思いません。 子どもだから、生物の姿そのものに、その細部にまで強く惹かれていたのです。 そして、それを素直に絵にしました。 

私の絵は紙いっぱいに、一匹の蝉を大きく描いたものでした。 背景も何もありません。 他の子たちの絵は、虫取りをしているところや川で泳いでいるところなど、夏休みに遊んだ様子を描いたものでした。 
「子どもらしくのびのびと」 というのであれば、実のところどちらの絵もそれに当てはまるでしょう。
「型にはまらない」という点では、子どもにはもともと型など無いのです。
「子どもの絵は現実どおりより、空想的であったほうが良い」 「静物より楽しく動きのある絵が良い」 という型にはまった考えを持っていたのは大人のほうだったのではないでしょうか。

今さら恨み言を言うために書いているのではありません。 つまり私は、芸術に 「子どもらしさ」 などという観点は妥当でないと言いたいのです。
そうしたステレオタイプな価値観はどの世界にでもあることですが、芸術の世界もやはり例外ではなかったと言いたいのです。

今の私の考え方からすれば、絵は、大人の絵も子どもの絵も、リアルであろうとファンタジーであろうと、見る者を惹きつける何かを持っていれば、それでいいと思うのです。 「見る者の心を捉える何かがあるかどうか?」
肝心なのはそこだけです。 一匹の虫しか描いてなくても、その虫を見つめる描き手の感動が伝わるように描いてあるなら、それは良い絵だと思います。

しかし、「伝わる」・・・ここが肝心なところです。
私の描いた蝉の絵は、自分ではうまく描けたと思っていましたが、生命のへの感動を表現できていなかったのでしょう。 子どもの私は蝉の形そのものに惹かれて形を細かく描いたのですが、残念ながらそれは芸術ではなかった。もとより、大人にとっては見慣れた形に何の魅力も無かったことでしょう。
私は描きやすいようにと、死んだ蝉を見て書きました。 その蝉がまだ生きて動いていた時の姿や、目の前の蝉の中に死の姿を見たりはしていませんでした。 私が描いたのは命の抜け殻の形だけだったのですから、文字どおり子どもっぽい絵で、芸術作品としては評価が低くて当然だったと思います。

ただ、先生の評価はそういう観点からではなく、あくまで、「リアルなだけで、子どもらしくのびのびしていない」 という点にあったように思われました。
その時生まれた 「芸術とリアルは相性が悪いのだ」 という漠然とした概念は、その後かなり長い間私の頭を支配していたように思います。

さて、それを「小説」という芸術に持ってくると、どういうことになるでしょう?
私はここにもやはり、「こういうものが小説」 というステレオタイプが一般的通念としてあるように思います。
その通念は、はたして小説という芸術の真の姿を物語っているでしょうか? 
中でも、小説におけるリアルについては、戸惑いを感じることがあります。

というところで、まだ本題に入っていませんが、すでにずいぶん文字を費やしてしまいました。 以下は次回に回すことにいたします。

 

愛知県の N.K さんの 「沙羅と明日香の夏」 レヴュー

2011-10-01 15:56:49 | 読者さんレヴュー
愛知県にお住まいの K.N さんからレヴューをいただきました。 14番目のレヴューです。

               **************************************************


「沙羅と明日香の夏」読み終えました。

緋野晴子さんの自信作であることがよーくわかりました。

特に「星の谷」以降の展開がすばらしいですね。彼女たちと少年たちの交流がよかった。
(ただ○で助けた少年を○○させてほしくなかった。)

作者の意図した、いじめを受けた彼女たちが東三河の自然や少年たちとの触れ合いの中で、大切なことに気づき・・・

という展開、とても感動的でした。

特に東三河の自然のすばらしさ、おじいさんおばあさんの方言、いいですね。 

茶店・天文台など 「行ってみたいなあ」 という気持ちにもさせてくれましたし、「岡崎」 なんて地名が出てくる

とうれしくなったりもしました。 地元をあつかったものはいいですね。

 私的な希望を言うと、 「いわし雲」 でのいじめの状況描写実態がもっと読みたかった。

いじめをした里美や舞の家庭状況なども描写してくれると、彼女たちがいじめをした原因みたいなものもわかった

んではないか、なんて里美や舞が後の方で出てきたときにふと思いました。

               ***************************************************

そうですか。 いじめの状況描写がもっとほしかったですか。

そういえば、やまじろう さんも、「1章のいじめの描写には臨場感がなく、いじめ問題に関心のある人は少々

がっかりするだろう。」 と書いておられましたね。 

セネカ さんは、「作者は、いじめを書こうとしたのではないと思うのだ。いじめによって傷ついた者らが再生を

していく姿をこそ書こうとしたのである。」 とおっしゃっていました。

さてさて、どう読むかは読者さんしだい。 作者がよけいな返答をするのは止めておきましょう。

ただ、みなさんからいただくレヴューはすべて、緋野の次へのステップへの貴重なアドバイスとなっています。

どの言葉も、私の中に、創作へのヒントとして残っていることは間違いありません。 

レヴューをくださる方たちはみんな、私にとって得がたい先生です。 感謝しています。

K.N さん、ほんとうにありがとうございました。

「沙羅と明日香の夏」 緋野晴子著 (リトル・ガリヴァー社) 1,470円                                                   

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  *** 内容紹介 ***
 
中学時代に <空気> という、捉えどころのないいじめに傷ついた沙羅と明日香。

高校生になっても、沙羅は生への意欲を失い、明日香は自己嫌悪に苛まれていた。

奥三河の田舎で過ごしたひと夏の経験 ・・・・・満点の星空、谷川の清流、ホタルの谷の思い出、アル

タイルや奇妙な三人組との出会い、湯谷での発見とハプニング、鳳来寺山の仏法僧、嵐の中の出来

事、御園の天文台から望む宇宙、そして・・・・・

  「あたし、命の足跡残したいな」

命と生を見つめ、魂の再生に向かう、楽しく・切なく・発見に満ちた青春ストーリー。 
     

中学生・高校生のみなさんはもちろん、かつて思春期と呼ばれる時代を経験してこられた大人の皆様にも、きっ

と共感していただけるものがあるだろう思います。 懐かしくも、ちょっぴり胸の痛いあの頃。 柔らかく、傷つきや

すく、生きることへの不安や、寒さや、妙に熱い塊を抱えていたあの頃を、楽しく思い出していただけることでしょ

う。

 *短かった今年の夏を、「沙羅と明日香の夏」 で惜しんでください。