奇編という形容のついた車谷さんの短編集。 実は 奇 には 偏部に 田 がつくのだけれど、そんな漢字は今ではまずお目にかかれない。PCで打とうとしても出てこない。 風変わりな作風を強調しようとした編集者の作戦と思われる。 芸が細かいなぁ。
これは、ひとことで言うならば、人間というものの哀れなほどの愚かしさを一枚一枚、写真を撮るように短編の中に写し取った作品群。 が、それらには幾らかの差異がある。
・「非ユークリッド的な蜘蛛」~「白骨の男」までと 「恐山」 「光の壺」 は、それらの写真におどろおどろしい脚色や
仕掛けが施されていて妙に小説的な姿をしている。
・「人の足跡」 「奥山の六郎さん」 「温み」 「うちは口が軽い」 「貧乏な夫婦」 「ある田舎町の老妓」
・・・・これらはまさに写真そのもの。
孤独・欺瞞・バカバカしさ・つつましい生活の中の小さな楽しみと優しさと悲惨・生きることの酷さ・・・を、何の
脚色も加えず、咀嚼もせず、読者の前に、さあ何でも好き勝手に味わえ とばかりにポンと突き出している。
・ところが、味わおうにも味わいようのない作品群もある。
「ちのつく言葉」 「佐助稲荷の空き家」 「蛇捨て」 以降の自画像的な作品群は、私の理解の範囲を超えてい
る。まず、小説だとは思えない。 エッセイ? 回想録?・・・ そうだとしても、これらを書いたこと・読むこ
との意義がまったく分からないのだ。 ふ~ん と言う以外に何も無い。 面白味があるとしたら、語り口のうま
さだけだろうか。
これらの作品群には、この世を生きる 自我 というものが感じられない。 愚かなこの世にはまり込んで自分ももろ共に愚かに存在しているだけで、人間の愚かさや哀しさをただ呆然と眺めているだけで、そこから先には一歩たりとも歩を進めようとしていない。
ここでは、生きるとは無意味な馬鹿げたことであり、生を耐えて死を待つことであり、死は開放である。
それは確かに、生きることの一面の真理ではあると思う。
しかし、こういうものを読んでいると、私はどうしてもイライラしてくる。 「軟弱者!」と言いたくなってしまう。
私はこういうものは書かない。
この世に満ち満ちている愚かしさをただ穿り返したとて何になろう。
美しい蓮の花は泥の中から咲き出るではないか。
泥中には泥中の温みや気楽さやいくばくかの優しみもあろう。 それでもそこに埋没せず、光を求めて生きていく生き方だってあるのだ。
人間とはそういうものでもある。 泥の中にいても、光は見つけようという意思があれば見つかるものだ。
少し激してしまった。
表現はさすがに本職の作家さんだなと感心する。何の意味も無いような話が、意味ありげに面白く読める。
特に語り口がいい。
私の短歌コレクションの中に、2010年の朝日歌壇で見つけた大阪市の 山下晃 さんの歌がある。
汚れたる聖書のごとく繰り返し車谷長吉読む是非もなく
車谷さんには、信者に近い熱烈な読者さんたちがいるようだ。
それは分かる。 徹底したリアルの中に、麻薬的な魅力がある。
(これは単なる読書記録です。たいへん失礼なもの言いをしてしまったかと思いますが、押しも押されぬ車谷さんです。緋野ごときの独り言は意にも介されないと信じてUPさせていただきました)