おはようございます。
みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
本日は2007年5月24日の記事から抜粋させていただきます。
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まろやかな香気とほろ苦い味の美味しい珈琲を私は一人で飲んでいる。
あの夢をどのように表現しようか? と考えながら……。
透明に近い淡い彩りが微かにみとめられ、睡眠が幽かに解けはじめたとき、私は夢を見たのだ。
奥山に分け入る多くの人々の声は高らかに響き、聖らかな地のあちらこちらにこだまする。春の陽ざしは柔らかい。この人たちは誰なのだろうか? 高らかに響く明るく楽しそうな声は、聖らかな地のしじまを深く心にしみこませる。その沈黙の言葉が聴こえてくるようだ。
こんな山の奥に大きな池がある。自然のものではない。誰が造ったのだろう。庭だ。池のまわりには楠の木が聳えている。
私は楠の木を見上げていた。神韻とした庭は、楠の木と私だけだった。寂しいとか不安とかはない。多くの人々の気配を感じるからだ。爽やかで気持ちよい。
楠の木が大きくなった。私はなんだか誇らしげに楠の木の傍を歩いていた。すると煙草をうまそうにくゆらせながらふたりの笑顔の男が私の横に座った。老いた男はキセルを吸っていた。
「鑛(こう)」
ふたり一緒に私の名を呼んだ。
祖父と父だった。亡くなったはずなのに……。いや、死んではいない。
そう感じた私は、おもむろに私自身を見た。すると私は、私の息子だった。
なつかしい思いのする人たちが、たったひとりで何人も何人も楠の木を仰ぎ見ては感動して通って行く。たったひとりだが、誰も寂しそうではない。むしろ歓喜の表情だ。家内も子供も……。娘に手をひかれた孫もなつかしい。なぜなつかしいのだろう。
楠の木が樹齢千年にもなったのだろうか。私の子孫が大きな楠の木の傍らに立っていた。やはり誇らしげに楠の木を仰ぎ見ているその人は、先祖のまごころをしみじみとあじわい歓びにあふれている。
なぜか私も子孫の気持ちが分かり嬉しくなってきた。
さて、感動している子孫はどのような顔をしているのであろうか? と私は顔を覗き込んでみた。その顔は歓びいっぱいの私だった。
その途端、子孫の私は涙を流した。あたたかい涙だ。久遠即今、今即久遠、なのだ。久遠の今なのだ。今こそ久遠なのだ。と思った。
目覚めた私の目には熱い涙があふれていた。
私たちの意識は、世の中にうまく行動するために飼い馴らされた一面がある。その日常の意識を超えて、不思議な感触の世界が一瞬のうちに目眩く展開された。私はそれを「聖らかな幻夢」と呼んだ。
奥山に分け入りて聴こゆ歓声に 聖なる静寂深くしみいる
楠の木を仰ぎ見上げてあふれくる 不意の涙に久遠を想う
のちにそのときの夢を和歌にしたものだが、不意の涙に久遠を想ったのではなく、久遠を想うことに不意の涙が流れた、というのが本当なのだろう、と思った。
イギリスの作家であるアレックス・シアラー(Alex Shearer)の『青空のむこう』(金原瑞人・訳)を読み終えて、眠りについたからかもしれない。
青空のむこうから、ひとりの少年が降りてきた。
「やり残したことがあるから……」と。
〈彼方の青い世界〉に行く前に〈死者の国〉から〈生者の国〉へ。
少年は地上に飛び降りた。
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本日オフィシャルブログでは、
NAOさんの
「一歩一歩 成長していこう♪」と、
黒部 真理子さんの
「つぐない(上)」
を掲載させて頂いてます。
どうぞご覧下さい。
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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京開催決定!!
6/2中央区立産業会館10:00~16:00
ヒューマンライフセミナー in 東京は5月、7月の開催がありません。
今回席が少ないので、この機会を逃さずに、今すぐお申し込みください。
http://www.kou-sawatani.com/sem-hls.html#sem01
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みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
本日は2007年5月24日の記事から抜粋させていただきます。
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まろやかな香気とほろ苦い味の美味しい珈琲を私は一人で飲んでいる。
あの夢をどのように表現しようか? と考えながら……。
透明に近い淡い彩りが微かにみとめられ、睡眠が幽かに解けはじめたとき、私は夢を見たのだ。
奥山に分け入る多くの人々の声は高らかに響き、聖らかな地のあちらこちらにこだまする。春の陽ざしは柔らかい。この人たちは誰なのだろうか? 高らかに響く明るく楽しそうな声は、聖らかな地のしじまを深く心にしみこませる。その沈黙の言葉が聴こえてくるようだ。
こんな山の奥に大きな池がある。自然のものではない。誰が造ったのだろう。庭だ。池のまわりには楠の木が聳えている。
私は楠の木を見上げていた。神韻とした庭は、楠の木と私だけだった。寂しいとか不安とかはない。多くの人々の気配を感じるからだ。爽やかで気持ちよい。
楠の木が大きくなった。私はなんだか誇らしげに楠の木の傍を歩いていた。すると煙草をうまそうにくゆらせながらふたりの笑顔の男が私の横に座った。老いた男はキセルを吸っていた。
「鑛(こう)」
ふたり一緒に私の名を呼んだ。
祖父と父だった。亡くなったはずなのに……。いや、死んではいない。
そう感じた私は、おもむろに私自身を見た。すると私は、私の息子だった。
なつかしい思いのする人たちが、たったひとりで何人も何人も楠の木を仰ぎ見ては感動して通って行く。たったひとりだが、誰も寂しそうではない。むしろ歓喜の表情だ。家内も子供も……。娘に手をひかれた孫もなつかしい。なぜなつかしいのだろう。
楠の木が樹齢千年にもなったのだろうか。私の子孫が大きな楠の木の傍らに立っていた。やはり誇らしげに楠の木を仰ぎ見ているその人は、先祖のまごころをしみじみとあじわい歓びにあふれている。
なぜか私も子孫の気持ちが分かり嬉しくなってきた。
さて、感動している子孫はどのような顔をしているのであろうか? と私は顔を覗き込んでみた。その顔は歓びいっぱいの私だった。
その途端、子孫の私は涙を流した。あたたかい涙だ。久遠即今、今即久遠、なのだ。久遠の今なのだ。今こそ久遠なのだ。と思った。
目覚めた私の目には熱い涙があふれていた。
私たちの意識は、世の中にうまく行動するために飼い馴らされた一面がある。その日常の意識を超えて、不思議な感触の世界が一瞬のうちに目眩く展開された。私はそれを「聖らかな幻夢」と呼んだ。
奥山に分け入りて聴こゆ歓声に 聖なる静寂深くしみいる
楠の木を仰ぎ見上げてあふれくる 不意の涙に久遠を想う
のちにそのときの夢を和歌にしたものだが、不意の涙に久遠を想ったのではなく、久遠を想うことに不意の涙が流れた、というのが本当なのだろう、と思った。
イギリスの作家であるアレックス・シアラー(Alex Shearer)の『青空のむこう』(金原瑞人・訳)を読み終えて、眠りについたからかもしれない。
青空のむこうから、ひとりの少年が降りてきた。
「やり残したことがあるから……」と。
〈彼方の青い世界〉に行く前に〈死者の国〉から〈生者の国〉へ。
少年は地上に飛び降りた。
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本日オフィシャルブログでは、
NAOさんの
「一歩一歩 成長していこう♪」と、
黒部 真理子さんの
「つぐない(上)」
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