しいたけの伊豆高原情報と放浪旅

(伊豆をバイクで回って10年、伊豆高原に住んで26年目に突入、いろんな事がおこりますねえ!)

今日は月形にある樺戸監獄博物館を訪問します

2017年08月24日 | バイク&キャンカー&鉄道&船旅
・                            【北海道の地名の大半はアイヌ語から来ていますが】

月形町は監獄を開いた月形潔の名前からとっていました、

「明治維新後は、新政府に雇われ福岡藩権少参事として勤務する。潔はこのとき藩が組織的に行っていた贋札事件の調査を命ぜられる。
 事件そのものは政治決着により片付けられたが、この時の働きが評価され1877年(明治10年)警察の巡査隊長に任命され西南戦争の鎮圧に当たる。
 その後司法省八等出仕、東京裁判所小検事、内務省御用掛を歴任する。
 西南戦争が終わった頃から政府は相次いで起こった内乱の逮捕者を収監する施設の建設が急務となった。
 本来危険分子の隔離が目的であったが、当時政府はロシアの南下に備える為に北海道の開拓を推し進め北の守りを固める方針をとっていた。
 しかし、北海道開拓は遅々として進まないことから内務卿の伊藤博文は囚人を安価で使える労働者とみたて囚人に開拓にあたらせることを発案し、
 監獄を北海道に建設する方針を固める。政府は開拓長官黒田清隆に監獄候補地の推挙を求め、この現地調査にかねてから官吏として評価の高かった潔ら7人が抜擢される。
 伊藤博文と山縣有朋が信頼してのものだった。」

国策として士族の反乱分子を抑え、遠くの北海道:樺戸監獄に送って治安の安定と北海道開発の礎と作ったのでした、
この時同じ福岡県の黒田藩から看守として駆り出されたのが僕の曽祖父であったのです

(実は僕にはママと同じ九州の血が流れているのでした)


・                            【今日も車中泊は新篠津の道の駅にしました】

北村温泉前の広場のほうが月形町にいくには便利なのです、残念ながらトイレは綺麗なのですが、夜に明かりが点きません


・                            【新篠津のパーク場もお気に入りです】

一人パークでも皆さん僕を誘ってくれます、今日はKさん、Sさん、Oさんと一緒に回ります、Sさんのお名前はママと同性同名でありました
和気あいあいに4人でプレイしますとパークの楽しみが倍増してきます


・                            【月形刑務所は樺戸監獄と申しました】

北海道は網走刑務所が有名ですが、歴史的にはこちらの設立に意義があると思います、各地で起こった士族の反乱を抑え、反乱分子を
物理的に隔離すると共に囚人労働により北海道開発を促進でき、ロシアの南下政策にも抵抗できる国策を担った方針でした

(明治の元勲の影がしばしば登場してきます)


・                            【月形町の名前の残した月形潔です】

「開拓使による集治監候補地は十勝川沿岸、有珠郡奥後志山麓(羊蹄山)、石狩川上流方面の三箇所で、月形らは3班に分かれ調査を行った。
 月形が調査を行った石狩川沿上流は「シベツブト(上シベツ辺とも)」と呼ばれる土地で、樹木が生い茂り正に原生林そのものであったという。
 他の候補地に比べ石狩川という水上交通を利用でき、札幌に近いことからこの地と決め、1881年(明治14年)に建設された。
 建設された樺戸集治監の初代典獄(刑務所長)に月形が就任し、2000人もの囚人が収容された。月形はまず戸籍を福岡から樺戸に移し、
 率先して開拓にあたった。月形の指揮する囚人達は効率よく開拓を進め、後に国道12号(札幌~旭川)等北海道の主要道路とされるものの原型は彼等が作った。
 1884年(明治17年)北漸寺仮御堂等を建設する。当時の樺戸集治監には官舎がなかった為月形も典獄といえども囚人と同じ場所で起居したという。
 月形が典獄を務めたこの頃集治監には「五寸釘の寅吉」で知られる西川寅吉や贋札作りの名人熊坂長庵等が収監されていた。
 熊坂は樺戸にいる間に村人に絵を教えていたという。また、当時小樽に在住だった新撰組の生き残りの永倉新八に依頼して明治15年から4年間、
 同集治監の剣術師範に招き、看守らに剣術の指導を受けさせた。村人は月形のこれらの功績を称え同地を「月形村」と提案し、内務省もまた認可を与え樺戸郡月形村となった。
 1885年(明治18年)に潔は肺を患い郷里の福岡で静養する。1894年(明治27年)死去。」


・                            【反乱士族を抑える看守も厳しかったと思います】

祖父も母たちには厳しかったと申しますから、九州男子の曽祖父はなおさらだったと思います、屈強な士族出身の囚人を力で押さえるのは
看守の側も相当厳しく取り扱った筈です、脱走事件や反乱事件が多数発生しておりました


・                            【囚人には人権など全くありませんでした】

看守と囚人の関係は実際どうだったのでしょうか、囚人といえども政治犯ですから犯罪を犯したわけではありません

(記録にあるのは樺戸監獄の歴史だけです)


・                            【後年になると樺戸監獄は重罪人だけが送られて来たそうです】

月形監獄は現在モダンな近代的建物となって存在していまして、刑務所で製作される家具や置物がいつでも買えます

(孫のお土産に僕も買ってしまいました、誰が作ったか分からないけれど大事にしてください)


・                            【博物館には当時の農家の暮らしぶりも展示されていました】

僕の記憶の中にも畑を走る馬橇の姿は残っております、囚人労働は過酷な道路建設や鉄道建設だけではなく農作業にも駆り出されていました


・                            【治水工事により石狩川は氾濫しなくなりました】

川さえ氾濫しなければ肥沃な大地が広がる土地柄です、今では月形、新篠津、北村あたりは豊かな農産地区に生まれ変わりました



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