拝啓 陸の孤島から

いいことがあってこその 笑顔じゃなくて
笑顔でいりゃいいこと あると思えたら それがいいことの 序章です

希望。

2006年09月06日 21時02分35秒 | お仕事の話
勝手に毎学期頭初の恒例にしているんですが、
A4一枚に生徒にその時その時に伝えたい言葉をしたためています。
今回はかなり暗いものになってしまいましたが、
これから就職して行く子たちにどうしても贈りたかったです。

改行メチャクチャだから読みにくいかもです。


「希望」

 しつこいようだが、ミスチルの「くるみ」という曲が好きである。

  希望の数だけ失望は増える
それでも明日に胸は震える
「どんな事が起こるんだろう?」
想像してみるんだよ     (Mr.Children「くるみ」)

 しかし、現在はこの「希望」が危機にさらされている。

 現代ほど、「希望」という言葉が注目されている時代はないと言っても過言ではない。ある調べでは、「希望」という言葉が題名に入っている本の数が、1998年から急増しているという。また、「希望」という言葉をインターネットで検索してみると、約一億一千万件ヒットした(ちなみに、「夢」は九千万件、「愛」は八千五百万件だった)。ではなぜ、「希望」という言葉がこれほどまでに注目されるのか。

 それはもちろん、人々が社会に「希望」を見出せなくなって来たからである。

 「格差社会」という言葉を聞いたことがあると思う。「勝ち組」だとか「負け組」だとか。この「格差社会」が何を基準に勝ち負けを判定しているのか、と聞かれれば、ほとんどの人がお金と答えるだろう。連日テレビを賑わせるIT長者の姿を見れば、「ああ、あいつらが勝ち組か」と思うだろう。しかし、自分が「負け組」だという自覚はあまりないのではないか。「勝ち組」でなくても、海外旅行に行ける、家にはケータイやパソコンがあり、時々であればちょっと贅沢な外食もできる。決して「負け組」=「貧乏」ではないのである。

 だが、この図式は「一億総中流」という考え方に支えられている。日本が戦後に高度経済成長を遂げて、いかにも日本的な横並び意識によって日本人全員が「金持ちというわけではないが貧乏ではない。自分はいわゆる「中流」なんだ」と思った考え方である。そして、努力して良い学校や会社に入れば上流にもなれると信じていた時代だ。

 しかし、この「一億総中流」は崩れてしまった。日本がアメリカ型の市場主義を受け入れていく以上、金持ちに金が集まるシステムは強化されていく。マイクロソフトの社長ビルゲイツ一人で、下位45%(およそ一億五千万人)分の資産を有していることは有名な話である。アメリカの南部を襲ったハリケーン・カトリーナを思い出してほしい。あの時、自家用ジェットなどを持っているわずかな富裕層は真っ先に逃げた。その他の大多数の下流層は避難することもできず、電気や水道がストップして衛生状態の悪化によって病気になっても、健康保険を納められないために病院にも行けなかった(そのかわり、ここぞとばかりに街を襲って略奪を繰り返したが)。現在、アメリカは1%の富裕層と99%の下流層によって構成されている国である。

 やがて、日本も、そうなる。

 経済的に格差が出始めると、次第に「希望」にも格差が生まれてくる。金持ちはますます金持ちに、貧乏はますます貧乏にというシステムが見えてくると、教育・就職・結婚などの局面で「どうせがんばってもはい上がれない…」という思いが芽生えてくるのだ。これを社会学者の山田昌広は「希望格差社会」と呼んだ。日本が資本主義社会、つまり競争を強いられる社会である以上、すべてが平等というわけにはいかない。それに関しては、「スタートラインが同じならゴールで少々差が出るのは仕方がない」として目をつぶってきた。しかし、「希望」の喪失はスタートラインにも格差を生む。現在は、平等な社会などでは、ない。これらの弊害は日本においては、フリーターやニートという形で出てきたし、不満は「ナンバーワンよりオンリーワン」や「自己責任」という言葉で誤魔化されている。

 暗い話ばかりである。右を向いても左を向いても。時代のせいだと言ってしまえばそれまでだが、じゃあ、戦争やってた時代に戻るか?と言われるとそれも困る。大変陳腐な結論で申し訳ないが、どんな時代状況であろうと、一生懸命に「希望」を持って生きるしかないのである。自分に見切りをつけてはいけない。自分を諦めちゃいけない。安西先生だって言ってた。「諦めたらそこで試合終了だよ」と。

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