今朝7時、お天気サイトによれば気温は氷点下3度。
それほどでもないといえばないですが、それでも窓は結露が凍ってがちがちです。カーテンひいてないと部屋干しした洗濯物がくっついちゃいます
朝7時に屋外放送でチャイムが鳴ると「BSフジ!!」のために飛び起きるちなちょ。朝からお子様タレントが出る番組やら何やらやるわけですが、それがすっかりこだわりと化し、迷惑千万。
正月中は番組があるのかないのか知らないが、「今日はありません」の一言で眠りに入ってしまったので「やった」とばかりにひとりお茶する母であります。昨日の日記を思えば「ならば働け!!」なんだけどね
少し前の話になりますが、子供たちの個別懇談会がありました。
二人とも特別支援学級ですから、原学級の先生と支援の先生×2で先生4人と面談します。
ありちは6年生になって以来、ほとんど原学級には行かれていないので、当然原級の先生の話などそうそうあるものではありません。
原級に行かれなかったのは、荒れた学級のとげとげしい雰囲気の中にいることがつらかったからのようですが、担任様の努力もあり、だいぶ安定してきた様子。ありちも運動会や修学旅行では、いっしょの班のメンバーを工夫してくださり、参加することができました。
しかし、その班組みも、よく聞けば「クラスの子たちが誰とならありちがいっしょに過ごせるか、子供同士で話して決めた」のだそう。
これは、本当に涙の出る思いでありました。
4月には中学に行くのですが、その前にもう少し、学級に参加できたらいいと思い、「まずは大好きな理科から学級に戻れませんか?」と担任様に進言。「やってみます。」というわけで、2学期も終わるころ、久しぶりに原級の理科に参加できたそうです
特別支援の先生は、4月に交代があって以来、支援学級としては初めて父兄が顔を突き合わせて「この先生は困ったぞ・・・」とみんなでため息ついたり怒ったり。4人の子供たち誰も教室に近づけないという異例の事態を引き起こしたお方
しかし、こちらも母たちみんなで連絡帳やら何やらでそれこそ先生を「ほめてなだめて、その後にお願いごと」を書いて(申し合わせたわけでなく、自然とみんなそうなったらしい^^;)やっと落ち着いたクラスに」なりつつあります。
彼女は、ありちの話をしながら涙を流しました。「自分はコンサータを飲んでいるから普通の人とは違うんだ。」と友達に話しているのを目撃して切なくなったというのです。そして、ちょっと前にあった6年生の音楽発表で、ありちが見事にキーボードで参加できたとき「ありちは特別じゃない、みんなと同じだよ。」と言ってくださったとか。
ありちのことで涙を流してくださったことに母もさすがに涙でうるうるしました。
しかし、おそらくありちはマイナス感情で「自分は普通と違う」と言っていないと思う。色々苦労はあるけど、それでも自分の障害についてはそこそこ受け入れしているらしい様子でいるので。
「自閉症は自分の一部で、自分の個性。一生付き合う自分の一部である。」そのことをわかるという意味では「みんなと同じではない。」ありちは自分でもうわかっていると思う。だから泣かないでください。そう、先生にお願いした。
以前にも書いたと思うけれど、「障害が個性の範囲か障害の範囲か」ということで、親も周辺もおおいに振り回されるけれど、重かろうが軽かろうが、やはり障害は障害として受け入れられるべきで、「個性の範囲なら正常」とされたら「個性の範囲でも自閉症」の本人は困っていることがあっても気づいてもらいにくくなる。
障害そのものがその人の個性であって、障害のあることと健常の間に「個性の範囲」という言葉が存在することが・そもそもそもそも紛らわしいのではないかと思うこの頃。
ちなみにありちは高機能ではあるけれど、「自閉的」(自分の世界が強い)という意味では文句なく自閉症で、実は見た目以上に日常的な困難があることが、最近わかった。
けれど、卒業に向けた文集を、あの「書くことが大嫌い」のありちが、3時間近くもねばってわからない漢字を調べたり先生に聞いたりしながら書き上げたとか。
先生もいろいろ問題はあったけど、ありちに向ける視線がやわらかく、また養護学校を経験してきた経験がうまく生きてきているように思え、切り替えのタイミングもナイスな感じでまわっているようす(母がこんな生意気な話で申し訳ないですが)
やっと、卒業に向けていろいろ考えられる体制になったように思います。。。。。。と、こたろんが書くとそのあとに何か勃発するのが常ですが(汗
さて、1年生のちなちょは「個性の範囲」も何もあったもんじゃなく、自閉症が服着て歩いてるような子です
その上すっごい自由人ですので、まわりの苦労も絶えないのですが、こちらは原級、支援級、それに支援員さんの連携がばっちりとれているので問題は山積していても、それを「問題ととらえない」いい雰囲気があります。
「お友達の髪の毛引っ張っちゃうけどちゃんとごめんねが言える」とか、マイナスなこともちゃんとプラスに転換してほめてくれる先生とお友達がいることがちなちょの幸せ。
そういう方向に学級を引っ張ってくださった担任様、時々ちなちょの特徴をうま~~~く、学級に還元して関わってくれる支援の担任様、ちなちょに程よい距離感で、一生懸命勉強しながらついてくれる支援員さん。
養護学校でもおかしくなかったちなちょが今日まで学校で過ごせているのはこのお三方の連携のおかげです。
そして、ここは強く主張したいのは、障害についての知識だけでなく、ちなちょという子をしっかり見つめて必要なことは支援し、こここは強制してまでやらせる必要もないところはゆるめ、〆るべきは〆。
そのおかげでちなちょは思った以上に落ち着いて学校生活を送れている。
それを見ているクラスの子たちも、ちなちょがパニックしたらいたずらに騒がず見守るとか、ちなちょが支援に行きたくなくて大騒ぎで先生が困っていると「先生これ使いなよ」と支援級の写真カードを子どもが差出し、まるで水戸黄門の印籠をみたように「支援に行きます」とちなちょがいきなり切り替わった話とか、そういうことにつながっていっているのだと思います。
これまでに何人もの先生と出会ってきました。
押しなべて言えることは、あんまり真面目で「こうでないとダメ」な先生とはどうもうまく咬まない気がします。
それは自閉症だからとか健常とか、あまり関係なく、適当にゆるさというか、考えにあそびの部分があって、相手にアジャストできる先生、ようは臨機応変てことなんでしょうけど、そういう方に出会ったとき、子供たちがグンと伸びていくように思いました。
先生だって人それぞれですけど、本当の意味で「大人」の先生ってちなちょみたいな激しい子がきても「おもしろいねえ^^」と行動を楽しみつつ修正していける余裕がある、そこが「あそび」の部分なんだなあ・・・と思います。
そんでもって・・・・「お母さんが一番大変なところを引き受けてくださるから(余裕をもって)接することができる」・・・・・そう、母まで持ち上げてくださるので、母としては日頃やっぱり大変で、泣いてばっかりいてもこう言われればまた力が湧くというもの
おだてであっても本気であっても、そう言って日頃の苦労をねぎらってもらったら、そりゃあもう、涙のこぼれる思いです
ありちの原級担任様は、すっごい真面目ないい子先生です。昔の自分を眺めるようでありますが(あんなにきちんとしていなかったけどね^^;)それゆえに「こうあるべき」考えでかたまっているのだと思いますが、子供の気持ちを読み誤った結果、クラスが大変なことになってしまった・・・そんな印象があります。
こたろんだって、全然まだまだですが、でも、ありちの担任様を見ると「苦しいだろうなあ・・・」と思います。
こたろんもある意味ゆるみっぱなしだけど、その反面「こうしなくちゃ」の焦りがあるからこの頃の「掃除できなくて苦しい」日記になっていき、苦しいからますます身体が呪縛されたように動かなくなる・・・・システムとしてはそんな感じだと思います。
10月に、シャンソンとジャズのコラボコンサートをこたろん企画でしたんです(これは色んな物議を引き起こし、こたろん自身がまだ立ち直れてませんが)。
ここに、小学校の担任の先生きてくださいました。
こたろんが夏目漱石「坊ちゃん」を借りようとして「今のあなたが読んでも面白くないよ」とおっしゃった先生です。
今となれば、そう思います。
「くそまじめ」の異名をとったこたろんを、一番心配してくださった先生です。
久しぶりに大作を書きましたが、ちなちょが起きたのでこの辺で@9:05。
このごろ色々考えたこと、でした