勉学の「学ぶ」という字は「まねる」が起源らしい。学校で教えられたことを正確に「まねる」ことが学校の成績のいい人になり、いい職に就き「人生の成功者」となる。下手に疑問を感じたり、立ち止まり熟考したりすると「人生の落後者」になりかねない。
ただ「まねる」行為の行く末は、誰かに教えることのできる人、学校の先生にはなることができる。しかし2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の本庶佑特別教授のような人には到底なれないだろう。
「東大までの人・東大からの人」という本があるように、世の中には「そこまででいい人」と「そこからの人」が存在する。
「国会議員になって、総理大臣を目指さない人はいない」と政治評論家はコメントする。しかし総理から「大臣の座」に乞われ、一度断って派閥の長に怒られ、考え直した国会議員がいた。「平国会議員でいい」と思っていたのが、突然「声掛かり」があって面食らったのだろう。本庶佑特別教授の言う「疑問を持つ」すべてを「疑ってかかる」という姿勢からは、「学ぶ」=「まねる」という「暗記の弊害」は見られない。
暗記して成績を揚げてきた人を優遇する風潮は、昨今のテレビのクイズ番組の高視聴率が物語っている。質問の回答は単なる暗記そのもの。「カラスかあかあ・猫にゃんにゃん」 程度のもの。
本庶先生の言う「教科書に書いてあることを信じない」ということになれば、毎日何冊もの教科書を背負って通学することの意味も考えなければならない。(続く)