史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

欠史八代(続)

2020-07-19 | 古代日本史
足利氏の家史から読み解く欠史
もう一つの事例として、室町幕府の足利将軍家を見てみると、もともと下野国足利郡を本貫とする足利氏は、第五十六代清和帝の流れを汲む清和源氏の一派で、その系譜は清和帝の孫の経基が賜姓降下したことに始まります(尤も当人は皇籍を外されたことに憤慨していたとも言われますが)。
やがて経基は受領として関東に赴任した折、任国の郡司と揉めて平将門の介入を招くなど、承平天慶の乱の一役を担う形で歴史の節目に幾度か登場します。
この経基の子が武家源氏の祖とされる源満仲で、摂津国多田荘を本拠としたことから多田満仲とも呼ばれます。
後に武家の棟梁を世襲するのは、この満仲の三男の頼信の家系で、頼信の本拠が河内だったことから、この系統を河内源氏と言います。



武家の棟梁として河内源氏の地位を確固たるものにしたのは、頼信の子で前九年の役に陸奥守と鎮守府将軍を兼任した頼義であり、その頼義の子が後三年の役を指揮した八幡太郎こと義家です。
因みに頼義の正妻つまり義家の母は、鎮守府将軍平貞盛の曾孫に当たる平直方の娘であり、後に頼義の子孫から鎌倉に幕府を開く頼朝が出て、その外戚である北条氏は直方の子孫を称していましたので、頼朝と北条時政の関係というのは、頼義と直方の関係が数代後に再現されたものだとも言えます。
続く義家の子の代で棟梁家と足利氏の系統は分かれ、河内源氏の四代目として家督を継いだのは嫡子の義忠でしたが、この義忠は身内に暗殺されたため、義忠の子ではなく親族の為義が五代目を継ぎました。
為義は一般に義忠の異母兄義親の子とされますが、義家の子で忠義の弟とする説もあるなど、その続柄は判然としません。
この為義は頼朝や木曽義仲の祖父に当たります。

一方足利氏を輩出するのは義家の三男義国の系統で、この義国は父義家が関東に所有していた私領を相続し、更に開墾を進めて次男の義康に下野の荘郷を伝領しました。
また隣接する上野国新田郡の開発にも着手し、これら上野の荘郷は庶子(義康の異母兄)の義重に受け継がれています。
ただ彼自身は前半生を都で過ごしており、その後も関東由来の苗字を名乗った訳ではないので、実質的には義康と義重がそれぞれ足利氏と新田氏の始祖になります。
また義家には義綱と義光という二人の同腹弟がいましたが、三男の義光は早くから関東に腰を据えて東国の経営に乗り出しており、後三年の戦役後は常陸介や甲斐守を歴任しながら次第に勢力を広げて行き、その子孫から常陸の佐竹氏や甲斐の武田氏等を輩出しています。
因みにこの義光も常陸平氏の有力一族から妻を迎えており、これが関東のみならず新天地で地盤を築く際の常法だったことが分かります。

足利氏初代の義康は、鳥羽院の建立した安楽寺院に足利荘を寄進して、自らはその下司に収まると共に、これを機に北面の武士として鳥羽院に仕えました。
義康は鳥羽院からの信頼も厚く、蔵人や検非違使、陸奥守等を歴任して陸奥判官と呼ばれています。
上皇の崩御後に起きた保元の乱では、平清盛や同族の源義朝と共に後白河帝に与し、清盛と義朝に次ぐ兵馬を従えていたと伝えられます。
乱後の論功行賞では従五位下に叙せられ、昇殿を許されるなど武家として前途洋々たる義康でしたが、翌年病に斃れて三十一歳の若さで急逝しました。
時に嫡子の義兼は幼子であり、従って源義朝が続く平治の乱に敗れ、義朝自身は家人の裏切りによって命を落とし、長男の悪源太義平は処刑され、嫡男の頼朝が流罪となるなど、河内源氏の本流が崩壊して行く中で、幸い足利氏はその渦中から外れており、幼主義兼は伯父の(新田)義重の庇護を受けていたとされます。

義康の正妻つまり義兼の生母は、熱田大宮司藤原季範の娘(養女)であり、義朝の正妻つまり頼朝の生母由良御前の妹に当たります。
従って頼朝と義兼は母方の従兄弟同士という関係にあり、そうした縁故もあって義兼は早くから頼朝に近侍していたといいます。
頼朝の挙兵後は、木曽義仲の討伐、平氏の追討、奥州征伐等に従軍し、頼朝知行国である上総の国司や出羽の追討使を託されるなど頼朝の信任も厚く、将軍家の門葉として一門待遇を受けると共に、頼朝の計らいで北条時政の娘時子(政子の妹)を娶り、北条氏とも姻戚関係を結んでいます。
つまり妻方を通して頼朝とは義兄弟でもある訳です。
これらは成人前に多くの身内を亡くした頼朝が、いかに近縁の義兼を頼りにしていたかを示すものですが、晩年の頼朝が一転して源氏の粛清を始めると、足利氏の威勢も一時的に縮小しました。

やがて頼朝死後の政情不安を経る過程で、他氏同様に足利氏もまた幾度か存亡の危機に瀕したものの、義兼以後も姻戚を重ねて北条氏との絆を強めた足利氏は、建武に至るまで北条得宗家に次ぐ家格を幕府内で保ち続けました。
但し本領である下野の守護職は、同じ下野の有力御家人である小山氏が世襲していたため、足利氏は代々上総と三河の守護を相伝しています。
後に室町幕府を開く足利尊氏は、初代義康から数えて八代目当主になりますが、尊氏が後醍醐帝に呼応して幕府に反旗を翻した際、全国の御家人が彼を新たな大将に仰いで付き従ったのは、足利氏が源家の棟梁の血を引く家系だったということも然ることながら、鎌倉にあって長く北条氏に次ぐ家柄だったというのも大きいと言えます。

足利氏と松平氏
そして改めて言うまでもないことですが、誰しも気付く通り足利氏にも二人の初代がいることが分かります。
まず一人は父義国から下野の所領を相続して関東に土着し、足利の地名を苗字とした義康であり、もう一人は室町幕府の初代将軍尊氏です。
他にも松平氏と足利氏には類似点があり、まず両家共に始祖が移住者だということで、逆に言えば本貫の地に腰を据えた人物を以て初代としていることです。
無論一口に移住者と言っても、松平家の始祖親氏の素性はどこの誰とも知れぬ旅僧であり、松平郷の名主だったという義父の信重にしたところで、果して本当に太郎左衛門尉信重などと名乗っていたかどうかは定かではありません。
それに対して足利氏は歴とした清和源氏であり、関東への定住は文字通り都(高天原)からの天降りです。
そして足利氏の祖である義兼と新田氏の祖である義忠は、共に棟梁義家の孫つまり天孫でした。

また幕府を開いた家康と尊氏を共に氏族の嫡流とする点も同じですが、これには両家共に異論があって、確かに家康と尊氏は必ずしも長男の家系という訳ではないので、本来の両家は支流であり、何らかの理由(当主の戦死等)で本家が衰えたために惣領の座を継いだか、或いは後に家康や尊氏を輩出したが故に嫡流とされたではないかとする説も根強くあります。
また両家共に決して独力で天下を取った訳ではないのも同じで、家康は織田家と同盟を結ぶことで勢力を拡大しており、信長亡き後は豊臣政権内で大老筆頭の地位を占めるなど、信長と秀吉の業績を継承する形で天下を得ています。
一方の尊氏も初めは北条氏、次いで後醍醐帝と、時の権力者に仕えることで実力を蓄え、その政権を覆すことで天下を奪取しているので、徳川足利両家の行き方は東征の本質を考える上でも参考になるでしょう。

清和源氏の系図から読み解く欠史
そして田舎の土豪である松平氏は、親氏から遡って祖先を探るのが難しいのに対して、賜姓皇族の後裔である足利氏は、初代義康以前の祖先には無論のこと、義国以前に枝分れした同族にも更に重厚な歴史を有しています。
そこで前出の改訂を加えた皇室の系図と足利氏の系図を見比べてみると、平氏の場合と同じようにかなりの類似性を見出すことができます。
改めて説明しておくと、天皇の公式な系図上では、天孫瓊瓊杵尊と大国主命は共に素戔嗚尊の子孫とされています。
しかし周知の通り、それでは各世代の相関図が崩壊してしまうので、まず両者が素戔嗚尊の子孫だという設定を外し、瓊瓊杵尊は高皇産霊尊の外孫であること、大国主命はとある神の六代の孫であること、出雲大社には別天神の五柱が祀られている(つまりこの五柱までは高天原系と出雲系の共通の祖先である可能性を見出せる)こと、大国主命は天照大神に国を譲ったこと等の設定だけを残して再編したのが、ここに示した系図です。
無論これはあくまで仮説の一つに過ぎず、現時点での結論ではありませんし、ましてや解答でもありません。



見方を変えてみると、清和源氏は既に二代目の満仲の代から武家として知られており、中でも頼信流の河内源氏は代々武家の棟梁と呼ばれ、頼信から数えて七代目の頼朝の代に一度天下を取っています。
そしてこの頼朝が創り上げた社会と言うのは、これを境に日本史を新旧に二分するほどの革命であり、明治維新まで続くその後の日本史に於いては、頼朝こそが全ての日本国民の始祖と言っても過言ではありませんでした。
しかし頼朝の家系は僅か二代で滅び、以後しばらくは外戚の北条氏が諸豪族との合議によって政権を代行していましたが、やがて清和源氏の別流になる足利氏から再び天下人を出しました。
その際に室町幕府初代将軍の尊氏が、自家が支流であったことを抹消して、あくまで源家の嫡流であると自称するために、義国以降の系図を伝説的英雄である頼朝の下に移動させたとすれば、その形は天皇の公称系図とほぼ一致します。
当然時系列は崩壊してしまう訳ですが、そこは頼朝以前を神世ということにして誤魔化すしかありません。

【 関連記事 】


コメントを投稿