史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

記紀神話:日本と大陸の神話の間で

2019-11-06 | 記紀神話
一書に曰く(第六)
(冒頭部は前出)火の神軻遇突智が生まれるに至って、伊弉冉尊は焦かれて世を去った。伊弉諾尊が十拳剣を抜いて軻遇突智を三段に斬ると、それが各々神になった。また剣の刃から垂れた血が天安河辺にある五百箇磐石となった。これは経津主神(ふつぬしのかみ)の祖である。また剣の鐔から垂れた血が神となった。名を甕速日神(みかはやひのかみ)と言う。次に熯速日神(ひのはやひのかみ)。この甕速日神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖である。また剣の鋒から垂れた血が神となった。名を磐裂神(いはさくのかみ)と言う。次に根裂神(ねさくのかみ)。次に磐筒男命(いはつつのをのみこと)。また剣の頭から垂れた血が神になった。名を闇龗(くらおかみ)と言う。次に闇山祇(くらやまつみ)、次に闇罔象(くらみつは)。

一書に曰く(第七)
伊弉諾尊は軻遇突智を三段に斬った。その一段は雷神となった。一段は大山祇神となった。一段は高龗となった。また軻遇突智を斬った時に流れた血が天八十河原にある五百箇磐石を染め、そこに神が生まれた。名を磐裂神と言う。次に根裂神。児の磐筒男神、次に磐筒女神。児の経津主神。(後略)

一書に曰く(第八)
伊弉諾尊は軻遇突智を五段に斬った。これが各々山祇となった。頭は大山祇となり、身中は中山祇となり、手は麓山祇となり、腰は正勝山祇となり、足はシギ山祇となった。この時に斬られた血が流れて、石礫や樹草を染めた。これが草木や砂石が自然に燃える理由である。


『日本書紀』に見るカグツチ
カグツチの血から八柱の神が生まれたという話は、(その組合せが一部異なるものの)『古事記』と『日本書紀』一書(第六)でほぼ同じ内容です。
但しミカハヤヒとヒハヤヒを見比べてみると、『古事記』が「甕速日・樋速日」とするのに対して、一書(第六)は「甕速日・熯速日」としています。
「甕」は「かめ」のことで、「樋」は「とい」なので、どちらも水に関する文字を当てる『古事記』に反して、「熯」は「火がさかん、かわかす、あぶる」等の意味となり、発音は同じながら両書で全く正反対の神名となっています。
またミカヅチも『古事記』は「御雷」としますが、一書(第六)は「甕槌」としており、当てられている文字の違いと、その意味するところを見比べているだけでも飽きません。

次にイハサクとネサクを見比べてみると、『古事記』は「石拆・根拆」、一書(第六)は「磐裂・根裂」なので、使われている文字が違うだけで語義は同じです。
ただイワサクとネサクは、その言葉の通り「岩をさく・根をさく」という意味なので、一書(第六)の方が分かりやすくなっています。
闇は谷を意味する言葉ですが、一書(第六)が闇龗・闇山祇・闇罔象の三柱を挙げるのに対して、『古事記』は闇淤加美と闇御津羽の二柱だけで、闇山津見はカグツチの死体から生まれた八山津見の一としています。
オカミは龍の古語で、専ら雨を司る神として信仰されています。
一書(第七)は更に単純で、斬られたカグツチから雷神・山祇・龍神(高龗:高は山頂)の三神が生まれ、流れた血からイハサク・ネサク・イハツツが生まれたとしており、その言わんとするところが最も分かりやすい内容となっています。

一書(第八)によると、斬られたカグツチの血が流れて岩石や草木を染めたため、時にこれらが自然発火するのだといいます。
以上ここまで読み進めてみれば、『古事記』だけでは分かりにくいのですが、火の神カグツチの死は火山の噴火を神話化したもので、飛び散った血というのが溶岩であることは誰の目にも明らかでしょう。
今も日本は世界屈指の火山国であり、古来日本人にとって火を司る神とは火山に他なりませんでした。
恐らくこのカグツチの神話というのは、遠い昔に起きた大きな噴火が下地になっているのでしょう。
またカグツチからは水を連想させる神々も生まれていますが、実は火山と水は密接な関係にあって、噴火によって造り変えられた地形が水を湛えて湖川や地下水となり、やがてそれが新しい生命を育んで行きます。
言わば噴火による破壊は決して永遠の死滅などではなく、同時にそれは新生への序章なのであり、そうでなければ世界で最も火山による災害を被ってきた国の一つである日本が、今もなおこれだけ豊富な緑に覆われている筈もありません。

海外の神話との類似点
また記紀神話の逸話の中には、大陸の神話の影響が見られるとの指摘もあります。
確かにそれは事実なのですが、そもそも記紀は万人に向けて著された書物ではなく、特に官撰史書の『日本書紀』は記述自体が漢文であるように(因みに律令も漢文です)、漢籍に関する最低限の教養を有する者だけを対象にしています。
従ってそれが漢籍を原典とする挿話であることは、それなりの学識を持つ者が読めば一目瞭然な訳で、『日本書紀』に多用される漢語の史書からの引用などは、むしろ意図的にその出典を連想させるものです。
余談になりますが、平安時代も中期になると律令はすっかり形骸化し、三代実録を最後に史書の編纂さえ行われなくなりましたが、これは仮名混じり文の普及によって漢文の読解能力が低下したためだとする見方もあります。

記紀神話と大陸の神話との間の類似性については、周知の例として『淮南子』を始めとする道教の諸典から引用したと思われる箇所がまず挙げられ、天地開闢の描写などはほぼ同じ内容と言ってよいでしょう。
同じく記紀神話と比較される大陸の神話の一つに、中国神話に出てくる創世神磐古の伝承があり、特に天地創造を終えた磐古の体から万物が生まれ、その頭が五岳になり、その左目が太陽、右目が月になり、その息が風になった等の件は、確かに記紀神話との共通点が見出せるものです。
尤も磐古の伝説にしたところで、『日本書紀』内の一書や『新約聖書』内の福音書のように、同じ事柄を語っていても書籍によってその内容には微妙な相違が見られ、明らかに後世の加筆と思われる創作も認められるので、必ずしも太古の神話とばかりは言えない部分もあるのですが。

また日本と他国の神話との間に見られる親近性については、果してそれらの神話が渡来人によって自然に持ち込まれたものなのか、或いは記紀編纂の段になって故意に模倣したものなのか、それらを個別に線引きするのは甚だ難しいものがあります。
更に言えば、そもそも始まりの神話などというのは、世界各地で似たような伝承が無数にあるので、果してそれらの間に何らかの系統があるのか、即ちまず起源となる原始の神話がどこかに生まれて、それが各地に伝播したものなのか、或いはそれらのよく似た伝承には初めから何の関連性もなく、もともと人間というものが同じような発想をするだけなのかは、未だ定説を得られるだけの研究が為されていません。
しかし近い将来、世界中の神話や伝説の類を根気よく調査して行くことによって、急速な進歩を見せる遺伝子解析のように、その系譜の図解される日が来るかも知れません。



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