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武帝の功罪(格差社会)

2019-03-04 | 漢武帝
君主としての武帝の功罪については評価の分かれるところで、その未曾有の功績については敢て論ずるまでもない反面、その罪過もまた甚大に過ぎたというのが、ほぼ共通の認識となります。
もともと武帝の業績の大半は外征に起因しており、国内の繁栄も基本的には対外的な拡張路線に沿ったものでしたから、主要な事績の多くは外征と切り離して語ることができません。
但しそれは裏を反せば、その前段階となる外交の方は余り成功しなかったという意味でもあり、外征にしても(対匈奴戦を除けば)強者に作戦無しとばかりに圧倒的な兵力で相手を踏み潰すのが常であって、内容自体はお世辞にも完勝とは言えない戦役も多かったのです。
とは言え少なくとも対外的な面だけを見れば、匈奴を北方へ駆逐したことや、空前の大帝国を築き上げた実績等から、武帝を支那史上有数の名君とするのが一般的な見解でしょう。

一方内政に目を向けてみると、大体に於いて武帝の統治というのは、後世から善政と称されることが少ないと言えます。
ただ後代への影響という点から見れば、外政のみならず内政面に於いても、やはり武帝の存在は群を抜いて大きく、儒教を官学に据えて必修の教養としたことや、科挙の前身となる郷挙里選の実施など、後々まで続く支那帝国の基本形は、まさに武帝が造り上げたものです。
確かに宮中での私生活に目を向けてみれば、武帝は超大国の君主に相応しく、豪奢や酒色を敢て遠ざけようとはしませんでしたし、派手な散財を厭わないところもあったにせよ、晩年に至るまで政務を放棄することもなく(尤も周囲にしてみれば、それはそれで問題だったのですが)、常に自国の統治を念頭に置いて生涯を全うした君主だったことは事実です。

また経済的な面だけを見れば武帝の治世は、国土の拡大に伴って漢帝国が空前の経済発展を遂げた時代であり、国家や国民を裕福にしたという点では、やはり文句の付けようがない君主です。
実際に先代景帝の時代と比べてみても、武帝統治下の繁栄の規模というのは凄まじいもので、国力の根幹となる産業技術は軍事と民生の両輪で格段に進歩を遂げ、国民の生活水準は飛躍的に向上するなど、西のローマと並ぶ古代帝国文明としての漢は、まさに武帝の時代に誕生しています。
また高祖から文景両帝までの期間が、どちらかと言えば内向的な陰の気を帯びているのに対して、武帝の治世は一転して陽の気に満ちており、文字通り日の沈まぬ帝国と呼ぶに相応しい時代だったと言えるでしょう。

確かに文景両帝の時代でさえ、秦や高祖の頃から比べれば、あらゆる分野に於いて格段に進歩していましたが、それは往時の生活水準が余りに低かったからで、かつて戦乱の中で貧困に喘いでいた人々にしてみれば、潜在的な問題も多く抱えていたにせよ、文景両帝の治世などは殆ど理想郷そのものだったと言えます。
後に武帝によって否定される黄老の思想にしても、多数の旧他国民や異民族を包括する国家を運営して行く上で、国内の安定と協調を優先させた政治姿勢だったと見るべきですし、やはり後に廃止される郡国制にしても、朝廷の目が行き届かないような地方を再生させるには、領主の自覚を活用する有効な制度だったでしょう。
言わば古代帝国漢は、高祖から国家を受け継いだ文景両帝と、その両帝を引き継いだ武帝という、二つの段階を踏んで完成した訳です。

無論武帝の在位は半世紀以上にも及ぶため、その初期と晩期とでは内外の情勢がまるで異なりますし、上は朝廷から下は百姓に至るまで、社会全体もまた日々変化していたのは言うまでもありません。
従って武帝の治世を通して終始漢が繁栄を謳歌していた訳ではなく、そもそも数十年にも渡って好況が続く筈もないので、当然ながら好不調の波はありましたし、国家の不利益となるような失策も無かった訳ではありません。
しかし時を千年の視点から見れば、やはり武帝が漢帝国-延いては漢民族を一段階上の次元へ引き上げたのは事実であり、広大な版図全域へ文明が波及したことで東亜世界までもが一変し、周辺の諸民族が古代国家建設への道を歩み始める契機となったのは間違いないでしょう。

にも拘らず内政面での武帝の評価が芳しくないのは、主に二つの理由があり、まず指摘されるのは、急激な経済発展の代償として必ず発生する社会の混乱に対して、殆ど有効的な解決策を見出せなかったことです。
そしてその爆発的とも言える経済的な興隆を齎した要因は、武帝の創り上げた史上空前の「巨大な単一市場」でした。
度重なる戦果によって途方もなく領土を拡張させた漢は、新たに国土の一部となった土地へ都督や太守を派遣して統治した訳ですが、国内でも郡国制から集権制への移行が進んだことによって、遂には東亜世界から国境というものが殆ど消えてしまったのです。
そうして誕生した単一世界とは、唯一の君主即ち天子である皇帝が、国家の定めた法に違反しない限り、そこに生活する人々のあらゆる経済活動を保障する世界であり、それこそが武帝の理想とした世界に他なりませんでした。

その単一市場を更に活性化させたのが、新たに版図へ組み込まれた南方や西域との活発な交易であり、朝廷の積極財政による無数の公共工事や、膨大な人馬と物資の往来を可能とするインフラ整備でした。
また地方政府による開発や殖産も様々な分野で行われたため、農産物や工芸品等のあらゆる物資が各地で増産され、関所が廃止されたことも手伝って、それ等の商品は誰に遮られることなく帝国全土に流通しました。
自然その生産と消費を担う人口も増加したのは無論のこと、生活水準の向上がそれに拍車を掛けました。
当然ながらこれほどの経済市場は、未だ嘗て漢民族が経験したことのないもので、前例が無いが故に、その運営や対応に不備が多かったのは事実ですが、それは仕方がありません。

またこれは当り前の話ですが、武帝本人やその統治を補佐した臣下にしたところで、結果を予測して政治を行っていた訳ではありませんから、巨大な経済市場が出来上がったといっても、あくまでそれは出来てしまった社会であり、そのための準備など誰もしていませんでした。
加えて武帝治世下で実現した経済発展は、従来の経済成長の延長線上で自然に発生したものではなく、帝の実施した大規模な改革開放によって齎されたものだったため、それによって引き起こされる作用や次の展開などは誰にも分かりませんでした。
従ってこの時代の繁栄というのは、何も知らない民衆にしてみれば、まるで天が永遠の春を与えたかのようであり、その天とは取りも直さず天子である武帝のことですから、匈奴征伐と並んで経済政策が成功したことは、この上ない形で改革の正当性を具現化した訳です。
しかし光が強ければ強いほど影もまた濃いように、急激な発展が国家に及ぼした弊害もまた余りに大きいものでした。

そうした弊害の一つに先ず挙げられる例として、貧富の格差の拡大と、一部の有力者への富の集中があります。
ただ(これは現代に於いても同様ですが)貧富の格差が必ずしも社会悪かと言うと、これはそう単純にも言い切れないところで、その後の歴史も含めた長い目で見れば、むしろある程度は自然な淘汰の帰結として肯定すべき面もあるのが現実でしょう。
そもそも経済発展とは従来の仕組みを一変させることによって加速する訳ですから、そこに新たな勝者と敗者が発生するのは避けられませんし、むしろその競争がなければ進歩もありません。
実のところ格差そのものは好況時にも存在しており、却って絶対的な貧富の差幅は不況時よりも大きいくらいなのですが、誰もが身分相応に豊かなので、他人の収入や財産の多寡など余り話題にならないのです。
少なくとも好況時には、どれほど貧しい者でも餓死に至ることは稀でしょう。

しかし景気には波があるので、好況の次には必ず不況が来ますし、登った山が高ければ降りる谷も深くなります。
またどれほど大規模な経済発展であろうと、いつまでも成長が続くことは決してありませんし、いずれ失速して長く停滞する日々が必ず訪れます。
そうして世間が不況になると、一転して殆どの者が身分相応に貧しくなり、善良な国民でさえ生活苦に陥るなど、持てる者と持たざる者との格差が相対的に顕在化し、国中で政治に対する不満の声が大きくなるため、それに押されて貧富云々が議題となるに過ぎません。
しかし一握りの資産家が一般家庭の僅かな財産を奪った訳ではありませんから、不況によって民衆が貧しくなったのと、富者が資本を独占しているのは本来関係がありませんし、いくら生活が苦しくなったとは言え、好況を迎える前の水準よりは十分豊かになっているのです。

但し理屈としてはそうであっても、止まることのない貧富の格差の拡大と、それに伴う貧困層の増加は、否応なしに社会不安を増大させます。
そうして発生した貧困層というのは、要するに社会の進歩から取り残された人々であり、総体的な経済水準が向上したが故に、却って更なる困窮へと陥ってしまった階層です。
やがてその貧困の連鎖が限界点を超え、いよいよこのままでは生活できないというところまで行くと、人々は代々続けてきた家業と生まれ育った故郷を捨てて、新天地を求めて流浪するようになりました。
実は武帝の治世というのは、華々しい経済成長の陰で(或いはその後で)、こうした国内流民が帝国全土で表面化し始めた時期でもあったのですが、そもそも逃亡農民を発生させているのは、国家の諸制度を含めた当時の社会構造そのものですから、その根本的な体制を変えられない以上、朝廷の対応にも自ずと限界がありました。

日本でも平安京遷都の頃から次第に逃亡農民の問題が深刻化しており、当時の日本は(唐に倣って)全ての国民を対象に戸籍が整備され、本貫に応じて口分田が支給されていましたから、耕作を放棄して逃亡すること自体が重罪だったのですが、それでも逃散は後を絶ちませんでした。
そして逃散した農民の行き着く先は、地方政府の開墾した土地や、余力のある大地主の農場、或いは寺社や有力者の私有地等へ逃げ込み、自作農を諦めて小作人になることであり、そうして再び新たな労働力として社会に還元されて行ったのでした。
尤も地方政府が公費で開墾した農地へ流民を入植させたり、同じく大規模な土地所有者が勝手に農奴として囲ったりするのは、本来違法なのですが。

そしてこの国内流民の問題は、何も千年以上前に終った話などではなく、既に誰もが気付き始めた通り、今まさに現代の日本で進行している現象でもあります。
実際に世が昭和から平成に変った辺りを分岐点として、地方から一部の都心(もしくはその周囲)への人口の流出は歯止めが掛らない状態となっており、このまま行くと全国の大半の町村では、民家の半数以上が空家で、農地の殆どが荒地などという日が、笑えないほど目前に迫っています。
と言うより已にそうなっている村落でさえ珍しくないのが現状で、今この間にも加速度的な勢いで廃墟が増え続けており、これを放置すれば近い将来に農村はこの国から姿を消し、国土の大半は雑草に覆われるでしょう。

従ってこの人口移動が、もはや二度と引き戻せない潮流ならば、むしろ田舎はこの苦境を逆に好機として、江戸時代から続いた従来の村社会を一度御破算し、新たな地方の形を模索する以外に存続する方法がありません。
そしてその新しい田舎の姿は、例えば一握りの地主が土地を分割して所有する地主連合体かも知れませんし、或いは更に巨大な資本が村落そのものを領有する中世の荘園のようなものかも知れませんし、或いは住民が共同で運営するイスラエルのキブツのようなものかも知れませんが、いずれにしても今までとは全く違った経営体となるものと思われます。
しかし現実には中央政府は元より、地方自治体や地元に残った住民までもが、未来へ向けて何の手も打てないまま、指を咥えて崩れ行く故郷を傍観しているのが現状なのですが、何もできない原因の大半は現行の法律にあります。

現代の日本の基本法では、家族やその財産に関して、江戸時代以来の定住農家によって構成される郷村自治と、戦後の自作農保護が前提となっています。
要は原則として家族というのは、家と墓と田畑から成る定住地で先祖代々継承されて行くもので、財産もまた家族だけが所有権を有する不可侵のものだという定義です。
しかしこうした現行法と現実の社会とが乖離して久しく、むしろ殆ど無意味な財産権の過保護が、火急を要する社会の再生を阻んでいるのは周知の事実なのですが、これを是正するには全国民を対象とする既得権の改定が必要となるため、恐らくもう少し世代交代が進行しなければ手を付けられないでしょう。
地方自治体なども法の許す範囲で現状を打破しようと努力していますが、その根本が変えられない以上はできることにも限度があります。

危険な状況が徐々に進行しているのは、何も地方ばかりではありません。
何故なら農村から都市部への人口流出が最初の国内流民ならば、次の流民はその都市部で発生するからです。
今現在の日本社会が曲りなりにも安定しているのは、仕事と幸福を求めて農村から都市部へ移住した人々に対して、住居や職場という生活手段は無論のこと、教育や収入といった付加価値を平均以上の水準で保障しているからに他なりません。
しかしその都市部でさえ貧困に陥る階層が増加し、地方を知らない世代が次第に生活手段を失い、都心部の高級住宅地や郊外の新興住宅街がゴーストタウンと化しても、彼等には次に移住する場所がありません。
そして都市部で幸福を見出せなくなった人々が、再び新天地を求めて移動を始めるような傾向が現れれば、或いはそれが日本再生の契機ともなるでしょう。
但し歴史的な経緯からみて、逃避した先に必ずしも幸福が待っているとは限らないのですが。

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