史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

続:東征

2020-05-07 | 古代日本史
吉備から河内へ
さて『日本書紀』を先へ読み進めると、吉備で軍備を整えた神武帝は、戊午の年の春二月に東へ向けて出港しました。
但しこれが漢歴の何年に当たるのかは不明です。
船団を連ねて難波碕に着こうとする時、速い潮流にあって甚だ早急に着きました。
よって同地を浪速国と名付け、または浪花とも言い、難波というのはこれが訛ったものだといいます。
因みにこの後も東征記では、記紀共に地名の由来にまつわる話をいくつも載せており、それがこの物語の一つの骨子にもなっていますが、ここでは深く立ち入りません。
そして大阪湾から川を遡り、河内国の草香邑(日下村)の青雲の白肩之津に至りました。

河内国河内郡日下村は、河内国の中央西端部にあった村で、現在の東大阪市の北東端に当たり、河内と大和の国境である生駒山地の麓に位置します。
言わば海岸線からは遠く離れた大阪平野の最奥部であり、近くには船団が往来できるような河川もないので、現代の我々からすると水軍の上陸地としては些か違和感を覚えます。
これを解く鍵となるのが河内湖の存在であり、長年の土砂の堆積や埋立てによって今では消えてしまいましたが、かつて大阪平野には河内湖という大きな湖がありました。
地形や伝承等から推測された復元図を見ると、むしろ湖というよりは河内湾とも呼ぶべき水域で、淀川や大和川なども河内湖に流れ込んでいたといいます。
即ち神武帝はまず大阪湾から河内湖に入り、そのまま湖を東西に横切って生駒山の麓に上陸した訳です。

吉備から草香邑までの略図



生駒越えと長髄彦
陸上で兵を整えた神武帝は、生駒山地の西側を徒歩で南下し、大和川を東に遡る形で内国(奈良盆地)へ入ろうとしました。
これは河内と大和を繋ぐ道の中でも比較的起伏の緩やかな経路であり、土地勘のない西国勢としては川沿いに進軍するのが最も無難と判断したのでしょう。
しかし現地に足を踏み入れてみると、その道程は甚だ狭く険しいもので、とても歩兵が行軍できるような地形ではなかったため、神武帝は一旦もと来た道を引き返して、上陸地の草香からそのまま東の生駒山を超える作戦に切り替えました。
この様子を窺っていた現地の豪族長髄彦は、配下の兵士を尽く率いて皇軍の進路を遮り、遂に孔舎衛坂で両軍の間に戦端が開かれました。

詳しくは後述しますが、この長髄彦は饒速日命の義兄に当たり、実質的な敵の総大将です。
そしてこの戦闘の最中に、神武帝の長兄で先鋒を担っていた五瀬命が、流れ矢を受けて負傷しています。
地の利を活かして防戦する長髄彦の前に皇軍は進むことができず、これを憂いた神武帝が策を巡らして言うには、「今、我は日神の子孫でありながら、日に向かって虜を討たんとするのは、天道に逆らうものである。ここは退いて弱いと見せかけ、天神地祇を祭り、背に日神の威光を負い、その御影に従って襲い攻めるのがよかろう。そうすれば刃を血に染めずとも、虜は自ずと敗れるだろう」と。
そして全軍に令して進攻停止を命じ、一旦草香まで引き揚げました。
敵も敢て追わなかったといいます。

両軍の戦力
ここで史書に描かれた状況から両軍の戦力を比較してみると、まず神武帝が水軍を率いて日向を出立し、道中で各地の豪族を吸収しながら東へ向かっていること、その最終目的地が奈良盆地であること、吉備に滞在して軍備を整えていた西軍が、いよいよ畿内に向けて出港したこと等、西国連合軍の動向については、当然ながら饒速日命や長髄彦も逐一承知していた筈です。
それに対してニギハヤヒ陣営が立てた戦術は、秀吉の征伐を受けた小田原の北条氏と同じように、天然の障壁である生駒山地で連合軍を迎撃するというものであり、これは両者の戦力に格段の開きがあったことを示しています。

確かに奈良盆地は関中と同じく守るに適した土地であり、皇軍も一度は撤退を余儀なくされたのは事実ですが、前線は自国の中枢から離れている方が有利なのは兵法の常道ですから、もしニギハヤヒ側に西軍の進攻を止められるだけの戦力があれば、まずは水軍を上陸させないための布陣をすべきでしょう。
しかし史書に従えば、吉備から河内湖を経て草香邑へ至るまでの間に、神武帝は敵らしい敵に遭遇していないのです。
要は奈良盆地の外に戦場を設定しなかったということ自体、最早ニギハヤヒには神武帝とまともに戦うだけの兵力がなかったことを物語っている訳で、これは長髄彦が下山する皇軍を追撃しなかった所にも表れており、恐らくは追いたくても追えなかったのでしょう。

更に言えば、ニギハヤヒもまた天磐船に乗って天降った天神の子だというならば、神武帝と同じように周辺の諸豪族を結集し、西軍に匹敵するだけの軍勢を編成することも可能な血統を有していた筈です。
少なくとも神武帝が東征を興すに際して、今ニギハヤヒの居る所こそ天下の中心であり、その地に都を置くべきだと宣言しているのですから、それだけの家系だったのは間違いありません。
しかし実際にニギハヤヒを守って東征軍と戦ったのは、長髄彦を始めとする奈良盆地の諸勢力だけで、恐らく彼等の多くは身内や譜代の家臣でしょう。
そうした直近の将兵以外に、敢て皇軍の前に立ちはだかろうとした者は殆どおらず、これは既にニギハヤヒが周辺諸国からの人望を失っていたことと、神武帝が道中の諸侯を踏み潰しながら進んだ訳ではなかったことを示しています。

海路熊野へ
草香邑まで退いた神武帝は、水軍を率いて再び海へ出ると、茅渟(和泉の海)の山城水門に移りました。
大阪平野から生駒山地を超えて内国へ討ち入る計画を捨て、紀伊半島を迂回して熊野から敵の背後へ回る作戦に切り替えたのです。
これが神武帝の熊野越えですが、元より日向出身の神武帝が熊野の小径など知る筈もなく、傘下に加わった現地の豪族の中に、熊野から内国へ抜ける山道があることを進言する者がいたのでしょう。
ただ神武帝にとっては熊野までの航路も決して安易なものではなく、まず五瀬命が矢傷の悪化によって世を去り、もう一人の兄の稲飯命を海上の暴風で亡くしています。
また途中立ち寄った紀国の名草邑で名草戸畔という者を誅し、熊野の荒坂津では丹敷戸畔という者を誅したといいますが、果してこれらの者達が単なる賊(女賊だったとも)だったのか、それともニギハヤヒ側の豪族だったのかは分かりません。

また神武帝が熊野越えなどという未知の献策を採用したことに、当時の皇軍の置かれていた窮状を指摘する声もあります。
もともと東征軍は諸侯の連合体なので、対陣が長引いて被害が大きくなれば、ニギハヤヒに内応する者が出てくる可能性が常にあり、むしろ戦力で劣る敵の思惑は、専守を持続することで相手が瓦解するのを狙うというものでしょう。
従って神武帝が敵を目前にしながら敢て河内を離れたのは、全軍を熊野へ移動することで意図的に孤立させ、連合軍の中から不穏な空気を一掃するためだったのではないかという訳です。
加えてこれが河内湖ならば多くの軍船を係留しておく場所もあったでしょうし、内国平定後は再びその舟を使用して水軍を維持することもできたでしょう。
しかし当時の熊野に東征軍の舟を全て上架できるような港があったとは思えず、内国へは山道を徒歩で延々と進む訳ですから、上陸と同時に舟を捨てさせて退路を断った可能性もあります。

ここで各地の諸勢力との関係について考察してみると、北九州と山陽道については神武帝が自ら通って来た地域なので、ほぼ東征軍に与していたと見ていいでしょう。
と言うよりそうでなければ討伐を受けています。
紀州では何組かの賊を誅しているものの、熊野越えという作戦が実行されたことからして、殆どの小勢力は東征軍に協力したものと思われます。
残るは四国ですが、後の崇神紀や景行紀でも四国征伐の話を特に伝えていないので、既に東征の時点で皇軍に呼応していたと見るのが妥当でしょうか。
もともと水軍を主体とする四国や紀州の人々は、その特殊な地形も相まって常に独立心が強い反面、自治さえ認められれば天下人など誰でもいいという気風なので、神武帝にとってもそれほど扱い難い相手ではなかったでしょう。

例えば後の源平争乱期でも、貿易を得意としていた平家の主力は水軍で、関東を地盤とする源家の主力は陸軍ですから、本来瀬戸内海を中心に分布する西国の海洋諸豪族は、平家を盟主に戴くのが道理なのです。
しかし現実には伊予の河野氏や熊野水軍を始めとして、四国・紀州・豊後の水軍は尽く源家支持に回っており、彼等の信頼を失ったことが平家凋落の要因となっています。
但しそうした彼等の特徴は、情勢が変って再び平家が優勢となれば、途端に主君を鞍替えする危険が常にある訳で、源家にとっては頼もしい協力者である反面、余り信用できない相手でもありました。
神武帝の東征に四国や紀州の水軍がどう携っていたのかは分かりませんが、恐らく後世の天下人や、その時々の権力者との関係と余り変らないものであったと思われます。



1 コメント

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Unknown (omachi)
2020-05-08 16:43:07
あなたの知らない日本史をどうぞ。
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
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