史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

東征

2020-04-18 | 古代日本史
東征の真実とは
高千穂に天降ったニニギの勢力は、(系図上)その曾孫のイワレヒコの代に到って、いよいよ東征の軍を興すことになります。
このイワレヒコが初代天皇とされる神武帝であり、記紀共に天孫降臨以前を神代、ニニギからウガヤフキアエズまでの三代を神代から人代への移行期とし、神武帝をもって人代の始まりとします。
東征起点の高千穂は日本列島でも西方の九州であり、目指す終点の地は畿内ですから、実質的な西日本制圧のための行軍です。
尤も天孫降臨から僅か三代で挙兵していることや、第二代綏靖帝から九代開化帝までの天皇の行跡が殆ど残されていないことなどから、神武帝による東征の記録を疑問視する向きも多く、むしろそれが一般的な見解とさえ言えます。
そこで記紀に記された神武帝の東征という建国記が、一体どのような史実に基づいて形作られたのか改めて考察してみると、凡そ答案となるのは次の二例でしょうか。

まず一つは、神武帝が九州から東方へ移住したのは事実にしても、その実態はとても東征などと呼べるような華々しいものではなく、高千穂の末弟だったイワレヒコが自立のために故郷を離れて、家族や家来と共に新天地を求めたというものです。
確かにそれならば神武帝が初代とされているのも合点が行きますし、移住先で次第に勢力を蓄えた彼の子孫が、第十代ミマキイリヒコ(崇神帝)の代になって天下に覇を唱えたというのも時期的に合致します。
恐らく神武帝が生きた時代と言うのは、女王卑弥呼の治世から更に二百年ほど前だと思われるので、既にその頃には北九州が他所に抜きん出て先進地域という訳でもなかったでしょうから、イワレヒコが遥か東方に活路を見出したというのも無理な話ではありません。
また必ずしもイワレヒコ一代で畿内に入ったとは限らないので、例えば彼が定住の地としたのは少し手前の吉備だったかも知れませんし、或いは四国や淡路だったかも知れません。

もう一つは、記紀の中で神武帝の武功とされている東征は、現実には神武帝と同じくハツクニシラススメラミコトと称される崇神帝の功績で、後世の史書編纂の際に、崇神帝の成し遂げた統一事業の前半部に当たる東征を神武紀に反映させ、後半部の四道将軍の派遣や武埴安彦の謀反を崇神紀に当てたというものです。
そして現状ではこれが最も支持を得られる解釈かと思われますが、そうなると今度はなぜ神武帝が人世初代とされているのか、その明確な理由が見当たらないという問題を生じます。
確かに史書内でのイワレヒコは、末弟ながら同母兄を差し置いてウガヤフキアエズの後嗣とされています。
しかし異母兄弟ならばともかく、同腹間で末子が諸兄の上に立つというのも些か珍しい話なので、神武帝が初代とされている系譜を常識的に読み解けば、恐らく本来のイワレヒコの家系は支流でしょう。
やがて十世の時を経て、彼の子孫から崇神帝が出現したということは、後の織田家と同じように、代を重ねるうちに本家と分家の立場が逆転していたものと思われます。

元より今から二千年も前に、その場で実際に何が起きていたのかなど今となっては知る由もないので、基本的にはあくまで史書に沿って読み進めて行く以外に術はありません。
そこでまずは『日本書紀』本文を見てみると、神武帝が諸兄と子等に語って言うには、昔、我が天神の高皇産霊尊と大日孁尊が、この豊葦原瑞穂国を挙げて、我が祖神の瓊瓊杵尊に授けられた。瓊瓊杵尊は天の関を開き、路を押し分けて、先払いを駆って至られた。時にまだ世の中はと荒涼して、草創の時だった。その暗い中にあって正しい道を広め、この西のほとりを治められた。祖神は代々善政を敷き、多くの年を経た。しかし遥か遠方の地では、未だ恩沢も及ばず、邑には君があり、村には長があって、各々境を分けて相凌ぎ合っている。さて、塩土の老翁に聞くところでは、「東に美地が有り、青山が四方を囲んでいる。その中にまた天磐船に乗って飛び降った者がある」と言う。思うに、彼の地は必ず大業を広め、天下を統べるに足るだろう。恐らく六合の中心だろうか。その飛び降る者とは、これを饒速日と言う者だろう。どうして行って都せぬことがあうかと。諸皇子もそれに応えて、甚だ理に適っている、速やかに実行すべきだと言ったので、ここに東征が始まりました。

日向から吉備へ
神武帝は自ら諸皇子と舟軍を率いて東征に向かいます。
速吸之門(豊予海峡)まで来ると、一人の海人が小舟に乗ってやってきました。
帝が呼び寄せて名を訪ねると、自分は国つ神で名を珍彦と言い、曲の浦へ釣りにきていたが、天神の御子が来ると聞いて、特に迎えにきたといいます。
そこで神武帝は、この珍彦に椎津根彦の名を賜って嚮導とし、そのまま北上して豊前地方に向かいました。
宇佐に着くと、宇佐国造の祖先に当たる宇佐津彦と宇佐津姫が一行を出迎え、川の畔に仮宮を造ってもてなしました。
次いで神武帝は筑紫の岡水門へ行き、そこから安芸へ渡って埃宮に入り、更に吉備へ移って行宮に入りました。
『日本書紀』本文によると、日向を出陣したのが十月、吉備に入ったのが三月なので、ここまでは約五カ月間の行程です。
そして吉備の高島宮には三年間滞在し、そこで船舶を揃え、兵糧や武器を蓄えて、一気に天下を平定しようとしたと言います。

ここまでを軽く見返しておくと、まず海上で帝を出迎えた珍彦というのは、恐らく豊後地方の海神の国人でしょう。
そして神武帝の生母は海神の娘の玉依姫ですから、案外これは母方の一族が合流したことを示しているのかも知れません。
続く宇佐津彦は初めから無抵抗に皇軍を迎え入れており、それに対して神武帝もまた宇佐津姫に侍臣の天種子命(中臣氏の祖とされる)を娶わせるなど、宇佐氏と姻戚関係を結ぶことで本国への退路を確保しています。
元より道中の全ての勢力が東征に与するとは限りませんから、出兵後間もない時期に兵を用いることなく宇佐を幕下に加えられたことは、今後の進軍を占う上でも幸先の良い出来事だったと言えます。
この宇佐津彦の判断によって皇軍との同盟を強固にした宇佐氏は、彼の子孫が大和朝廷から宇佐国造に任ぜられるなど、その後も帝室の藩屏として長く所領を安堵されています。

続いて神武帝が向かった岡水門は筑前の遠賀郡付近と言われ、魏志倭人伝では投馬への出港地となっている不弥にも比せられる地域であり、古くから海運の要衝として栄えた場所でした。
ただ遠賀郡も要地の一つには違いないにせよ、皇軍が後顧の憂いを絶って東征を続けるためには、やはり北九州の中心である那珂郡や怡土郡の勢力を取り込まなければならない筈なのですが、史書ではその辺の折衝について特に触れられていません。
そして遂に九州を発った神武帝は、安芸から吉備へと山陽道を東進して行く訳ですが、これも少々おかしな話で、そもそも天孫降臨から東征に至った経緯を鑑みれば、ニニギの子孫である神武帝は、まず山陰道を通って国譲りの行われた出雲に入り、そこから畿内へ向かうのが筋でしょう。
しかし東征の期間を通して出雲や因幡といった山陰諸国は全く登場せず、この一事を見ても国譲りと天孫降臨の時間軸に殆ど関連性のないことが分かります。



東征主要地

一方『古事記』の記述も大まかな流れはほぼ同じで、いかにも同書らしく多少不合理な箇所は見受けられるものの特に問題はありません。
尤も『日本書紀』は神武紀に「一書に曰く」という形の異伝を設けていないので、そもそも記紀の東征の原典となった史伝は一つしかなかった可能性もあります。
両書で明確な相違が見られるのは行軍に要した年月で、『日本書紀』では日向を発って吉備に入るまでを五カ月、吉備での滞在期間を三年とするのに対して、『古事記』では筑紫の岡田宮に一年、阿岐(安芸)の多祁理宮に七年、吉備の高島宮に八年、それぞれ滞在したとする点です。
無論どちらが正しいかなど今となっては分かる筈もないのですが、後世のよく似た事例を比較対象にすることで、多少は真実に近付くことができるかも知れません。

戦国大名から見る東征のかたち
では神武帝の東征と呼ばれる事業は、果していかなる戦略に基づいて実行されたものだったのでしょうか。
恐らく想定されるのは次の二つです。
まず一つは、日向を起点とした東征は、隣接する豊後地方を手始めに、次に豊前、次に筑前といった具合に、前方の諸国を順次併合しながら、つまり領土そのものを拡大しながら次第に東進して行ったとするものです。
これは後の戦国大名にも見られる形態で、原則として他人の土地へは兵を入れることができないので、先へ進むためには否応なしに自領を広げなければならず、要は行きたい方向へ国境を前進させるしかない訳です。
従ってこの場合は、『日本書紀』のように短期間で長距離を移動するという訳には行かず、新たに組み入れた領地の経営を安定させるためにも、『古事記』にあるようにかなりの時間をかけて少しずつ前進しなければなりません。
そこで注目すべき点としては、神武帝が常に本陣を前方(新領地)へ移転させていることで、因みに後の戦国時代でも、これをやったのは織田信長と徳川家康の二人しかいません。

信長がその生涯で何度も居城を変えたことは誰もが知っています。
彼が最初に城主となったのは父信秀から譲られた那古屋城であり、家督を継いだ後もしばらく居住していましたが、やがて同じ尾張国内の清洲城に入り、次いで小牧山を本拠としました。
その後も美濃の斎藤氏を滅ぼすや尾張を離れて岐阜城に移り、浅井朝倉を撃破して比叡山の僧兵を一掃すると安土城を築くなど、常に自らの居城の方を新領地へと移動しています。
無論背後の徳川氏と同盟を結んでいたから可能だったことですが、彼は生まれ育った土地や先祖代々の本貫に拘ることなく、常にその時の目的や戦略のために最も適していると思う場所を本拠としていたのです。
その信長の同盟者だった家康も同様で、まず三河一国の主だった時は岡崎城、隣国の遠江を併合すると浜松城、更に駿河を平定すると駿府城といった具合に、絶えず首府機能の方を移転させており、そうすることで新領地での経営を安定させ、在地の民心を掴んで行ったのです。
逆に言えば両雄共に自らの政治手腕に絶対の自信があるからこそ為し得たことでした。

しかし大半の戦国大名の発想はその逆で、どれほど領国が拡大しようとも当主の居城を移転させようとはしませんでした。
例えば薩摩の島津氏は九州に覇を唱え、一時は九州全土を制圧しそうな勢いでしたが、版図の膨張と共に国境が北上を続けても、首府機能は薩摩国内から動かそうとしなかったのです。
もし島津氏が西海道に王たらんと欲するならば、信長や家康と同じように当主自身は常に領土の最前線に身を置いて、本州からの干渉を防止するためにも、九州平定後はやはり筑前を本拠としなければならないでしょう。
無論関東の北条氏の例もあるので、島津氏の城下が筑前にあったからと言って、秀吉の九州征伐を阻止できたとは限りませんいが、少なくとも薩摩よりは外交的にも有利なのは間違いありません。

もう一つの東征のかたち
もう一つは、東征と呼ばれる軍事行動は、領土という「面」を拡張しながら実現したものではなく、史書内の神武帝の言葉にもあるように、初めから畿内という最終的な目的地だけを目指して実行されたというものです。
要は神武帝が連合軍の盟主となって諸豪族を束ね、行く先々で在地の小領主を傘下に加えながら東進して行った訳で、日本史の中でこれとよく似た例を探すと、まず鎌倉末期の足利尊氏の挙兵がほぼこれに当たり、大陸では漢の高祖の行き方などもこれに類するものでしょう。
また他の大名を捨て置いて一路京や江戸に進軍したという点では、幕末の薩長同盟などもこの形かも知れません。
そしてこの方法の最大の利点は、共通の目標に向けて一時的に与党の力を結集させるため、『日本書紀』にある通り短期間で大事業を成し遂げることも可能な点です。
無論その半面では、物事の順序として創業の成就を優先する余り、本来ならば随時解決しておくべき個々の問題が、尽く先送りされるという欠点を併せ持っています。

要は長い時間を掛けて自国を巨大化させながら天下を狙うやり方が、貯蓄した自己資本で事業を進めるのと同じなのに対して、先に天下を取ってしまう尊氏や高祖のやり方は、多額の借金で大事業を始めるようなものなので、悲願達成の喜びも束の間、その直後から莫大なツケを支払わなければならないのです。
例えば室町幕府を見てみると、初代尊氏が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開いた頃は、未だ天下泰平と呼ぶには程遠い状態で、曲がりなりにも戦乱が終息するのはようやく三代義満の頃であり、結局その後も内乱は後を絶ちませんでした。
同じことは漢の建国についても言えて、漢朝は劉邦が皇帝に即位した後も功臣の叛乱が相次ぎ、高祖は生涯甲冑を脱ぐことができませんでした。
一方で自家が唯一無二の大大名となることで天下に君臨した徳川家は、初代家康の将軍就任以降、大名の謀反などただの一度も起きておらず(大阪の陣は浪人、島原の乱は信者によるもの)、ほぼ開府と同時に平和を実現している点で好対照を成しています。



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