ハチメンドウ

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「快適度の均衡化」から見たルールやマナーの必要性。

2016年04月15日 | Weblog

マナーについての俺の認識は、数年前に語っている。

「マナー」の主成分は“主観”である。

あくまで個の問題に限っていえば、俺は自身の一貫性のなさにそこまで自責の念がない。過去の俺と、今の俺は同じ人間であって同じ人間ではない。パソコンが更新されるように、自分の価値観が変わることは、むしろ健全だとすら考えている。

なのだが、自分でも意外なことに上記の過去記事の分析は、今の自分から見てもそこまで間違っていないと思った。やはり、マナーの主成分は主観だ。「何となく不快」、「何となく気に入らない」が本質だろう。合理的な理由があっても、それはあくまで大義名分であり、後付けだ。

では、なぜ改めてマナーについて書くか。それはマナーは「主観」だけれども、それを踏まえた上でマナーの必要性に対する自分の認識が少し変わったからだ。

参考記事:[FAQ]よくある質問。 [FAQ]よくある質問。 [FAQ]よくある質問。(タイトルは同じだが、内容が違う)

 要は、例え主成分が主観でも、そして合理的な理由がないケースでも、それでもマナーは必要だということが書いてある。多様な価値観の人間が一つの社会、公共の場所で活動するときは「大半の人にとって最高ではないけれど、それなりには快適な場所」がベターだ。

電車内でヘッドホンの音漏れを俺が咎めないのは、「咎めるのに合理的な理由がないから」というより、俺個人が「そこまで気にならないから」という側面は大きい。そして、それも所詮は“主観”だ。もし、別の似たようなケースで、俺が同じように寛容でいられるかは正直なところ自信がない。個人差が生じることを前提とするならば、不寛容の視点から責めることは現実的じゃないだろう。

また、「合理的な理由がない」というのを理由に、不快になる可能性のある言動が全て許される社会がうまく回るとも思えない。だったら例え主成分が何であれ、ルールやマナー“そのもの”について必要であるならば、そこはさして重要ではないだろう。ルールやマナーとして運用する以上、個々がそれをしっかり理解している必要性もない。「マナーだから、ルールだから」で十分だ。

まあ、ルールやマナー“そのもの”についての認識は変わったけれど、本音としてはそれを踏まえた上でいくつかのルールやマナーはいらないものが混ざっていると俺は思っているけれどね。それら問題は個別に対処していくしかないのかな。『皆』が嫌がることを分かっていて、それでもしなければいけない理由がその『含まれない人』たちにあるのなら、『皆』も分かってくれるだろうし、そのルールもなくなるだろう」ってことなのかなあと。「快適度の均衡化」から判断するとき、個別のルールやマナーが大局的に見て適切かということが一つの分析点になりそうだ。

 追記:漁ったら過去のと割と最近のもあったので、両方ともリンクに載せとく。