ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

「マナー」の主成分は“主観”である。

2012年04月15日 | Weblog

平日、昼の時間帯はその電車に乗っている人は少ない。俺はラッシュでいつも座れなかった座席に悠々と座りながら、時間つぶし用に買っていた本を読み始めた。次の駅に着くと、ドアが開くとほぼ同時ぐらいに車内に女性が入ってきた。俺の座っている席の向かいに座ると、早速といった感じに化粧を始めた。

俺は一瞬気になったが、見ず知らずの女性の化粧風景なんかより、今読んでいる本の展開が気になっていたためすぐに読書を再開した。ただ、他の乗客は女性の行為をとても不快に思ったようで、マナー違反だと指摘していた。

俺は見ず知らずの他人に全く興味を持てないのでよく分からないが、実際ここでいうマナーは、とても個人的な、主観的な、曖昧な線引きなのではないのだろうか。

そもそもマナーとは、物事を行うときの、その場に合ったふさわしい態度や動作らしい。確かに、図書館で騒音や、映画の上映中にライトを照らして携帯を覗くのはまずい。そのように、明確な目的のある場所での明らかな阻害行為なら分かりやすいが、電車のようにそこでの立ち振る舞いが曖昧な場所で、マナー違反と呼ばれている行為の一部に疑問を抱く。

そりゃあ、電車内での化粧は人前でして美しい行為とは思えないが、それが電車内でダメだという合理的な理由が果たしてあるのだろうか。女性が電車内で化粧をして、誰かが目的の駅に着けなくなったりすることがあるのだろうか。合理的な理由がない以上、それをマナー違反というのは、極めて個人的な主観に基づくものだと思う。

だから、車内で化粧をするのがマナー違反なのは、ただ「何となく目障りだ」という理由が主なのだろう。それを、さも民意という皮をかぶせて、マナー違反といって批判するのである。明らかな迷惑行為や犯罪行為、そして上記の図書館や映画館のように目的が明確な場所での阻害行為を除けば、ほとんどは主観と個人的な感覚による批判に過ぎないと思う。

俺たちがマナー違反だと思った行為は、もしかしたら単なる快、不快の問題の域を越えていないのではないのだろうか。となると、そう思って批判することは自重すべきかもしれない。ただ、それが判断できるほど、公共マナーと寛容のバランスは安定していない。

……全くの余談だが、ワードで「杏マナー」と打ちまくると、文字が傾いているように見えるっていうのを思いだした。

 数年後に改めて言及してみたもの→「快適度の均衡化」から見たルールやマナーの必要性。

 


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