眉山のふもと

徳島のくらし

ソメイヨシノ 5輪開花

2024-03-25 23:44:16 | 徳島の暮らし

中央公園のソメイヨシノが5輪開花

いよいよです

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落花

2024-03-12 23:00:42 | 徳島の暮らし

 

水たまりの花筏

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国残留日本人孤児ウユン(立花珠美)さんとの出会い

2024-03-09 09:49:13 | 徳島の暮らし

徳島で生まれたウユン先生と内モンゴル通遼で出会いました。2006年11月のことです。私は同年9月から通遼市にある内モンゴル民族大学で日本語教師として働いていました。ある日突然電話があり、モンゴル語で「ウユン先生と食事会をするので来てほしい」。誰からの電話なのか、どういう集まりなのかもわかりません。ウユン先生のことは徳島の友人から聞いていたのですが会ったことはありません。とにかく告げられた場所に行くと、徳島からの4人のお客さんとウユン先生がいらっしゃいました。

 

ウユン先生は日本名立花珠美。1938年徳島市国府町で誕生。2歳の時、父の仕事で旧満州興安南省王爺廟(現ウランホト市)へ移住。1945年8月14日ソ連軍の侵攻をうけて集団で避難中、葛根廟付近でソ連戦車隊に襲われ7歳の珠美さんを残して家族全員死亡しました。

死体の中で一人生き残った珠美さんは中国人に助けられ、その後養父母(父モンゴル族・母漢族)に引き取られ、ウユンと名付けられました。ウユンはモンゴル語で知恵の意味です。養父母に大切に育てられ、貧しい生活でしたが国家奨学金で大学を卒業、教師となりました。

文化革命で養父母は日本人を育てた「日本のスパイ」として糾弾されましたが娘の居所は隠し通し、学校の生徒も同僚の教師も密告しませんでした。 

1972年日中国交回復後、肉親捜しを始め、兄と再会。故郷徳島へ一時帰国し、お兄さんたちは永住帰国を薦め仕事も見つけてくれましたが、自分を育ててくれた養母と人々の恩を忘れることができず徳島滞在5か月で内モンゴルに帰りました。

内モンゴルに戻ったウユン先生は中学教師として復職し教育に専念。1991年全国教育者模範賞受賞、92年ウユン先生の生き方をモデルにしたHNKテレビドラマ「大草原に還る日」が制作され、93年「中国人民政治協商会議全国委員」。ホルチン地域のモンゴル人から慕われ尊敬されています。

1994年に定年退職し、ホルチン砂漠植林活動を開始しました。徳島では砂漠植林ボランティア協会が結成され、お兄さんの立花甫さんを含む植林隊が毎年内モンゴルに渡り、「ウユンの森」ができました。さらにウユン先生が名誉校長をされているクーリン旗第一中学校に日本語教室を開き日本語教師を派遣していました。

私を待っていた徳島からのお客さんは、日本語教師の任期を終えて帰国する徳島大学教育学部の卒業生、この機に現地を見学に来た彼女のお父さん、徳島大学の先生、徳島県日中友好協会会長の一行だったのです。

 

こうして出会ったウユン先生の外見はまさしく「徳島のおばちゃん」。見慣れた阿波女の面差しで、しかも優しさのオーラに満ちています。日本語は少し聞き取れますが話すことはあまりできず中国語での会話でしたが、私はたちまち大ファンになりました。先生にも同じ徳島出身者ということでとても喜んでもらい、住居も近くだったのでその後たびたび先生のお宅にお邪魔するようになりました。

冬休みや夏休みで徳島に帰省した時、「雲烏(ウユン)物語」という本が徳島で出版され読者感想文コンクールの課題図書にもなっていたことを知り読みました。また先生のお兄さんの立花甫さんにもお会いすることができました。立花甫さんは一家が満州に渡る時、当時の旧制徳島中学校に合格したばかりだったので一人徳島に残っていたのです。立花さんからはNHKドラマ「大草原に還る日」のビデオテープをお借りしました。(このドラマでは主人公の故郷が徳島ではなく中国ではより知名度の高い広島になっています)私はやっとウユン先生の半生を知りました。

 

翌年10月、日本人留学生と相談し大学構内で「日中友好際」を開催しました。第1部はもちろんウユン先生の講演、第2部は日本文化紹介として茶道や和服の着付け、おにぎりの試食。当日は朝早くから留学生と二人でおにぎりをたくさん握り参加者に配りました。私が男女学生に浴衣を着付け、留学生が茶道お点前を披露し、日本語学科女子が浴衣のファッションショーをして大変好評でした。

ウユン先生の講演は「我是日本人(私は日本人です)」から始まりました。そして家族と死別したときのことを次のように話してくれました。

~~~ ソ連軍の銃撃がはじまり母、姉、妹、二人の弟は葛根廟をめざす人々とともに逃げました。11歳の姉は銃撃で殺された人の中で押しつぶされるように亡くなりました。4歳の弟は牛車の上で死亡し、6歳の弟は牛車から落ちて行方が分からなくなりました。行き止まりの谷に追い込まれたとき集団自決が始まりました。母は背負っていた乳飲み子の妹をナイフで刺しました。私はびっくりし怖くて逃げました。母は追いかけて来ませんでした。ふり向くと母は自らナイフで自分を刺していました。私はあわてて母のもとにかけ戻りました。母はもう虫の息でした。「通遼へ行ってお父さんを探しなさい。あなたの名前とお父さんお母さんの名前を忘れないように。」と言って息を引き取りました。

私は何日も死体の山の中で生きていました。おなかがすくと死体の中から食べ物を探して食べ、血の混じった水も飲みました。心の中で(私はタチバナタマミ、お父さんはタチバナショウイチ、お母さんはタチバナシズコ)と何度もくりかえしました。

三四日して大砲の音もしなくなり、隠れていたところから出て橋の上にいると、向こうから二人の中国人の老人がやってきました。やさしそうな人だったので身振り手振りでソ連軍から逃げてきたと伝えると家に連れて行ってくれました。この貧しい一家にとても親切にしてもらいました。雨に濡れた草の上に寝て体が冷え切っていた私が布団にお漏らしをすると、暖めたレンガを布で巻いたものをおなかに当ててくれました。そのレンガの暖かかったことは決して忘れられません。

その後養父となったモンゴル人にモンゴル語の読み書きや馬の乗り方を教えてもらい成長しました。日本語はすっかり忘れてしまいました。ただ母の最期の言葉を守り、自分と家族の名前を忘れないようにしていました。おかげで肉親捜しで兄を見つけることができました。兄も満州から帰ってこない家族を探していたのです。~~~~

 

コロナ禍が始まるまで、ウユン先生は何年かに一回、徳島に里帰りされていました。でもそれは個人旅行ではなく、残留日本人墓参団の団長としての責任を持ったものです。徳島での滞在も三日ほど。歓迎会などがありとても慌ただしい旅です。もっとゆっくりと古里を楽しんでくださったらいいのに、できれば何か月間か徳島に滞在していただければあちこちご一緒するのにと思っています。

ウユン先生とお兄さんは言葉の壁があるので、どのように連絡しあっているのかが不思議なので聞いてみました。答えは「FAX」。漢字多めの日本語の文章ならウユンさんも意味が分かるし、お兄さんも中国語漢字を見れば大体のことはが分かります。なるほどなあと感心しました。でもウユン先生はお兄さんのことで一つだけ残念なことがあるそうです。それは自分のことを「ウユン先生」と呼ぶこと。苦難の中を生きぬいた偉大な妹を誇らしく思っているからなのでしょう。「何と呼んでほしいのですか?」と聞くと、少し恥ずかしそうな笑顔で「タマミちゃん」とおっしゃいました。

私は通遼での日本語教師の仕事を終えた後、2019年11月の里帰り歓迎会でやっと再会することができました。その時お兄さんの甫さんは車椅子で参加されていましたが、その5か月後に亡くなりました。ちょうどコロナ禍が始まった時でウユン先生はお葬式にも来ることができませんでした。

2023年秋にやっと残留日本人里帰りが再開され徳島でもウユン先生歓迎会が計画されましたがご本人の入院手術で中止になり今に至っています。

ウユン先生とは微信(Wi Chat)で連絡を取っています。先生から日本に行くためにリハビリに励んでいる写真が送られてきました。中国ではLINEは使えず、微信の内容も監視されていてめったなことは言ったり書いたりできません。特に少数民族の多い地域では外国との連絡に厳しい検閲の目があります。先生にご迷惑にならないように文章はなるべく短く、徳島の写真や動画を送るようにしています。

コロナ禍が終わってもビザなしでは中国に行けなくなりました。ビザを取るのもとても困難な状況です。徳島から毎年、植林隊がホルチン砂漠に行った時代は昔のことになってしまいました。先生を苦しめた時代に逆戻りしているようです。政治に翻弄されたウユン先生は今年86歳。お元気なうちにこんな時代が早く終わりますように。 

                      2024年1月10日   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウユンさんとの出会い・モンゴル語訳

2024-03-06 10:27:37 | 徳島の暮らし

 

 

 

 

         翻訳:シンバヤル(フフホト市在住)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする