父の黄色い愛馬
ウ・ダンバ 著
1947年12月、我が故郷のバーリン右旗で土地改革が始まった。父は貧しい牧民階層に位置付けられ、我が家には29頭の家畜の仔と二頭の馬が分配された。その中に毛並みが黄色味を帯びた薄褐色で、牝鹿のように美しく背の高い8歳の馬がいた。当時、我が家では米を搗いたり小麦を粉に挽く臼のある所に行く乗り物がないので、父はこの黄色い馬で臼場まで行った。そして、米麦を臼で引く仕事をしている母にとって、黄色い馬はかけがえのない相棒になり、この馬をいつくしむようになった。
バーリン旗役所の後ろにガゼル(羚羊)で有名なバインシル丘陵がある。ガゼル狩りの時、父は黄色い愛馬に乗り、速く走る真っ黒な犬を赤い房のある紐をつけて馬の左側で速く走らせながら馬に乗った。狩猟場に入ったガゼルを一頭一頭追いかけて走り、ガゼルの力が尽きた時に黒い犬をけしかけガゼルを倒し、獲物を携えて帰って来たものだ。狩りの収穫物であるガゼルの肉は家族全員に充分にいきわたった。
西バーリンでは毎年陰暦10月に「狼狩り」をする習慣がある。山に狼がたくさんいるので、狩場ごとに片づけていく大規模の長期の狩猟である。父は毎年欠かさず参加し、黄色い馬の駿足と黒犬の鋭い殺傷力、そして自らの巧みな手段と力により、どの年の猟でもいつも腰帯いっぱいに獲物をぶら下げて帰って来た。猟の宴で父は「狼狩りに出ると、黄色い愛馬に跨り黒犬を走らせて、狩猟場に入った一頭の狼を20里30里追いかけて止まらせてしとめる。たまには馬の全速力で追いかけて狼を疲れさせたところを犬が咬みつく。ある年の狼狩りでは狩猟場に入り一頭一頭追いかけ、黄色い馬の速力で一番先頭の大きな狼に追いつき、激しく闘って捕え、縛って持って帰って来た。」と私たちに語ってくれたものだ。
私が思い出すのは、父は家畜倉庫に狼の罠を保管していて、この罠で数年間で計5頭の狼を捕えた。そして5頭の毛皮をホエー(乳清)でなめし、なめし板の上で柔らかくして、故郷の中心部にあった大縫製工場のヤンという名字の老縫製師にたのんで、黒木綿の表とキツネの毛皮の襟を付けた美しい外套に仕立ててもらった。寒さが特に厳しかった1955年の冬、父は時折この外套を取り出して綿入れ上着の上に来ていたものだ。1958年11月、我が家はバーリンからシリンホトに引っ越した。6代の牛車で移動するとき、父の友人のサナルボーという人が車を運転して私たちを送ってくれた。彼が帰る時、父は記念品としてこの人に狼の毛皮の外套をプレゼントした。
1951年、父は高熱性感冒にかかった。薬湯を飲んだり、お経を読んで祈祷してもらうなど出費がかさんだので、黄色い馬を売ることになった。そして、たてがみから何本かの毛を切り取り、漢人の商人に売った。
1年後、古里をこいしがった黄色い馬は、生まれた所に帰って来た。黄色い馬が帰って来たのを見た母はとても喜び、馬の首を抱えて泣いた。馬が帰って来た半月後、漢人商人が馬車に商品の荷物を満載にして我が家に来た。商人が黄色い馬を連れて行くと言うと、母は馬をつかみ、渡さないと泣いた。涙にくれる母を見て心配した父は、何か方法はないものかと、この商人と話し合い、黄色い馬の代わりに土地改革で分配された黒い雌の子馬と黒い三歳馬を渡すことに決めた。黄色い馬が残ると決まった時、母は喜び、また止まらない涙を流した。
黄色い馬が16歳になった時、父は乗るのをやめて、馬の首にお守りをつけ、放し飼いにしている馬群の中に入れた。それから又何年かたち、老いた馬は群れから離れ、昼も夜も単独で行動するようになり、ついに姿が見えなくなってしまった。どんなふうに死んでしまったのか、いろいろな人に尋ねたが知る人は誰もいない。
ウ・ダンバ 著
1947年12月、我が故郷のバーリン右旗で土地改革が始まった。父は貧しい牧民階層に位置付けられ、我が家には29頭の家畜の仔と二頭の馬が分配された。その中に毛並みが黄色味を帯びた薄褐色で、牝鹿のように美しく背の高い8歳の馬がいた。当時、我が家では米を搗いたり小麦を粉に挽く臼のある所に行く乗り物がないので、父はこの黄色い馬で臼場まで行った。そして、米麦を臼で引く仕事をしている母にとって、黄色い馬はかけがえのない相棒になり、この馬をいつくしむようになった。
バーリン旗役所の後ろにガゼル(羚羊)で有名なバインシル丘陵がある。ガゼル狩りの時、父は黄色い愛馬に乗り、速く走る真っ黒な犬を赤い房のある紐をつけて馬の左側で速く走らせながら馬に乗った。狩猟場に入ったガゼルを一頭一頭追いかけて走り、ガゼルの力が尽きた時に黒い犬をけしかけガゼルを倒し、獲物を携えて帰って来たものだ。狩りの収穫物であるガゼルの肉は家族全員に充分にいきわたった。
西バーリンでは毎年陰暦10月に「狼狩り」をする習慣がある。山に狼がたくさんいるので、狩場ごとに片づけていく大規模の長期の狩猟である。父は毎年欠かさず参加し、黄色い馬の駿足と黒犬の鋭い殺傷力、そして自らの巧みな手段と力により、どの年の猟でもいつも腰帯いっぱいに獲物をぶら下げて帰って来た。猟の宴で父は「狼狩りに出ると、黄色い愛馬に跨り黒犬を走らせて、狩猟場に入った一頭の狼を20里30里追いかけて止まらせてしとめる。たまには馬の全速力で追いかけて狼を疲れさせたところを犬が咬みつく。ある年の狼狩りでは狩猟場に入り一頭一頭追いかけ、黄色い馬の速力で一番先頭の大きな狼に追いつき、激しく闘って捕え、縛って持って帰って来た。」と私たちに語ってくれたものだ。
私が思い出すのは、父は家畜倉庫に狼の罠を保管していて、この罠で数年間で計5頭の狼を捕えた。そして5頭の毛皮をホエー(乳清)でなめし、なめし板の上で柔らかくして、故郷の中心部にあった大縫製工場のヤンという名字の老縫製師にたのんで、黒木綿の表とキツネの毛皮の襟を付けた美しい外套に仕立ててもらった。寒さが特に厳しかった1955年の冬、父は時折この外套を取り出して綿入れ上着の上に来ていたものだ。1958年11月、我が家はバーリンからシリンホトに引っ越した。6代の牛車で移動するとき、父の友人のサナルボーという人が車を運転して私たちを送ってくれた。彼が帰る時、父は記念品としてこの人に狼の毛皮の外套をプレゼントした。
1951年、父は高熱性感冒にかかった。薬湯を飲んだり、お経を読んで祈祷してもらうなど出費がかさんだので、黄色い馬を売ることになった。そして、たてがみから何本かの毛を切り取り、漢人の商人に売った。
1年後、古里をこいしがった黄色い馬は、生まれた所に帰って来た。黄色い馬が帰って来たのを見た母はとても喜び、馬の首を抱えて泣いた。馬が帰って来た半月後、漢人商人が馬車に商品の荷物を満載にして我が家に来た。商人が黄色い馬を連れて行くと言うと、母は馬をつかみ、渡さないと泣いた。涙にくれる母を見て心配した父は、何か方法はないものかと、この商人と話し合い、黄色い馬の代わりに土地改革で分配された黒い雌の子馬と黒い三歳馬を渡すことに決めた。黄色い馬が残ると決まった時、母は喜び、また止まらない涙を流した。
黄色い馬が16歳になった時、父は乗るのをやめて、馬の首にお守りをつけ、放し飼いにしている馬群の中に入れた。それから又何年かたち、老いた馬は群れから離れ、昼も夜も単独で行動するようになり、ついに姿が見えなくなってしまった。どんなふうに死んでしまったのか、いろいろな人に尋ねたが知る人は誰もいない。