眉山のふもと

徳島のくらし

父の黄色い愛馬

2020-12-16 12:13:12 | 翻訳
         父の黄色い愛馬
                         ウ・ダンバ 著

 1947年12月、我が故郷のバーリン右旗で土地改革が始まった。父は貧しい牧民階層に位置付けられ、我が家には29頭の家畜の仔と二頭の馬が分配された。その中に毛並みが黄色味を帯びた薄褐色で、牝鹿のように美しく背の高い8歳の馬がいた。当時、我が家では米を搗いたり小麦を粉に挽く臼のある所に行く乗り物がないので、父はこの黄色い馬で臼場まで行った。そして、米麦を臼で引く仕事をしている母にとって、黄色い馬はかけがえのない相棒になり、この馬をいつくしむようになった。

 バーリン旗役所の後ろにガゼル(羚羊)で有名なバインシル丘陵がある。ガゼル狩りの時、父は黄色い愛馬に乗り、速く走る真っ黒な犬を赤い房のある紐をつけて馬の左側で速く走らせながら馬に乗った。狩猟場に入ったガゼルを一頭一頭追いかけて走り、ガゼルの力が尽きた時に黒い犬をけしかけガゼルを倒し、獲物を携えて帰って来たものだ。狩りの収穫物であるガゼルの肉は家族全員に充分にいきわたった。

 西バーリンでは毎年陰暦10月に「狼狩り」をする習慣がある。山に狼がたくさんいるので、狩場ごとに片づけていく大規模の長期の狩猟である。父は毎年欠かさず参加し、黄色い馬の駿足と黒犬の鋭い殺傷力、そして自らの巧みな手段と力により、どの年の猟でもいつも腰帯いっぱいに獲物をぶら下げて帰って来た。猟の宴で父は「狼狩りに出ると、黄色い愛馬に跨り黒犬を走らせて、狩猟場に入った一頭の狼を20里30里追いかけて止まらせてしとめる。たまには馬の全速力で追いかけて狼を疲れさせたところを犬が咬みつく。ある年の狼狩りでは狩猟場に入り一頭一頭追いかけ、黄色い馬の速力で一番先頭の大きな狼に追いつき、激しく闘って捕え、縛って持って帰って来た。」と私たちに語ってくれたものだ。

 私が思い出すのは、父は家畜倉庫に狼の罠を保管していて、この罠で数年間で計5頭の狼を捕えた。そして5頭の毛皮をホエー(乳清)でなめし、なめし板の上で柔らかくして、故郷の中心部にあった大縫製工場のヤンという名字の老縫製師にたのんで、黒木綿の表とキツネの毛皮の襟を付けた美しい外套に仕立ててもらった。寒さが特に厳しかった1955年の冬、父は時折この外套を取り出して綿入れ上着の上に来ていたものだ。1958年11月、我が家はバーリンからシリンホトに引っ越した。6代の牛車で移動するとき、父の友人のサナルボーという人が車を運転して私たちを送ってくれた。彼が帰る時、父は記念品としてこの人に狼の毛皮の外套をプレゼントした。

 1951年、父は高熱性感冒にかかった。薬湯を飲んだり、お経を読んで祈祷してもらうなど出費がかさんだので、黄色い馬を売ることになった。そして、たてがみから何本かの毛を切り取り、漢人の商人に売った。

 1年後、古里をこいしがった黄色い馬は、生まれた所に帰って来た。黄色い馬が帰って来たのを見た母はとても喜び、馬の首を抱えて泣いた。馬が帰って来た半月後、漢人商人が馬車に商品の荷物を満載にして我が家に来た。商人が黄色い馬を連れて行くと言うと、母は馬をつかみ、渡さないと泣いた。涙にくれる母を見て心配した父は、何か方法はないものかと、この商人と話し合い、黄色い馬の代わりに土地改革で分配された黒い雌の子馬と黒い三歳馬を渡すことに決めた。黄色い馬が残ると決まった時、母は喜び、また止まらない涙を流した。

 黄色い馬が16歳になった時、父は乗るのをやめて、馬の首にお守りをつけ、放し飼いにしている馬群の中に入れた。それから又何年かたち、老いた馬は群れから離れ、昼も夜も単独で行動するようになり、ついに姿が見えなくなってしまった。どんなふうに死んでしまったのか、いろいろな人に尋ねたが知る人は誰もいない。
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馬に乗った銀行員

2020-12-07 11:01:02 | 翻訳
               馬に乗った銀行員(原題 騎馬銀行)
                                 ウ・ダンバ 著

 日増しに近代化される生活の中でも牧民は馬から離れられない。1960年代アブハナル旗人民銀行職員の仕事は馬がなくてはできるものではなかった。

 アブハナル旗人民銀行の栗毛馬に乗ったトノイ、黒馬に乗ったボーハイチンという二人の職員は、ホショーの人民銀行シリンホト炭鉱、バインシル牧畜場にある支店や、ヤラルト、ダブシルト、バインボラグ、チョホール、アラシャンボラグなどの公社の信用組合に金銭の出し入れする仕事を担当していた。背中には何千何万の人民元を詰め込んだ荷物を背負い、拳銃を肩にかけ、はるかに続く草原の道を駿馬に乗って行き、滞りなく効率的に仕事を遂行していた。遠くへ行く時には二つの耳さえ重いという。当時の紙幣の一番大きな単位は10元であるから、何万元もを背負うと遠い道のりではどうしようもなく重い荷物になった。

 1963年、アブハナル旗農業銀行が設立され、その後1965年に人民銀行と合併した。僻地に出かけていく職員数を増やしたので馬も増やす必要から新たに21頭の馬を買い、元からいた2頭と合わせて23頭になった。その時新しく買った馬の中に5歳の雌鹿のように美しく背の高い白馬がいた。馬を売ったのはアブハナル旗ダブシルト公社のシャルタル隊のジョグドルであった。ジョグドル老人は銀行に500元の借金があり、何年経っても返済できなかった。白馬を銀行に売ることになったとき、ジョグドル老人は愛しい白馬から離れがたく、馬の首を抱えて熱い涙を流した。

 1964年春、政府の執行機関から、当時流通していた5元・3元・2元の旧人民紙幣を新札に替える通達が出された。この通達を実行するためアブハナル旗の2つの銀行は直ちに専門チームを編成した。そしてこの2銀行の職員であるジャムスロン・チョグデルゲル・リュウジヤンなどの14人の職員からなる7つのチームの者は、2万元の人民弊を布袋に包んで背に負い、護身用の銃を肩にかけ、3種類の旧札を交換する任務についた。

 4月1日の朝、駿馬に跨り、それぞれの目的とした銀行支店、信用組合を目指す長い旅路についた。私も農業銀行の上司であるシーボーシャンと二人、同じような毛色の黒馬に乗って遠路90㎞を二日がかりで行き、アラシャンボラグ公社の中心部アヨールハイに着いた。人民弊交換の仕事はアラシャンボラグ公社の役所の駐在、信用組合の暖かい支援により順調に進み、二十数日が過ぎ、持って来た紙幣が尽きそうになると旗の人民銀行に知らせて紙幣を送ってくるように頼んだ。

 4月25日我が銀行長ヤンジャンイオイが白馬に乗り小銃を持ち、同行の二人の職員は同じ毛色の栗毛馬にのり、それぞれ2万元の新札を背負い二日がかりで届けてくれた。そしてシーボーシャンと私の二人はアラシャンボラグ公社で1月ほど働いた。周辺の牧民、幹部、職員、労働者の手にある5万ぐらいの旧紙幣を新紙幣に交換するこの度の任務を職員達と共に決められた期間内で完遂させ、銃を下げ残った紙幣を背負い、黒馬に乗り5月13日に帰宅した。
 
 1979年11月に中国農業銀行が再建され、アブハナル旗農業銀行も再生した。そして、銀行の新職員が非常に増えたので、交通手段としての馬も買い足し、計42頭になった。他に馬車を曳く馬も4頭いた。これ以外にアブハナル旗各所の信用組合、支店ごとに交通用の馬が2頭ずついて、60年から80年にかけてアブハナル旗の農業銀行関係の職員の交通用の馬の数は計56頭であった。冬には飼料となる草を育てているので馬たちは肥えており、そのため我が銀行は「肥えた馬の背に乗った銀行」と呼ばれていたものだ。
 
 当時、各銀行の草原の田舎に出かける18人の職員にはそれぞれ全員に交通手段として2頭の馬があてがわれていた。職員は各公社・牧畜場・炭鉱にある銀行の支店・信用組合に金銭を届ける、受け取る、融資、集金、信用組合の調整、公社の会計を指導援助する、帳簿を校正する、安全を調査する等の銀行の多くの関連するいろいろな仕事のために馬にのった。その度に馬は順調に目的地に向かい、仕事をやり遂げることができた。

 1985年には、アブハナル旗農業銀行の草原に出張する職員の乗り物はオートバイに変わった。「馬の銀行」は「車の銀行」になったのである。
 1960年から始まったアブハナル旗人民銀行・農業銀行の金銭流通システムは、それから20年の間に馬の背の上ですばらしい成果を挙げたのである。
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