眉山のふもと

徳島のくらし

助任川③ 参勤交代の玄関だった福島橋

2022-10-28 11:59:07 | 徳島の暮らし

福島橋の場所は今も昔も変わっていない。古くから福島川とよばれ現在もそう呼ばれることがあるが、福島橋の銘板には助任川と記されている。

 

 西側には現徳住橋から福島新橋にかけて、松並木が続いている。

 城主が参勤交代の際、家臣たちがこの松並木の下に並んで城主を見送った。鷲の門を出た城主一行は徳島本町の通りを東に進む。

 福島橋から連絡用の舟に乗ると御船歌が歌われ太鼓が打ち鳴らされ厳かに旅が始まり新町川を沖洲まで下る。そして沖洲で御座舟に乗り換え、沖洲と津田の間の「津田口」から大船団を率いて大阪へ向かった。

     

 

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助任川② 前川堤の桜並木

2022-10-25 11:51:27 | 徳島の暮らし

 助任川北岸の前川堤は桜並木があった。いつできたかはわからないがかなり古くからあったといわれている。現在の緑地公園内に飯原一夫氏の絵を文がああるので、紹介します。

―助任川の川幅は今の二倍ほどあった。前川堤の外のヨシの中でヨシキリが巣を作り、潮が引くとシジミが取れた。堤の桜並木は、春になると多くの人を集め、遊山箱を広げる。(中略)昭和二年(1927)、助任川北岸の埋め立て開始、前川町の鈴江橋(今の三ツ合橋)畔から助任橋までの約1140mは平均53mの幅で埋め立てられた。— 

   

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助任川①

2022-10-21 12:10:47 | 徳島の暮らし

   城山の影を映す助任川は「渭水」という別名がある。中国長安の渭山の影を映す渭水になぞらえたというが、実際はその姿から猪山と呼ばれた城山が渭山と当て字され、それから渭水が名づけられたというのが正しいようだ。

   徳島城北側の天然の濠であった助任川は川幅が現在の2倍とも3倍とも伝えられる大きな川だった。

 城山の北側はすぐ助任川に落ち込み、西之丸の北側で川幅が広くなっていた。

   西之丸の助任川に面した所に水之手門があり、物資の搬入をしていた。絵図と現在地図を重ねてみると内町小学校北側の緑地あたりになるが、痕跡はみつからない。城山の下の古い石組の石垣が現在も部分的に残っている。

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消えた寺島川⑤

2022-10-12 10:30:00 | 徳島の暮らし

        ↑ 現代の地図の上に江戸中期の河川を重ねた

  

     ↑明治42年                  戦後↑

 明治32年(1899)開業の徳島鉄道株式会社による線路用敷地として寺島川の埋め立てが始まった。牟岐線沿いはしばらく半分だけ残っていたが、1959年ごろに埋め立てられた。明治から昭和にかけての約60年間で寺島川は少しずつ埋め立てられ、その姿を消した。

 徳島駅の場所を100メートルほど南にずらす、又は助任川北岸にするなど、川の埋め立てを避ける方法はなかったのだろうか・・・誰が、どんな理由で、寺島川埋め立てを発案したのだろう・・・疑問が湧き上がる・・・

コメント (2)
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消えた寺島川④

2022-10-09 12:30:36 | 徳島の暮らし

寺島川の東端には「寺島橋」、西端には「出来島橋」があった。

         阿波国渭津城下之絵図 天和3年

「寺島橋」は徳島橋・渭津橋とも呼ばれた。

全長三十四間(約61.2m)、幅三間半(約6.3m)、中央に橋台を設けて東西二橋に分かれ、擬宝珠のついた欄干があった。東の橋詰は渡櫓のある門があり、徳島城大手門へと通じる。橋の寺島側(西側)は左右に賀島と稲田の家老屋敷が並ぶ文字通り城の表玄関である。現在の地図上では新ホール建設のため通行止めになっている市役所東側から牟岐線を越える跨線橋の地点。   
 絵図には寺島橋東の門も見える。ー 橋の徳島側には「門台」と呼ばれる石垣造りの櫓門と番所が設置され、平士と番人が取締まりの役にあたり、人々の出入りを厳重に監視した。門台の大門は夜間には閉めて潜戸だけで通行させるようにしていた。夜間、大門を開ける場合には、仕置き家老の補佐をした重役本〆役の裁可が必要だった。―WEBサイト「城下町とくしま歴史さんぽ」

2022年9月28日の徳島新聞「徳島県立新ホール・基本計画を読む6」によると、建設予定地で、「寺島口」の門台などの遺構が見つかった。県は現地保存して設計に反映させる考えだそうだ。

 埋め立てて消してしまった橋。

わずか60年後に掘り起こして保存するくらいなら、どうして取り壊して埋めてしまったの・・

 

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消えた寺島川③

2022-10-06 12:45:32 | 徳島の暮らし

 徳島城築城のころ、防衛のために助任川と寺島川とつなぐ瓢箪堀を掘り抜いていて、城は北を助任川、南を寺島川、東を御堀川、西を瓢箪堀に四方から囲まれ護られていた。

 その後、防衛の必要がなくなり、城を水害から守るために二つの川に面した所に堤防が築かれ、徳島と出来島がつながった。

 この絵図では寺島、出来島、瓢箪島が地名として書き入れられている。当時ここに瓢箪型の池があったともいわれている。

 現在の地図で見ると、前川橋に通じる徳島地方合同庁舎の西側の道のあたり。

ひょうたん島クルーズ船が周遊するようになり、「ひょうたん島」の呼び名が親しまれるようになったが「瓢箪島」は由緒ある地名だったんだ。

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消えた寺島川②

2022-10-04 12:29:42 | 徳島の暮らし

 挽舟門と塩蔵門の遺構を見つけた。

     

 安永9年「徳島城絵図」には城壁に二つの門が描かれている。場所から見て間違いない。

  

 鉄砲櫓そばの「塩蔵門」と西之丸口門近くの「挽舟門」。二か所とも雁木と呼ばれる水面に降りる石段が見える。徳島市立図書館作成の「徳島城全体の配置図」では塩蔵門のすぐ西側には「塩蔵」「作業所」があり、通路をはさんで「つく米方」がある。この塩蔵門から城へ塩や米が運び込まれていたことがわかる。

 「徳島・城と町まちの歴史」によれば「寺島川沿いの石垣は、太鼓櫓の下から西の丸口門までの間、ほとんど切り込みはぎに近い積み方で、(中略)ていねいに積んだ石垣の石材はすべて緑色片岩でできている」。とある。川面に映る石垣と城壁は美しいものだったに違いない。 

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消えた寺島川①

2022-10-01 09:04:52 | 徳島の暮らし

 現在の寺島川は中央公園とJRの線路の間の幅2~3mの溝となり草に埋もれている。JR操作場から西はJR線路の下に消え、公園より南東は線路と新ホール建設地になっている。下乗橋の西にあるトイレの後ろに、現存する寺島川の南端が残っている。 

 寺島川は、かつては川幅が二十間位(約36m)の水量豊かな川だった。寺島の北側と出来島・徳島の南側の間を流れ、徳島城築城以来、城の天然の濠となり、徳島城への物資の搬入に使われていた。

JRとの境の溝となってしまった寺島川で舌石を見つけた。かつて、ここに城壁があって敵の襲来に備えて弓を放つための三角の出っ張りを支えた石です。一番初めの石はJR剣先橋跨線橋から見えます。

  

  

埋もれてしまっているが約35m間隔で15個の舌石があって、6個まで確認されているそうです。あと1個は見つけられなかった。石垣の上の盛り土があり、傾斜が急で落ちるのが怖いので・・

 

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