眉山のふもと

徳島のくらし

ラブジョール・マームの贈り物

2021-06-16 11:45:44 | 翻訳
       ラブジョール・マームの贈り物
                        ウ・ダンバ


 シリンゴル盟モンゴル医病院の著名な医師ラブジョール・マーム(高僧に対する敬称)は、私の母の叔父にあたる人である。1890年に生まれ、7歳でラマになり十幾つで故郷を離れ、五台山、ラサなどの地で仏典やチベット・モンゴル医学を学び、1910年頃にシリンゴルに来て貝子廟のラマ僧としてそこを住処とした。1930年代の終わり頃、母方の叔父であるバーリン西旗のゴンボジャブ・モゴンダ(官位の一つ・実権はない)が胃の病気治療のためアブハナル旗のベルベチ温泉に行く途中で貝子廟に立ち寄り、ラブジョール・マームに会ったと母が話していた。
 
 1958年、私たち一家がシリンホトに引っ越してきた後、母はラブジョール・マームにお会いした。1960年、ラブジョール・マームから姪に当たる私の母に褐色の乳牛が贈られた。牛は、我が家に来た年にメスの子牛を生んだ。その夏、私たちは交代で、日中は乳牛を廟の敷地の一隅で草を食ませに行き、夜は連れて帰り庭につないだ。おかげで夏中おいしいミルクティーを飲むことができた。
 秋になり、乳牛は子牛と一緒に過ごすようになったので、牛の群れに入れて放し飼いにしたいと考えるようになった。 

 当時、シリンホト刑務所の看守をしていたバーリン旗出身のロブサンジャンバという人(父より8歳年下)が、父の「語りの館」(四胡の演奏に合わせて物語を語る場所)によく出入りしていた。彼は語りを聴くだけでなく、家にも来て、父とふるさとの話をして座り込んでいたので、私も彼を「おじさん」と親しんでいた。1960年、ロブサンジャンバおじさんは刑務所の仕事から移動になり、労働改造所牧場(野菜も植えている)の所長になった。ある日、うちに来て父と話し、乳牛を入れる牛群を探していることを知り、彼の管理する牧場に入れてもいいと言った。こうして褐色の乳牛と赤い子牛はおじさんの言う通りに彼らの牧場に入れた。

 それからあっという間に7年が過ぎた。ロブサンジャンバおじさんは看守の仕事から、西ウジュムチン旗のジャラン牧場の副所長として転任になった。その時にはうちの褐色乳牛の子牛は増え育って、すでに6頭ほどになっていた。おじさんは転勤にあたって牛群の移動について考えを巡らせた。そして、アブハナル旗バインボラグ公社ナランボラグ隊の隊員であるバーリン・ジャムスという人を呼び寄せることにした。
 バーリン・ジャムスの家は解放前、私の叔父ゴンボジャブ・モゴンダ(官位の一種・実権はない)の雇人で、牛や羊を放牧していたそうだ。解放後、彼はふるさとを離れシリンゴル盟アブハナル旗バインボラグ公社ナランボラグ隊に来て定住していた。
 バーリン・ジャムスは母と同い年で、母と仲よく遊んで育った。1958年、我が家がシリンホトに越してきたのを聞いた彼は、母を探して再会した。ゴンボジャブの倉庫の鍵を持っていた私の母が、夜になると他の雇人に内緒で倉庫の小麦粉・肉・油・茶などを彼にこっそりと渡してくれたことを恩に着ていると話し涙を流した。私たち兄弟は彼を「母方の叔父さん」と呼び、家ぐるみで親しんだ。

 1961年夏は、日差しと雨に恵まれた素晴らしい季節であった。6月のある日、バーリン・ジャムスはわざわざ牛車でシリンホトに来て、母を自分の家に招待した。母が彼らの家に行き十日ほど滞在した頃、私の学校が夏休みになった。母が恋しくなった私は、母の後を追って行きたいと言うと、父は彼らの所まで行く乗り物を探してくれた。彼らの隊からシリンホトに来たテンジンオトチルの母親が帰る牛車で私たちを乗せて送り出してくれた。
 午後シリンホトを出て夜中の2時くらいになって彼の村に着いた。朝起きて、周りを見るとホワ湖の緑の段丘の上に白い五つのモンゴルゲルが並んでいるので尋ねたら、テンジンオトチル、トゥフル、ダリマ、テンジンのゲルだと教えてくれた。午前、そこの集落のデンセマーという人が、私と同い年の娘のマナーの二人を牛車に乗せ、バーリン・ジャムスの住むタヒグ谷という所まで送り届けてくれ、私は母と会った。その時、小さい弟のシンバヤルは2才だった。ジャムスおじさんは妻と話し合って、私たち3人を牛車で送って来ることになった。彼は馬に乗って出かけ、南の集落へ行き、羊群から一頭のオス羊を捕えて葬った。そして肉を刻んで炒め、きれいに洗った羊の胃袋を一日ホエー(チーズを作る時の上澄み液・乳清)に浸し、そこに炒めた羊肉を入れ、お土産として持たせてくれた。一晩と半日をかけてシリンホトまで私たちを送り届けてくれた。
 バーリン・ジャムスと妻ホルローの夫婦には子どもがなかったので、アブハナル旗ヤラルト公社ヤラルト隊のバトラホという家の息子を養子として育てていた。子どもの名前はナスンジャルガルである。

 我が家の数頭の牛はジャムスがシリンホト労働改造所の牛牧場から彼らの町のルンデブの牛群に入れた。1968年には牛は7頭になっていた。しかしその冬の大雪で不運にも2頭の3歳牛を残して他の牛は行方不明になってしまった。経験豊富な牧民であるルンデブは、
「うちの丘にいる牛は吹雪に巻き込まれたら西ウジュムチンの防風林になっているガハイ砂地に入ってじっとしている」
と言った。
 ラブジョール・マームが母に贈った褐色乳牛は若い時に角の突き合いで片方の角が折れた。残りのもう一方の角が厳冬期に凍ってしまわないように、母がモンゴルゲル用のフエルトで袋を作り角にかぶせて保護し、片角牛になっていた。
 夏の朝、ゴンボジャブ叔父がジャラン牧場の役所からほど近い井戸で馬に水を飲ませていると、片角の褐色乳牛を先頭にした5頭の牛が毎朝井戸までやって来て、馬と一緒に水を飲んでいる。注意して見るとうちの褐色乳牛だとわかった。そしてその秋、シリンホトに来た時、我が家に寄って父にそのニュースを知らせてくれた。

 1969年秋、我が家はヤラルト公社ウリジーデルゲル隊の隊員になり、ホルガン井戸というマルラン書記の村落で秋を過ごし仕事は忙しくなかった。牛の消息を知った父が私に、「牛を取りに行くか」と言うので承知して牛探しの旅の準備をした。
 こうして、10月24日の朝、西ウジュムチン旗のジャラン牧場を目指して出発した。ジャラン牧場のことを知っている人に聞いたところ、私の住むところから180華里(90㎞)の道のりだという。午後1時ころにモドン牧民村に入った。そこで、ウルム(サワークリーム)やホロード(チーズ)と一緒に、濃くておいしいミルクティーを飲み、午前の道中の疲れをいやした。また続けて道を進み、日がかげるころにジャラン牧場の村に着き、ここで一晩を過ごそうとある集落に入った。
 60歳くらいの主婦がお茶を入れてくれた。私はお茶を飲む間に牛探索のことを話し、一晩ここで泊めてくれるよう頼んだ。しばらくすると、黒い髭の老人が白い袋に入ったものを持って入って来て、私にあいさつした。私は又その老人にさっき夫人に話したことをもう一度くりかえし、他の話もした。夫人は老人の様子を見て、
「おじいさん、白い袋に何を持って来たの」とたずねると、老人は袋の口を開けて、中から秋の新鮮な大根、ネギ、白菜を出して、
「道すがら、配給場の野菜配給所に行って買ってきた」と答えた。
 老人は名前をウニルといい、昨年夫人の病気を診てもらいにシリンホトに行き、モンゴル医学の著名な医師ラブジョール・マームに会ったことを話し、お医者様の消息を私にたずねた。その晩は夕食に夫人の作った大根入り羊肉スープとお米のご飯をいただき、ぐっすりと眠った。

 翌日は、ジャラン牧場に通じる道に入った。ロブサンジャンバ叔父の所から30華里(15㎞)なので早く着いた。ロブサンジャンバ叔父・オトゴン叔母は私を見てとても喜んだ。叔父は自分で馬に乗って近くの羊飼いの家からオス羊を積んで来て殺し、羊肉で私をもてなしてくれた。私は牛の情報をもう一度正確に聞いた。翌朝、井戸の所に行き、馬に水を飲ませた。そして牛たちをこの目で見、はるばるやってきた甲斐があったと胸をなでおろした。私がそこに着く5日前、赤いメス羊が子牛を生んでいた。母牛を連れて行っても生まれたての子牛が付いて来られない。大事をとってロブサンジャンバ叔父の所に3日滞在した。さらに数日が経ち、私の親戚のダムリン一家がそこから60里のジャランゴール公社に住んでいるのを聞いて、ダムリンの所に寄り、そこで2泊した。

 10月末、もう秋の涼しい頃になっていたので、出発の朝は寒風が吹いていた。オトゴン叔母は道中の寒さを防ぐようにと、私に冬の帽子をかぶせてくれた。私は朝早く叔父の家から牛を追って出発した。馬に乗ると牛の歩みと合わないし、生まれたばかりの子牛がついて来られない。大部分は馬を引いて歩いて進んだ。一日目は30華里(15㎞)ほど進み、来るときに泊めてもらったウニルおじいさんの所で再び泊めてもらった。夫人は夜に赤ちゃん牛の母牛のミルクを絞り、子牛を母牛から離して囲いに入れた。片角の褐色乳牛を車に繋ぎ、他の牛は放しておいた。それから数日は、毎日70華里(35㎞)近く歩き、11月2日に帰宅した。
 その年、バインボラグ公社ナランボラグ隊のバーリン・ジャムスの所に残していた4歳牛と3歳牛を盟の食料部に300元で売った。
 ジャラン牧場から連れて来た6頭の牛はうちで冬を越し、マルランの叔父であるハマルサンボーの牛群れに入れた。うちの牛の何頭かが牛群になじめないので昼は私が放牧した。この年の12月末に私は東ウジュムチン旗アルタンヒル公社から軍馬の世話をするために行っている間に大吹雪になり、何頭かが行方不明になった。すぐにあたりを探し回ったが見つからない。又ガハイ砂地に行ったのかも知れない。

 1969年、母方の親戚の高名な医師ラブジョール・マームは「文化大革命」による禁固から釈放された。しかし、一年余りの間の迫害によって健康を損なっていた。私の母が手厚い看護をし、一冬を我が家で安らかに過ごしたが、1970年5月にシリンホトで身罷った。享年80歳であった。
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