私は高校の修学旅行で奈良・京都を訪れた際、立派な大仏や法隆寺を始めとする数多の仏閣がありながら、なぜ平城京から平安京に遷都したのかに疑問を抱きました。その後、半世紀余を経てこの疑問解明に取り組んだので、その結果を要約します。
686年に天武天皇が亡くなってから40年の間、即位したのは持統、元明、元正の3人の女帝だった。女帝が続いたわけは、男子継承者がいずれも早死したから。つまり、天皇家は断絶の危機に瀕していたのである。それに加えて、疫病・旱魃・飢饉・地震などが頻発して社会不安が生じていた。そこで、元正のあとを継いだ聖武天皇(天武のひ孫)は、「仏教の力をもってこの国を守り、豊かな国家にする」という詔を発して、莫大な費用を投じて大仏を建立した。
しかし、井沢元彦氏は、大仏建立の本当の目的は「天皇家の永続を願う」ことだったという(逆説の日本史 2 古代怨霊編)。そして井沢氏は、その本当の目的が公式文書に残されていないわけは、「天皇家が断絶しないように、仏に祈る」と言えば、言霊*によってそれが本当になると怖れたからだという。
*言霊とは、恐れていることを口にすると、それが実際におきてしまうという思想。なお、言霊思想はこの大仏の一件だけでなく、日本人の古代から現在にいたる精神構造の一つの根幹である。
聖武天皇と光明皇后の間に男子が一人生まれたがすぐ死亡して、女子しか残らなかった。そして、その女性が跡を継いで孝謙天皇になり、重祚して称徳天皇になった。ここで天武天皇の系統は途切れた。つまり大仏は建立の目的を実現しなかったのである。
称徳天皇の跡を継いだのは天武天皇と壬申の乱で争って敗れた天智系の傍系男子だった光仁天皇で、その息子が平城京から平安京に遷都した桓武天皇。桓武としては、縁起が悪い平城京に嫌気がさしていただろうし、異なる系統の皇室の2代目として新しい皇統の安定を祈念して平安京に遷都したと思われる
ではなぜ現在の京都の場所が選ばれたのか。その理由は、京都は琵琶湖と大阪湾をつなぐ淀川に面しており、当時の主要な交通手段が舟だったから。
さらに井沢元彦氏によれば、風水の影響もあったという。すなわち、風水によれば首都の理想的な地形は、北に山、南に水(海や湖)、東に川、西に大道がある場所。そして、京都はこの四つの要件をすべて満たしていた。今でこそ南に「水」がないが、昭和時代までは京都の南に巨椋池(おぐらいけ)*があった。ちなみに、江戸もこの首都の要件を満たしていた。「江戸の北には山がないではないか」という反論もあろうが、上野の山がそれである。
*池といっても小さな湖ほどの面積があったらしい。
これで「なぜ平安京に遷都したか」という理由がわかったつもりでいたが、最近になって新しい説にお目にかかった。「日本史の謎は地形で解ける」(竹村公太郎)によれば、遷都の理由は環境汚染だという。
飛鳥・奈良時代に再生能力を超えた森林伐採が行われ、山が荒廃し保水能力が失われ、清潔な飲料水が消失し、生活汚水が盆地内によどみ、衛生環境がすこぶる悪化した。住居・寺社・船・橋などすべてに木材が使われたし、熱源も木(炭)だったから、過度の森林伐採があったことは十分想像できる。奈良盆地には大阪湾に通じる大和川があるが、小さな川だから当時でも10万の人口があった平城京を支えるには水量が十分ではなかった。現在は奈良盆地の周囲には緑なす山々が広がっているが、それは平安京に遷都後、人口が激減し森林伐採が不要になって緑が戻ったからである。
竹村氏の主張は説得力がある。平安京遷都にはいろいろな事情が絡んでいたことがわかる。