頑固爺の言いたい放題

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『日本百済説』(金容雲著)の概要

2013-03-06 15:58:56 | メモ帳

大筋: 天皇の血統は3回代わった。崇神(=神武)→応神→継体

桓武の時代に半島と決別

 

 半島と列島の分国関係

九州西南部:馬韓→百済・・・狗奴国

九州北東部:弁韓→加耶・・・邪馬台国→第一期天皇家(崇神王朝)

出雲:辰韓→新羅・・・出雲王朝

『梁書』によれば、分国は檐魯(たむろ)(屯)と呼ばれた。埼玉は三タムロ。

加耶は本国が弱体化したもの。→任那日本府

加耶の始祖は伊珍阿鼔(いちあき)・・・イザナギ→建国神話とともに列島に移動。

卑弥呼→カラ語の日女(へめ)

扶余族にも天孫降臨神話。王家の始祖→解慕漱(けもす) 

解(日):カ、ヘ、ヒ →太陽信仰

高句麗王は解姓 →出雲の神魂(かもす)神社 

出雲の天孫降臨神話は『記紀』で抹消された。

 

 ●檀君神話

天帝の子孫の神、桓雄が熊(農耕民の比喩)の人間になりたいという願いを聞いて、女性にしてやった。その女性と桓雄の間に生まれたのが始祖の檀君王倹(たんぐんわんごむ)。太陽と熊が合体した。

日本では太陽(アマテラス)と熊神(スサノオ)に分離。 出雲のカモス神社の近くにスサノオを祀る熊野神社がある。

 

 ●日本の建国神話と韓国の建国神話は似ている→列島と半島の王家の出自は同じ

*天から降臨 

*久士布流峯(日本):亀旨峯(金首露王)

*卵(金首露王)または布団にくるまっている 

*海幸・山幸対温祚・沸流

 スサノオは熊成峯にいた(『紀』神代上)

久麻那利(くまなり)→熊津(うんじん、現在の公州こんじゅ)・・・kumanari →Kumano 神がいた場所

 檀君は阿斯達(あさだる)へ都を移した(檀君神話) 。 阿斯は朝、達は岳→阿蘇山 飛鳥(明日香)にも通じる

 

邪馬台の語源

檀君神話の神市(カムト 建国の地):kam →amu→ amu→ ama→ yama

古代日本語ではトに2種類あった。韓国語ではtoとteo の2種類あり、古代日本語を残している。それがyamateoヤマタイになった。

 

移動の時期

第1回:建武中元二年

第2回:安帝の永初元年(107AD)に倭の国王、師升が朝貢。

    新羅の二代目の国王は次々雄(チャチャウン) Chachawan→sasawun →susun 師匠(日韓共通)

 

畿内には新羅語・百済語の地名が多い。

 奈良:ナラは新羅語の国

 橿原:加耶国の始祖・金首露が降臨した亀旨(クジ)の峰が、亀旨峯(クジポン)-久士布流(くじふる)-橿原と変化した。

 河内:百済語で、カ(中)、ウリ(内・国)。中つ国、中心の国

 

邪馬台国は加耶系、対抗した狗奴国は百済系

百済は魏と敵対的だったから、狗奴国は魏に朝貢しなかった。加耶系の邪馬台は魏に朝貢した。その後、邪馬台国は中国の文献から消えたから、狗奴国に滅ぼされたのではないか。邪馬台国の敗残勢力が畿内に移動し、先着していた新羅勢力を打倒して、崇神王朝を樹立した。この勢力は急速に成長し、最後の王・仲哀は九州(狗奴国―熊襲)征伐を試みるが、失敗する。九州征伐は鉄貿易の確保だった。

 加耶と日本の古墳からの出土品は類似しており、同一民族であることは明らか。

加耶=加羅 kara はharaに変化。 「はらから」=同胞・民族→親族の集まり→クニ。 

 

百済は2系統

高句麗の始祖・朱蒙に二人の息子:温祚百済(漢城)と沸流百済(熊津ウンジン)

広開土王の碑にある文:倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅

日本人の学者は「倭が辛卯年に海を渡り来て、百残、加耶、新羅を討った」と読む。すなわち、□□□の中は 加耶新。

金容雲は「倭が辛卯年(391年)に来たので、(大王が)海を渡り、百残・利残・新羅を破った」と読む。□□□の中は 利残・新。

∵(1)倭の力はそれほど強くなかった (2)碑の趣旨からして、主語は大王 (3)百済には二系統あり、百残と利残

 

なぜ百済を「くだら」と読むか?  くんなら kunnara (大きいクニ)→kunara→kudara (nはtやdに変わる)

 

狗奴国と応神

くん(大きい)な(国)→利残の分国→応神天皇の勢力、応神はクダラの名を百済に与えた。

利残勢力は広開土王に攻撃され、列島に渡り、狗奴国勢力と合流し、ヤマトに入った。

夕月の君が120県の百姓と、阿知使主(あちおみ)が17県の百姓と、列島に渡ったが、これは応神時代の民族移動。

高句麗の攻撃で漢城百済が滅亡→応神が熊津の地を文周王に与え、国を再興。(熊津は倭王の領土だった)

 

神功皇后

邪馬台国は狗奴国に敗れ、九州を南下、高千穂にいたる。崇神(神武)は高千穂から畿内に東征し、ヤマトとして国を再興した。其の後、ヤマトは何度も狗奴に報復せんとした(半島から輸入される鉄の確保も目的);→景行天皇・ヤマトタケル・仲哀(失敗)。

広開土王碑文:「399年倭人が新羅に侵入」とあるが、この倭人とは狗奴国から来た勢力で、神功が率いる利残との連合軍。

神功は北九州で仲哀天皇(加耶系崇神王朝の最後の天皇)を破って、畿内に進出。

応神の父親は武内宿禰(百済の貴族・木満致)。三百年も生きたとは、何代にもわたる話を一人の集約したもの。

 

応神天皇

倭名→誉田(ほんだ、こんだ、ほむた) homuta→konda→ konta→konti→kunti

「くん」は「大きい」を意味する。韓国語の長男はクンエ(大兄は皇太子になった….中大兄、古人大兄)。応神→おおかみ(大君)。熊津(うんじん)→応神。熊津百済系。

応神が天皇になった背景は血統→扶余族の辰王の血筋でないと三韓の王になれない→中国の皇帝に対しての権威性もある。

 

継体天皇

和名「オオト(男大迹)」→大人。

「雄略紀」にある百済皇子、昆支(こんき)が継体。軍君(こにきし)とも表記。「くん」は「大きい」で大君。即位した枚方は百済人の本拠で、昆支が滞在していた場所。

応神の五代の孫とされるが、これはほとんど他人。漢城百済系。

武烈のあと10年間空位。即位(507年)してからも王都に入るまで20年を要した。

王位につくやすぐ親百済政策。倭の領土任那の一部を百済に譲渡(『紀』)。雄略も高句麗により漢城百済が陥落すると、熊津を百済の文周王に与えている。つまり、倭王たちは百済・倭連合の王だと考えていた。倭の五王たちが晋や宋の皇帝に送った上表文にも、同じようなことが書いてある(現実ではなく、観念の問題?)。

継体は六万の大軍を新羅征伐に派遣せんとしたが、九州の新羅系勢力(磐井)に阻まれた。

継体の後継者たちも親百済(舒明天皇の葬儀は百済式)。・

503年(即位の4年前)に百済の武寧王が継体(男弟王)に鏡を贈った(隅田八幡宮に保管)ことから、即位以前から実質的王だった。

『紀』は継体の死の記述に『三国史記』を引用した。「この年日本の天皇、太子、皇子ともに没す」

 

 ●倭の五王:

「自ら使節、都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す」(宋書「倭国伝」)。この要求は、かつての辰国王が治めたすべての国の支配権を主張するもの。高句麗は辰国とは別の扶余族だから、支配権を主張していない。新羅は別の民族だが、前身の辰韓だったときは、辰王直系の馬韓王が辰韓王を任命していた。

宋はすでに朝貢していた百済を除いて、要求を受け入れた。新羅と任那は朝貢していなかったから、倭の支配下とすることに問題なし。

倭王武の上表文は高句麗の無道を訴えた(478年)→高句麗が漢城百済を陥落させ、蓋鹵王を戦死させた3年後。北方95カ国とは、馬韓(54カ国)、弁韓(12カ国)、辰韓(12カ国)の誇張。宋にとって倭は利用価値があった。遠交近攻。・

 

 ●白村江の敗戦663年(天智2年)の影響:

倭と百済の一体化をもたらした。中国への朝貢は安全保障から文化導入に変化。

倭から日本へ、大君から天皇へ、「新羅憎し」から新羅蔑視・脱半島へ。

新生日本の象徴が桓武天皇(母は百済人、妃の7人が百済人)による奈良の大仏建立(752年)→金採掘など百済人の技術を活用。天皇家と百済王家のつながりを示す記録は抹殺。