縄文人の反乱 日本を大事に

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●北ノ庄城( U^ェ^U )柴田勝家 ▲

2014年02月22日 21時36分53秒 | 色んな情報

●北ノ庄城( U^ェ^U )柴田勝家 ▲
◆http://d.hatena.ne.jp/shibaracu/20131010/1381357609
 
◆福井城(ふくいじょう)http://p.tl/hYa2
福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。
江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。
なお、福井城が築城される以前に同地に存在した北ノ庄城についても合わせて記す。
 
◆柴田氏北ノ庄城   http://p.tl/BQ6t
柴田神社(北ノ庄城址)に展示されている北ノ庄城復元模型

朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによって築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。

平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
 
◆きたのしょうじょう【北ノ庄城】日本の城がわかる事典
福井県福井市にあった安土桃山時代の平城(ひらじろ)。織田信長は1573年(天正1)に朝倉氏を滅亡させた後、朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)を守護代職に任命して越前国を統治させようとしたが、長俊は1575年(天正3)に一向一揆勢により討ち取られた。この一揆勢を平定したのが信長重臣の柴田勝家で、その功績により越前国北ノ庄を与えられ、同年、自身の縄張りによる居城の築造を開始した。この勝家の居城が、織田氏の北国支配の拠点となった北ノ庄城である。9層の天守をもった巨大な城であったといわれている。1582年(天正10)、本能寺の変で信長が死去すると、勝家と明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、両者は翌1583年(天正11)に賎ヶ岳の戦いで激突した。敗れた勝家は北ノ庄城に籠城し、城に火を放って妻のお市の方(信長妹)とともに自害した。このとき、北ノ庄城の多くが失われたとされるが、その後、青木一矩が同城に封じられたという記録も残っており、どのような経緯で廃城になったかは明らかでない。関ヶ原の戦い翌年の1601年(慶長6)、福井藩(北ノ庄藩)の初代藩主となった結城秀康(家康二男)は、北ノ庄城の跡地に新たな城(福井城)を築いた。そのため、勝家時代の北ノ庄城の遺構は現存していない。また、1993年(平成5)、6次にわたる発掘調査が行われ、北ノ庄城の本丸跡といわれてきた柴田神社の境内から石垣と思われる石が出土したが、城の正確な位置も特定できていない。JR北陸本線福井駅から徒歩約10分(福井城址)。◇北庄城とも記される。
 
◆越前 北庄城(北ノ庄城)http://p.tl/RUJy
・現地の状況
 北庄城といえば、柴田勝家が築城し、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの敗戦で羽柴秀吉軍によって攻められ落城・炎上した城が思い起こされる。

 北庄城の歴史は柴田勝家の時代から遡ること更に約100年、文明年間に朝倉貞景の二男・頼景によって館が建てられた時に始まる。
 しかし、朝倉頼景の館や柴田勝家の北庄城の位置は定かではない。北庄城の場合は福井城の南、約500mの柴田神社付近に石垣の根石と考えられる石が発見されたことから、柴田神社付近が本丸跡と推定されている。

 現在の柴田神社は繁華街の一角にあり、まさに平城。当時信長が琵琶湖を背にした平山城の安土城を築き、家臣の明智光秀が水城の坂本城を築いた時代にあって、柴田勝家は足羽川の湿地帯を利用した地形に築いたであろうことは容易に想像がつくが、現在の地形からは窺い知ることはできない。

 柴田神社の一角には、北庄城の石垣(根石)の一部が保存されており、北庄城時代の石垣は江戸期になって結城秀康による福井城築城によって取り壊されたと推定されている。
 
◆北ノ庄(きたのしょう)城の戦い  http://p.tl/dqNo
賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、本拠である越前国北ノ庄城目指して敗走したが、秀吉はすぐに堀秀政を先鋒として柴田勢を追撃させた。賤ヶ岳の合戦の勝敗が決したのは天正11年(1583)4月21日のことであったが、秀吉はその翌日の22日には前田利家の拠る越前国府中城に入り、利家と合流している。
利家はそれまでは勝家の与力大名であったが、賤ヶ岳の合戦の最中に勝家のもとを離れ、秀吉に与することにしたのである。この北ノ庄城攻めでは、その忠誠心を試されることとなった。
北ノ庄城は福井平野の東部、足羽川流域と北陸道とが交差する要衝に位置し、九重の天守閣を持つ壮大な規模の城だった。天正3年(1575)より築城を始め、この頃でも工事途中か、完成して間もない頃といわれている。
4月23日、利家・秀政を先鋒とする羽柴勢によって北ノ庄城は完全に包囲された。このとき秀吉は、賤ヶ岳の合戦で捕えた佐久間盛政と勝家の子(養子とも)・勝敏を晒し者にして城兵の戦意を喪失させたという。
その頃になると柴田勢の兵はほんのわずかしか残っておらず、すでに死を覚悟していたようである。はじめのうちこそ城中から鉄砲が撃たれたりしていたが、やがてはそういった攻防もなくなり、城中では夜になってから最期の酒宴が開かれたという。
翌24日、早朝から羽柴勢の攻撃が開始され、午後4時頃に城に火がつけられた。その猛火の中で勝家をはじめ、その夫人であるお市の方や家臣たちが切腹し、九重の天守を持つ城は陥落、炎上して灰燼と帰したのである。
お市の方の前夫・浅井長政との間にもうけられた3人の娘は庇護され、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘・麻阿も救出された。

こうして秀吉は、山崎の合戦で織田信長の弔い合戦を演じ、今また織田家の筆頭宿老であった柴田勝家を破り、信長の後継者としての地歩を固めたのである。
勝家と同盟していた織田信孝は兄の織田信雄に岐阜城を包囲され、5月2日に自刃した。また滝川一益も、所領の北伊勢5郡を差し出して秀吉に降った。これにより秀吉は近畿・北陸をその勢力下に収め、中部地方にも楔を打ち込むことに成功したのである。


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