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●鬼(おに)●陰陽道(おんみょうどう)

2012年07月17日 07時28分14秒 | 色んな情報
●鬼(おに)●陰陽道(おんみょうどう)
★鬼(おに) [ 日本大百科全書(小学館) ] http://p.tl/fuu5
人間生活を脅かす醜悪怪力の想像上の妖怪(ようかい)。
今日の私たちが空想に描いている地獄の赤鬼青鬼などの共通像は、額に角(つの)をもち、口には牙(きば)、腰に虎(とら)の皮の褌(ふんどし)をまとって非常に荒々しい性格とされているが、これは古来からの姿ではなく、仏教や陰陽道(おんみょうどう)の悪鬼夜叉(あっきやしゃ)や羅刹(らせつ)などの影響で、徐々に変化してきたものである。
『往生要集(おうじょうようしゅう)』の思想普及で、地獄の鬼も絵解きとともに画像化された。
民間信仰の風神や雷神なども、同じイメージにとらえられている場合が多い。
「鬼」の字義には、本来は死者の魂の意味があり、語源的にも十巻本『和名抄(わみょうしょう)』には、「……或説云於邇者隠者之訛也、鬼物隠而不欲顕形故以称也」(或(ある)説ニ云フ於邇(おに)ハ隠(おん)者ノ訛(なまり)ナリ。
鬼物ハ隠レテ形ヲ顕(あらわ)スコトヲ欲セザルノ故ヲ以(もっ)テノ称ナリ)とあって、隠れて人間にみえない精霊と考えられていたから、とする説もある。
時代的にも種々の観念で把握されている。
『日本書紀』神代・景行の条では、皇威に従わぬ種族を、邪鬼(あしきもの)、邪神(あしきかみ)、姦(かだま)しき鬼と記しているし、欽明(きんめい)天皇条では人にたたる幽鬼になっている。
『万葉集』では鬼を醜(しこ)と訓ずる歌もあり、モノ(物の怪(もののけ)、悪霊)とする意もある。
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』大原郡条の一つ目の鬼は、佃(たつく)る農夫を食べてしまうという、他界の畏怖(いふ)すべき超人者に考えられている。
上代文学に表れたこれらの性格を総合してみると、恐るべき他界者の意義を中心に、(1)異形醜悪、(2)超人超能力者、(3)邪神、(4)亡者、(5)異族など、およそ後世の広い意味のすべてを胚胎(はいたい)していることになる。
里の住人が、人跡未踏の奥山の世界を恐れ、その不思議な現象に鬼の超人性を感じたのが、中世以降の仏教思想の庶民化とともに一般に普及した。
これが今日に固定した鬼のイメージであろう。この他界にあるモノを調伏(ちょうぶく)するために、聖(ひじり)や修験者(しゅげんじゃ)たちが、山に登り修法を勤めたのが古代後期である。
山伏(やまぶし)の祖たる役行者(えんのぎょうじゃ)の鬼退治伝説が語られ、その崇(あが)められた像には前鬼後鬼(ぜんきごき)が伴われるようになった。
平安期以降では、節分や修正会(しゅしょうえ)の結願に追儺(ついな)が、「鬼やらい」として行われた。
『蜻蛉日記(かげろうにっき)』に、「儺(な)やらふ儺やらふ」と騒いでいる情景が描かれている。
児童遊戯の「鬼ごっこ」は、鬼やらいの作法の模倣の伝承である。
災厄をもたらす鬼の目を豆でつぶすという俗信もあるが、幸福をもたらす鬼の例も少なくない。
民間に訪れるまれ人神にも鬼のイメージが重なってくるようになる。
神戸市長田(ながた)神社や京都吉田神社の追儺式など、おどけた鬼や善玉の鬼も多い。春の民俗儀礼における秋田のナマハゲや岩手のスネカなど、小正月(こしょうがつ)に訪れる鬼は、子供たちには恐れられるが、すべてその年の実りのための神霊の具象化である。
それらの鬼が神事芸の舞台にも登場して、郷社祭礼の主人公を務めている場合もある。
福井県鯖江(さばえ)市の親子鬼は、自分で豆もまくし、姫路神社では鬼が厄払いをする。
能登地方の寺々では、山ではなく海から鬼が訪れて鎮魂をすると信仰している所が多い。
これらの善玉の鬼は精霊としてのそれを考えたものである。
また、現世に恨みを残して無残な死を遂げた御霊(ごりょう)を鬼とみる地方もあり、これを鎮める供養(くよう)の民俗行事もある。
鬼は疫病神としても恐れられた。平安京で行われた道饗祭(みちあえのまつり)や四角四境祭(しかくしきょうさい)は、それら鬼の侵入を防ぐ行事で、農村の境で塞(さい)の神によって外からくる疫病を防いだ民俗信仰が陰陽道と習合したものである。
この種の災厄を、御霊の祟(たた)りとし鬼の所業と定めたのは陰陽道である。
その影響もあって、中世の能楽の世界でも怨霊(おんりょう)や冥土(めいど)の鬼に定義づけられたものが多い。
今日の悪玉としての鬼のイメージの完成は、多くの英雄叙事伝説のなかから固定してきたといえよう。
治安の乱れで横行した山賊とか、奥山に土着してしまった山窩(さんか)なども、姿の見えぬ一般人には混同されて、山塞(さんさい)に立てこもる鬼とか化け物(天狗(てんぐ)などもその一類)として、種々の話題を提供する。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が鈴鹿(すずか)山の鬼女と闘った伝説をはじめ、渡辺綱(つな)が退治した羅生門(らしょうもん)の鬼、大江山で退治される酒呑童子(しゅてんどうじ)も、婦人をかどわかしたり金品を襲う山賊である。
謡曲『田村』『羅生門』『大江山』に脚色され、中世ごろから人口に膾炙(かいしゃ)した鬼たちであろうが、すでに山奥に住むこれら悪玉のイメージは『今昔物語集』などの説話の世界でも語られていた。
謡曲『紅葉狩(もみじがり)』は信州戸隠(とがくし)山の鬼女であるし、『鉄輪(かなわ)』の後シテ京女の生霊も『葵上(あおいのうえ)』『道成寺』に同じく嫉妬(しっと)のあまり鬼女と化している。
これらの伝説の芸能化による主人公ばかりでなく、昔話の世界にも同じイメージの鬼は多い。
『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』で爺(じじい)の瘤(こぶ)を預かるのは、昔話「瘤取爺」の類型。
伝説と同じく昔話でも鬼退治はその主人公の偉業礼賛の重要なモチーフで、「桃太郎」「一寸法師」など、だれでも知っている民話のなかに、日本人の代表的な鬼の固定観念を定めた。しかし昔話にも恐ろしい鬼ばかりでなく幸福をもたらす類もある。
山姥(やまうば)や天狗なども、鬼に同じく善悪両様に考えねばならぬ場合が多く、その点でも他界の精霊と邪神の性格を、民俗信仰の世界に投影して、鬼の歴史を吟味すべきであろう。
[ 執筆者:渡邊昭五 ]

★陰陽道(おんみょうどう)http://p.tl/Iz2E
陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。
これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じ。
「おんようどう」「いんようどう」とも。
古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系である。
陰陽道に携わる者を陰陽師とよんでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために御払いをするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。
陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。
★陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)http://p.tl/cNz3
古代日本の律令制下に於いて中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術や呪術、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。
現代においては民間で私的祈祷や占術を行う者と定義付けられており、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が連声化して「おんみょうじ」となった(「陰」は中国語中古音で「qim」、中世日本語音で「wom」なので、連声化するとま行の音になる)ものとされ、また「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目に揚音があったと言われている。
★陰陽寮(おんようりょう、おんようのつかさ、おんみょうりょう)http://p.tl/Hdgx
日本の律令制において中務省に属する機関のひとつ。占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署。「うらのつかさ」とも。
四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。
 
★天文道(てんもんどう)http://p.tl/aMYZ
天文現象の異常(天文異変/天変現象)を観測・記録し、その地上への影響について研究する古代の学問。陰陽寮で教えられていたものの一つ。
今日で言う天文学に相当するが、内容的には占星術の色合いが強く、科学とは程遠いものであった。
博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦3博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ。

★陰陽博士(おんみょうはかせ)http://p.tl/wWk7
律令制で陰陽寮に設置された教官の1つ。陰陽師を教育することを掌った。
定員1名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当。

★天文博士(てんもんはかせ)http://p.tl/U3CR
律令制の陰陽寮に設置された教官で天文道のことを担当する。
正七位下相当。定員は1名であるが、後に権官も設けられた。

★暦博士(れきはかせ)http://p.tl/YGuc
日本の律令制における官職の1つ。
中務省陰陽寮に属して、毎年の造暦(暦の作成)と改暦、日食の予測、暦生の教育にあたった。
定員1名(後に権官1名追加)・従七位上相当(ただし、後世では五位以上が慣例となる)。
和訓は「こよみのはかせ」。唐名は司暦・司暦正保。

★漏刻博士(ろうこくはかせ)http://p.tl/2Mtn
日本律令制において陰陽寮に置かれた博士。和訓は「ときつかさ」。
唐名は司辰・契壷司。定員2名で時には権官が置かれた。
従七位下相当であるが、五位・六位が任じられた例もある(『職源鈔』)。
仕丁から選抜された守辰丁(20名)を率いて漏刻を警備するとともに、時刻を計り、定時に守辰丁に命じて陰陽寮内に設置された鐘を撃たせた。
天皇の行幸の際には漏刻博士1名と守辰丁12名が漏刻とともに随従する義務があった。
もっとも、漏刻の技術は比較的早くに途絶えたとされ、院政期には賀茂氏・安倍氏の一員やその推挙する門人のための官職となる。
菅野季親・季長は漏刻ではなく、年筮の達人として漏刻博士となったとされる。
なお、大宰府・陸奥国(後に出羽国を追加)にも漏刻は設置されたが、博士は置かれずに守辰丁が管理していたとされている。

★暦道(れきどう)http://p.tl/B8_J
古代日本における暦を作成するための学問(暦学)のことである。
陰陽寮で教えられていたものの一つ。
『日本書紀』には、欽明天皇の時代に百済の暦博士が来日した記事が記されているが、本格的な暦学の伝来は推古天皇12年(602年)の百済僧・観勒の来日による。
従って日本の暦道の起源はここに求められる。

★具注暦(ぐちゅうれき)http://p.tl/iJ1A
日本の朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた暦である。
吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、注が具さ(つぶさ)に記入されているということで、このように呼ばれる。
巻暦の体裁で、漢字のみで記される。基本的には上段に日付・干支・納音・十二直などの基本的な項目・暦注が記載され、中段には二十四節気・七十二候などが、下段にはその他の暦注が記載され、半年分で1巻とされた(従って上下2巻で1年分となる)。
現存する最古の具注暦のうち、紙に書かれたものは正倉院文書の天平18年(746年)暦である。
奈良時代から、具注暦に日記を書く習慣が生まれた。平安時代には日記を書くために余白部分が拡大されるようになる。
藤原道長の日記が書き込まれた具注暦は『御堂関白記』と呼ばれ、国宝となっている。
鎌倉時代後期を過ぎると仮名暦の登場によって衰退するが、それでも公式の暦として重んじられた。
江戸時代には、実用よりも公家や大名の「ステータスシンボル」として作られることが多くなった。
明治改暦による太陽暦への移行によって仮名暦ともども廃絶した。

★御堂関白記(みどうかんぱくき)http://p.tl/QGRv
平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。
『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。




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