憔悴報告

All about 映画関係、妄想関係、日々の出来事。

映芸ライターさんからのありがたいお言葉(抜粋)

2007年02月02日 | 旧作映画(DVD・テレビ放映等)
○日本映画は元気がいいとみんなが言っているようだ。
久しぶりに興行収入で洋画を凌駕するかもしれない、というまでの勢いだ。
しかし、正直なところ、簡単に喜べない。
邦画のマーケットシェアが拡大してると言っても、全体のマーケットがこの数年間ほとんど横ばい状態だし、東宝という一つの会社が邦画のシェアの六割以上を占めている。
邦画の制作本数は急増しているが、その横ばいのマーケットがそれを支えきれるかどうかは疑問だし、多くの作品は採算が取れるような配給形態が保証されていない。
そもそも、テレビの資本のみならずその制作形態が主流になりつつあるコンテンツ産業化した日本映画界において、良い映画が生まれるかどうかはまだ心配だ。
少なくとも私にとっては、この状態に対して元気だと言いがたい。
 あまりにもビジネス側を配慮し過ぎて、創造する側―私にとってそれは作り手と受け手の両方を意味している―が軽視されている。
それはまた著作権の問題にも反映されている。
監督よりも企画が優先されているテレビの二番煎じの映画の世界に対しての、『映画監督って何だ』を製作した監督協会による危機感には納得する。
そして教育機関によるDVDの無断な複製を条件付きで容認するアメリカの著作権局の最大の寛容に比べて、特典がほとんど入っていないDVDを高値で売っている日本の映画業界と、受け手側のフィアユース(fair use)の権利よりも企業の権利を重視している政府機関等は、映画の長期的展望、特に次世代の映画観客と作者を育むことをあまり考えていないように見える。
この短期的な見解のままでは、いくら邦画が今「元気」であったとしても、長続きはしない。
          アーロン・ジェロー(映画研究者)

○尖った映画が少ない。
映画に対してであれ、現実に対してであれ、何事かを突きつけようという意気込みと、それに見合った技術を研ぎ澄まそうとする映画が少ない。
その中でも、エッジが立っていると感じられた作品を上位に挙げたが、これに続くのは、ドキュメンタリー作品のほうがふさわしいのかもしれない。
 つい先日、三原橋で『トゥモロー・ワールド』を見たが、ああいう映画が、なぜ日本ではできないのか。
監督のアルフォンソ・キュアロンは、物語の設定は近未来だが、自分は現在のヨーロッパを描こうとしたという意味のことを言っている。
確かに、あれは、たとえ今日ではなくても、明日には現実化しているヨーロッパであり、日本であり、アメリカであり、ロシア・・・である。
現在すでに、英国以上にヒドイ状態の日本で、どうしてああいう作品が構想されないのか。
 「映芸」は偏向しているから(笑)、まさか『紙屋悦子の青春』のような作品をベストワンに選ぶようなことはしまいが、しかし、他のメディアでは、そうなる可能性が高い。
むろん、あの作品は、やたらテンポののろい『フラガール』(あの程度の話は90分で収めよ!)だとか、シナリオの骨組みからおかしい『ゆれる』(作者の現実認識の浅薄さが露呈された!)などといったモノと較べれば、それなりにしっかり出来てはいる。
だけど、ほとんど現在性は不在であろう。
あるのは、1950年代的な厭戦思想である。
黒木和雄としても、『美しい夏、キリシマ』から、二歩も三歩も後退している。
戦中少年だった黒木の思いや良心的な姿勢は、よくわかるが、だからといって、あの作品の小春日和のようなぬるさを評価するわけにはいかないのだ。
残念なのは、そんな批判を黒木自身にぶつける前に、彼が亡くなってしまったことである。
         上野昂志(映画評論家)

○どうも90年代以降、外国映画も日本映画も新作のほとんどがおもしろくない。
かつてだっておもしろくない映画は山ほどあった。
ところが最近の映画のおもしろくなさは、単にツマラナイのではなく、観ていて腹が立つか疲労感ばかり残るのだ。
量の多さではない。
質でもない。
映画産業が卑しくなったこと、それに携わる人に《品格》がないせいだ。
自分も「今の時代は」と嘆くオッサンになったのだとつくづく思う。
 とはいうものの、昨今の映画をおもしろくないと感じるのは、自分が今まで観てきた映画と90年代以降の映画が、まったく別のものであることに起因しているせいじゃないかと思う。
CGの出現だけにとどまらず、おそらく映画はどこかでトーキー出現以来の大変革をしたのではないか。
いや、トーキーは映像といえば映画しかなかった時代の中での変革であったのだから、映画以外の映像という選択肢のある現代で、なにが映画であるのかを定義しないまま、「これは映画ではない/これこそ映画である」という言い方ができるものなのか。
「小説ではない」と言われている《ケータイ小説》もやがて《文学》と呼ばれ、主流にさえなる時代はそう遠い未来のことではない気がする。
いいか悪いかではない。
作り手も受け手も産業の形態も時代の変化で変わってきているというだけのことだ。
(中略)
 昨今の日本映画のヒットは、頭の悪くなったガキが字幕を読む技術さえなくなって、日本映画を観ているだけで、テレビ局の大量宣伝に洗脳され、お話のつじつまや技術なんかどうでもよくて、話題を共有したいだけでしょ。
安い感動の大安売り。
政府の認許可が必要な事実上独占事業であるテレビ局が大量にスポットを打ち、自社番組に自社製作の映画関係者を連日出演させているんだから、既得権を持つ大メディアが強いのは当然。
ライブドアに買収されかかって、公共性を訴えたテレビ局の正体は所詮こんなものだ。
ならば、ミニシアター系が生き残るにはキャラ萌えしかないでしょ。
ヒットの正体がそれなら、映画評論家が下す評価も同じようなものだろう。
          木全公彦(映画評論家・ライター)

○日本語が死にかけている。
「知識人」がいかに正しいことを言っても「大衆」はついてこない。
かくて改憲への「外濠」は埋められた・・・。
驚くことはない。
「知識人」を含めて、だれも言葉を信じていないのだから。
受け手や下の世代のせいにしても始まらない。
言葉と現実(身体)との関係を、ねじくりかえすような作業が必要なのだ。
それに敢然と挑む二つの作品に出会った。
宮沢章夫作・演出の芝居『鵺/NUE』と、青山真治の映画『AA』である。
いずれも昭和40年代に言及しているのだが、この時代をノスタルジー抜きに語る者たちがようやく現れた。
あくまでも現在、言葉を甦らせるために何を思い出すべきか、「他者」に言葉をぶつけて乱反射させてみること。
言葉の再生はひとりでできるものではないし、意識だけに頼って成し遂げられるものでもない。
         宮田仁(編集者)

○二年位前に、”映画評論家”の看板を掲げているのが、つくづくイヤになり、よほど義理のある媒体以外には原稿を書かなくなったのは、自宅に大量のDVDを溜め込んで、これを見ているだけでも十分余生の暇潰しができるなあと思ったからだ。
以前はおもしろい映画記事が巷には沢山あったが、おべんちゃら記事ばっかり書かされたり読まされたりするのは、もうイヤになった。
キネ旬に連載されていた山田宏一氏の「シネ・ブラボー」を読んで育った者にとっては、今の世の中、屑のような映画記事ばっかり氾濫しているようにしか見えない。
今は「映画秘宝」「シナリオ」と、これはお世辞ではなく「映画芸術」だけだ。
         野村正昭(映画評論家)


映画芸術 2007年 02月号

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