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【神社・鳥居】宇波刀神社の石鳥居と特殊祭祀石造物@山梨県北杜市明野町上手

2020-12-20 | 鳥居見聞録
 今回ご紹介するのは、北杜市明野町上手に鎮座する“宇波刀神社”にある山梨県では最古級の指定有形文化財の「石鳥居」と、たまたま境内で見かけた特異な祭祀形態の石造物の紹介です。
 宇波刀は、字名にもなっている“うわど”と読めますが正式には“うゆと”と読ませる様です。
まず目を引いたのは、トップ写真の社号標の脇に何気に鎮座している祠です。 良く見ると…。
左は注連縄と“鏡”。右には“石棒と丸石”らしきものが置いてあります。この地方で良く見かける祭祀形態で、何気ない祠ではありますが昔から人々に大切に祀られてきたものと推測できます。
こちらが山梨県では、最古と言われている明神石鳥居です。 
驚きなのは、この鳥居は県最古級どころか国宝級の鳥居かも知れない記載が柱に見られたことです。
 柱には、貞観六年(884年 平安時代)と記述されているそうです。(残念ながら未確認です。)貞観六年と言えば清和天皇の名代で富士山の大噴火があった年です。これがもし本当ならば、以前も紹介した山形市にある日本最古の「元木の石鳥居」 と、同レベルとなります。
石鳥居案内板(クリックして拡大)
 この石鳥居は12世紀後半(平安時代末~鎌倉時代初頭)に創建されたといわれています(14世紀代という異説もあります)。種類としては明神鳥居に分類され、高さ2.2m、幅1.9mとやや小ぶりで、太い柱と、どっしりした安定感のあるのが特徴で、県内最古級のものです。台風や地震で何回か倒壊し、現在、鳥居の一部は新しく作り直されていますが、古い鳥居の一部は神社に大切に保管されています。
 鳥居の柱には貞観六(884)年という年号が、また、神社に残された古い部材には、同じく平安時代の年号「大同」が刻まれていたといわれていますが、これらの年号は後に追刻されたものです。
 宇波刀神社は延長五(927)年にまとめられた『延喜式』にも記載された由緒ある神社です。また、この神社が古道である穂坂路(ほさかみち)に面していることも、この地域の歴史を知るうえで注目されています。
 (案内板より)
案内板によれば「後から追刻されたもの」と、決めつけていますが神社の由緒を見ると
 創立年代不詳なるも、貞観六年の銘がある石華表があり、又貞観八年三月二十八日従五位上に叙せられた旨三代実録に記載があり、又延喜式神名帳にも県内他の十九社と共に登録された式内社であることから、貞観以前の創建であると推定出来る。新羅三郎義光寛治七年当国へ任官の際素盞鳴命・倉稲魂命の二神を勧請合祀し、社領地を寄進せられたと云ふ。明治六年郷社に列せられ、同四十年神饌幣帛供進神社に指定せらる。昭和五十五年四月拝殿の改築と神楽殿を新築する。 (山梨神社庁より引用)
こちらの由緒では「貞観以前の創建」と、あるのであながち間違えではないのかも知れません。そもそも後になって建立日を追刻する意図が分かりません。
扁額には「宇波刀神社 諏訪大明神」と、あります。
由緒にもある様に、元は諏訪神社であったところへ素盞鳴命・倉稲魂命の二神を合祀し宇波刀神社となったのでしょう。(なお、同名字の神社がお隣の韮崎市円野町にありますが、こことどのような関連なのか興味のあるところです。)
 前置きが長くなりましたが、早速境内へと参りましょう。
参道と鎮守の杜

山梨の神社では、良く見かける注連柱と拝殿
境内に入りここで、初めて見る興味深いものをみつけました。
灯篭の手前に左右一対となって立っているもの

これなんだか分かりますか?
良く見ると鳥居の笠木部分の片側であることが分かります。

柱のほぞ穴部分が良く分かります。
鳥居のパーツを狛犬代わりに立てている例は、初めて見ました。たぶん全国探してもここだけだと思います。
ここで、思い出したのが石鳥居の案内書に「古い鳥居の一部は神社に大切に保管されています。」と、あったこと。しかしどう見てもこちらの方が新しそうです。
 とても興味深いものを見たあと更に、ここにはとても面白いものがありました。早く知りたいとは思いますが、ひとまず境内を散策してみましょう。
神楽殿 質素な造りではありますが五色の紙垂を飾り今でも奉納舞が行われているのでしょう。
この地方の神社には、例え小さな郷社であっても必ずと言っていいほど神楽殿(舞台)があります。
こちらは、覆い屋の中にあった本殿です。
祭祀:建御名方命、伊弉諾命、伊弉冊命、素盞鳴命、倉稲魂命 
扁額に記載されていた様に、もともとあった諏訪の神様へあとから合祀されたものと思われます。
お待たせしました。
ここには、もうひとつ興味深いものが境内奥にありました。
ん!?…。なんでしょう?

祭壇に整然と並ぶ石造物群
これは、どうみても縄文の遺物「石棒と石皿」です。
博物館に展示されてもいいほどの立派な考古資料ですが、なぜにこれがここに?
何かしらの祭祀を目的とした祭壇と思われるのですが、今後の研究課題として何か分かりましたらご報告したいと思います。
 現在、北杜市~韮崎市にかけていろいろな神社を巡っているのですが巡るたびに新たな発見があったりと興味は尽きません。
折を見て、図書館に出向き文献調査など行うつもりです。
【マップ】


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