今回は、中央道甲府昭和インターよりすぐの“風土伝承館 杉浦醫院”へと赴いて施設内見学とガイドの方よりいろいろご教授頂いて参りましたそのご報告です。
風土伝承館 杉浦醫院は、かつて(とは言っても撲滅宣言が出されたのは、まだ最近の1996年)甲府盆地を中心に蔓延し謎の奇病と恐れられていた風土病(日本住血吸虫症)を独自に研究しその治療法~撲滅へと大きく貢献された医師“杉浦健造、三郎”父子の二代に渡るその業績を顕彰し伝承して行くため当時開業していた医院と母屋を一般公開 した施設です。
今まで、自分は風土病と聞くと何処か未開の国の話だと思っていました。
しかしその奇病が甲府盆地を中心に蔓延していたことを山梨に移住して来て初めて知りその事実に驚き、その治療の最前線だった医院が現在も残され一般公開されている事を知り満を持してようやく訪れることが出来た次第です。
感染すれば死に至らしめる治療法はおろか原因さえ不明のこの謎の奇病が甲府盆地の特定の地域だけに蔓延していて、ようやく原因究明の調査が始まったのは明治14年(1881)の事でした。
日本住血吸虫
(常に雌雄一体になって生息。体長は♂が9-18 mm、♀が15-25 mm )
その後、この奇病が「日本住血吸虫」という寄生虫によって引き起こされていることが地元の医師や数多くの研究者たちに寄って解明されたのが明治37年(1904)のこと。しかし当時未だ感染経路は謎のままでした。
感染サイクル(出典:当日頂いた資料より クリックして拡大)
感染経路は、二通りの仮説が考えられました。一つ目は飲料水からの「経口感染」説、二つ目は皮膚からの「経皮感染」説でしたが当初は誰も飲料水からの感染と信じて疑わず煮沸して経口するようにとの指示が出されました。
しかし、それでも感染は収まらなかった事から多方面よりの研究が続けられ明治42年(1909)ついに皮膚からの「経皮感染」である事が突き止められました。
今まで、自分は寄生虫感染と言うと生の魚介類や肉類、生野菜の摂取 などの経口感染だけかと思っていました。しかしこの寄生虫はなんと!皮膚から体内に侵入するのです。これは衝撃的事実でした。
ただ、人や動物からの糞便から出た日本住血吸虫の卵が孵化したのち水中でどのように発育し幼虫となり再び人間や動物の皮膚へと感染するのかは、謎として残ったままでした。
実験を繰り返して行く中、糞便から出て孵化した状態の幼生(ミラシジウム )は水中では生育できず全数死滅する事から、人間の皮膚への感染に至らしめる幼生(セルカリア)へと至るための何らかの「中間宿主」の存在が必要であると考えられました。この「中間宿主」の解明に尽力を注いだのが杉浦健造医師です。自宅の敷地内に試験用の田畑を作りいろいろな実験や考察が行われました。当初、一般に田畑などに生息する「カワニナ」が中間宿主として考えられたそうですが立証には至らなかったようです。
ミヤイリガイ 1センチにも満たない小さな淡水巻貝です。
(写真は、杉浦医院にて採取飼育されているもの)
そして、大正2年(1913)九州帝国大学の宮入慶之助氏と助手の鈴木稔氏が 新種の巻貝(のちにミヤイリ貝と命名)を発見。その巻貝にのみ寄生しその体内の中で成長する幼生(セルカリア)が感染源である事が立証されました。
同じ淡水巻貝の中でもこの新種の「ミヤイリガイ」にのみに寄生し生育するメカニズムは、以後現在でも世界各地で見られる寄生虫学の礎となっているそうです。
インパクトのある当時の啓蒙ポスター
その後、杉浦健造医師は、治療を続ける傍ら正しい知識を伝えるべく住民に啓蒙活動を続けますが一向に減らないこの病気を根本的に根絶するには、中間宿主でもあるミヤイリガイを撲滅するしかないと考え色々な駆除する手段の研究を重ね昭和8年(1933) 健造医師が亡くなるとその意思は娘婿三郎医師に引き継がれ昭和24年(1949)に創設された「山梨県立医学研究所」(後の山梨県衛生環境研究所)の初代地方病部長に就任し、行政、医療関係等、各方面との調整役を務めるなど戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たされました。
行政と地域住民によるミヤイリガイの撲滅活動は終息宣言が出されるまで実に70年以上継続されていくことになります。
生石灰から石灰窒素の散布・アセチレンバーナーによる生息域への火炎放射・アヒルなど天敵を使った捕食・PCPと言う薬剤による殺貝・用水路のコンクリート化など。
あらゆる手段を駆使してミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け親から子へ、子から孫へと世代を越え引き継がれようやく平成8年(1996)終息宣言が出されました。原因着手に乗り出してから実に115年もの月日が経過していました。
地方病流行終息の碑(杉浦醫院敷地内)
杉浦醫院は、三郎医師が亡くなった昭和52(1977)閉院となり、昭和町では地方病の研究・治療に生涯をかけた健造、三郎両医師の業績、病気に立ち向かった先人達の足跡を後世に伝承していくために建物を整備し平成23年(2011)に、『昭和町 風土伝承館杉浦醫院』として現在に至っています。
建物内は、備品など当時のまま残され見学する事が出来ます。
我々が訪れた際は、他に誰もいらっしゃらなかったのでガイドの方が施設内を丁寧に案内して頂けました。
待合室(連日たくさんの患者が訪れたとか。待合室に入りきれず札版で順番待ちをされていたそうです。)
薬剤室(薬剤関連の方が来られるとここだけで1時間ぐらいしっかりと見られているそうです。)
薬剤調剤室(当時の貴重な薬剤や薬袋などが残されています。)
駆虫薬スチブナール アンプル(特効薬だったそうですが、体中の関節の激しい痛みや嘔吐など、重い副作用 があったそうです。)
診察室(当時の備品や観察記録など数多く残されていました。)
観察記録(一日ごとの成長過程のサンプル)
休憩室(杉浦医師はこちらで過ごされる時間が多かったそうです。)
レントゲン室(当時の機材を知る上でも貴重なもの)
応接室(置かれていたピアノは貴重なもので、平成天皇がお生まれになった記念に、限定100台製造された特別なものだそうです。調律もされコンサートも開かれているとか。)
敷地内にあるギャラリー(民具や郷土資料などが展示されています。)
敷地内にある池
医院錬の二階では、映像資料を自由に観る事が出来ます。
以下は、紹介ビデオになります。
昭和町風土伝承館
(☞参考記事) 地方病 (日本住血吸虫症) ウィキペディア
(☞関連リンク) 昭和町風土伝承館 杉浦醫院 (公式)
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