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【神社】諏訪大神社(宇津谷諏訪神社)のご神体石(石棒)@山梨県甲斐市宇津谷

2021-08-08 | 神社・仏閣
前回の船形神社へ訪れたあと、たまたまマップを見ていたら中央本線を超えた北へ200mほど行った場所に当神社の名を発見。ついでに寄ってみようという流れで訪れた一社です。
車がようやく入れる程の住宅地の裏路地に鎮座しています。
鳥居の扁額には、「穂坂惣社」とありましたが(トップ写真)この件は後述するとして、案内板に興味深い記述がありました。
何でもこの神社のご神体は“石棒”を祀っているとかで、たまたま訪れた一社ではありましたが、なかなか面白そうな神社のようで少し調べてみる事にしました。
鳥居の横には、お約束の丸石神

隋神像一対 なんとも表情が可愛らしい。

狛犬一対
拝殿 思いのほか広い境内と立派な社殿に驚き
本殿 裏山は竹林となっていました。
祭祀:建御名方命 
由緒:正しくは、穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪 大神社と謂う。
第十二代景行天皇御名を大足彦忍代別尊と言い第三 皇子小碓命又の名倭億久名命が倭建命と言われ三 世紀末から四世紀始めにかけて、大和朝廷のために名を馳せ活やく 甲斐に入り、甲斐国志による、北山・武川・逸見の賊 を平定して、宇津之宮村藤塚一〇一六番地に賊徒の再 び起らぬよう平穏を祷り倭文神社に伊弉諾大神・ 伊弉冊大神・天照皇大神・月読媛大神・ 素戔嗚大神を併せ祀ったのが始まりで、藤塚の西南 の地に吉備彦命・大伴武日命と警護の兵を共 に、一時期すごしたであろう所を初在家(現初座池)と 稱し地名として今に残っている。奥殿に祀られている 石神倭文神社のうらに大同二年(八〇七)とあり建保 五年(一二一七)御脩複と元亀二年(一五一七)武田信玄公 再建の棟札と頭椎の剣など御神宝の数々と天正十年 三月(一五八三)織田・徳川連合軍の攻撃を予知して逸早く いづこかに秘匿して、今に残る建保・元亀の棟札はまことに 貴重である。又武田信玄公が元亀二年再建のとき武田家の守 護神、諏訪大明神と庄内の神々を併せ祀りこの時拾五社大 明神と奏され尚信玄公より下された御朱印状が今は行方不明である。 御朱印社領壹石九斗余、社地五千四百六十坪と慶長八年癸 卯三月朔日(一六〇三)家光・慶安二年十一月十七日(一六四九)及び貞 享二年六月十一日(一六八五)綱吉・享保三年七月十一日(一七一八)吉宗 そのほか延享四年(一七一四)宝暦十二年(一七六二)天明八年(一七八八) 天保十年(一八三九)安政二年(一八五五)万延元年(一八六〇)と数多 くの徳川幕府より社領安堵の御朱印状が下されている。
茲に注目したいのは、日本武命が當社を草創したのは四世紀初頭で あり平成四年の現在、創建より実に一五九〇余年の歴史を有する 貴い古社である。(境内由緒書より)

案内板・由緒(写真をクリックして拡大)
創建はヤマトタケルと伝えられていますが、注目したいのはトップ写真の“穂坂惣社”という社名です。
ここの正式名称は「穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪大神社 」と言いかつては、韮崎市穂坂地域の中心的な神社“惣社”だったようです。
 同地域の代表的な神社と言えば、以前も当ブログで紹介した倭文(しずり)神社ですが、ここは式内でもある同神社の論社のひとつで、住宅街の一画にある目立たない当社ではありますが、なかなか興味深い一社と言えます。
ここには、信玄公による再建の棟札が残っていて、武田氏の崇敬熱い諏訪神と地主神を合祀し現在に至っている様です。 
 気になるご神体石の石棒ですが、高さ42㎝直径20㎝と、かなり大きそうです。( こちらに写真が掲載されていました。)
表面には「倭文神社 大同二年(807)」と書かれているそうですが真偽は定かではない様です。
縄文時代中期の祭祀に用いられたとされているものを御神体にしたと考えられているそうですが、写真を見る限り良く見る石棒とは異なるように思えます。
 
境内に祀られた祠群

境内裏手に残る登り窯跡 江戸時代後期頃の窯跡で、甕やすり鉢、椀などが出土されているそうです。(写真をクリックして拡大)
【マップ】


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